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生き残っていこーぜ

天気が良かったので日の当たるカーペットに横になっていたら虫の羽音がした。目線をやるとカメムシだった。
ばふん、とカメムシが逃げぬようにくたびれたクッションで蓋をした後で確認も出来ず、なんとなくおそろしくなり自室に言葉通り逃げてきた。

生き残れ

鬱病の再発により1ヶ月の休職を経て退職し気がつけばとうに7ヶ月経っている。目減りしていく通帳の残高と反比例するように増えていく処方薬の副作用でぐったりと硬いベッドと毛布の間に体を差し込みiPadで今この記事を書いている。
今年の2月に発達障害の検査をして、不注意型のADHDと軽度のASDであった事が判明した。同時に発達障害は先天的な脳の特性であり、投薬などによって治療し治る病気ではないという事も知った。
基本的には自身の特性を理解し、スケジュール管理が出来ないことや集中が続かないという困りごとに対してリマインドアプリやツールなどを使用して工夫して生きていくことが発達障害での困りごとを軽減する対処療法であった。
視力に問題があれば眼鏡などの視力矯正補助具を使用する、自身も眼鏡ユーザーなのでわかるがこれが無いと運転はおろか日常生活にも支障が出る。眼鏡をかけている間だけ私は人並みの視力を手に入れることができる。
この時眼鏡を自身の手で支えたりなどの必要は無い、眼鏡は頭部に固定する為のパーツがあり手放しで快適な視界を手に入れることができる。
発達障害は脳の特性が凸凹である事で出来ることと出来ないこととの差によって困りごとが発生する。発達障害の困りごとを軽減する際のアプリやウェアラブルメモなどは外付けの補助具ではあるが、眼鏡のように身につけただけ・インストールしただけでは機能しない。
ユーザーである私がリマインドの為に日時とメモを入力し、買い忘れをしないようにメモをする手順が必ず必要になる。
私の場合は脳のワーキングメモリが少なく、一度に多くの情報を処理することが出来ない。なので一度情報をリマインドアプリやメモにアウトプットすることで一時的にワーキングメモリを確保し、なんとか予定を忘れずにまわしている。
ひどい時はアウトプットする余力すら無く、後回しにしてワーキングメモリに空きが出来た頃にはリマインドしておく内容やそういった出来事があること自体意識の外に飛んでしまう。
補助具を持っているはずなのに、補助具を使うことを意識しておかねば補助具が機能しない。非常に難儀な特性である。
早い時期では小学校低学年くらいから自分はなんとなく他の子達とは違うことにぼんやりと気づいていた。しかし知能に遅れは無く、友人たちともコミニケーションは円滑に行えていたし特に困っているというような事は無かった。
ただ一点だけ、自分は歩き方が人とどこか違うという違和感だけが形容し難いコンプレックスであった。
後で知った事だが、発達障害者はつま先で歩いたりすり足気味になったりなどと独特な歩き方をする傾向があるらしい(独特な歩き方をするからと言って発達障害とは限らない)
何度も親に歩き方がおかしくないかと尋ねていたのは、自分の歩き方は正常であると第三者から言ってほしかったのではなくおかしい事に共感してもらい矯正の機会を作りたかったのだろう。母は「何もおかしくないよ」と言って私を安心させようとした。私はその度にこの人と違う歩き方は何なのかわからないまま矯正の機会は訪れず、摺り足が上手で何もないところで躓きやすい大人になった。
典型的な幼少期発達障害エピソードを開示するとすれば、家族で出かけた先で興味の赴くままに移動しだし迷子となり、自らの足で迷子センターへ向かい迷子センターのお姉さんの膝の上に座りチョコを食べていた。他にも幼稚園のトイレの時間で1人だけトイレから帰ってこず、探しに行ってみればトイレでスリッパを綺麗に整列させていた。
母は片付けのできるいい子だとの評価を大変気に入ったようだが、これはただのASDでよく見られるおもちゃなどを自分のこだわりを基準に並べる行動の一つであったと私は思う。

勝ち残れ

小学校も中学年になると2個下の妹が入学し、放課後など下校後は共働きの両親に代わり妹の面倒を見ていた。妹はいわゆる知恵遅れと言われるグレーゾーンの知的障害者だった。
大体はテレビをつけ本人の見たいアニメを見せていると彼女の機嫌は良かった。お腹がすいたといえば袋麺のラーメンを調理し、再放送の水戸黄門を見ながら食べた。
この頃の私は妹の知的障害というものを正しく理解しておらず、勉強が苦手なだけで勉強をすればこいつも人並みに賢くなると思い込んでいた。
妹は支援級でなかった、その理由はグレーゾーンだから支援級に行くと他の障害児達が困るというよくわからない理由とグレーゾーンですし通常クラスでも大丈夫でしょうという無理解な担任の言葉で妹は追いつけない授業に苦しんでテストの点を父に叱られた。
当時母から「妹は人より勉強に追い付くのが苦手で、大人になっても小学5年生のままなの」と言われた時、小学3年生の私は何も問題はないと思っていた。知恵が遅れているのであればいつかそれは追いつけるものと思っていた。だが現実はそうではなかった。
来年三十路を迎える妹のIQは70台、小学高学年相当でそこから何年経っても知恵遅れはリレーで言えば何周も遅れたまま皆小学生どころか高校生のレーンをとっくに走り終え、りっぱな大人になっていた。私の視界では小学生のレーンの中で妹だけが楽しそうにしている。フケのついた長髪をツインテールにしてアニメを見ながら食事をする妹がアニメの登場人物に話しかけながら夕食を口にする。
何年経っても何歳になっても小学生以上になれない妹の世話がヤングケアラーだったのではないかと気付いたのはつい最近であった。
大学進学をし、地元を離れて京都の大学に進学した。当然だが周りには自分と同じ程度かそれ以上の賢い人間で溢れていた。互いの興味に対して否定せず意見を言い合え会話が成立する、当時日本でもサービスが開始されたTwitterにもハマりさまざまな年代、所属、趣味の人間と語り合うのが日常になった。とても楽しかった。好きな話をして通じる、わからないからと言って癇癪を起こさない、どこか行きたい場所を提案すると乗ってくれ旅行にも付き合ってくれる。家族は妹の機嫌一つで全てが動いており、旅行など少しでもアニメが見えない環境に長時間置かれると妹は癇癪を起こし、運転席の父の背中を蹴り父は危険だからと怒り大声を出し、妹はその大声によって泣き出し、母は妹と父を宥めた。
私は車の窓から外の風景を見ながら車から降りたいという妹をここに置いて家に帰れば、誰かの機嫌に左右されない普通の家族とお姉ちゃんなんだから我慢しなさいという呪いから解放されるんだろうかと考えていた。大抵しばらくすると妹は泣き疲れて大人しくなり、母の持ってきたお菓子とジュースを手にかろうじて癇癪を起こさない程度に機嫌をなおした。
京都という立地もあり、よく一人旅をするようになった。妹のいない旅行はこんなに楽しいものなのだと、初めて旅行の楽しみを知った。
大学1年の冬に父がかねてより闘病していた肺がんにより亡くなった。
幸いにも大学は卒業まで行けたが就職に失敗し、地元へ帰ることになった。

成り上がれ

地元を離れた4年間のうちに妹は高校を卒業し、介護の資格を取ったらしい。正確には母が座学受講のみで取れる資格を取らせたのだが、妹はニートになっていた。母が仕事に出ている間、我が家には無職の娘が2人何をするでもなく日々をただ浪費していた。
大学4年生の時にうつ病になり、地元に戻ったことで通院先が変わった。病院の予約も自分の困りごとも自分で説明し、処方された薬の副作用がきついので他の薬に変えたいなどの相談もした。
妹はその頃療育手帳を取得していた、うちの地元は車社会で高校卒業と同時に運転免許が必要になるような小さな都市だった。例に漏れず私も大学の夏休みなどを活用し運転免許を取ったわけだが、妹は実技はおろか学科試験すら通れず、身分証になるものが必要だった。
全て母のお膳立てにより発達検査の予約や申請手続きを済ませた妹は大変不本意そうな顔で療育手帳を取得した。
20歳を過ぎても病院の予約など自分で出来ない妹を疎ましく思う反面、羨ましくもあった。母からすれば私は勉強はともかく料理やパソコン、趣味の絵など自分でなんでもやる子だった。何でも出来るようにならなければ妹の世話が出来ず、使えない姉として見られるのがこわかった。
結局その後就職した先で客からのセクハラなどでPTSDになり幻聴や不眠に悩まされた時も私は自分で病院を探し1人で通院していた。母は一度も病院に付き添ってくれた事も私の苦しみについても寄り添う事はなく、エビデンスの無い民間療法を私にすすめ投薬治療をやめさせようとしていた。
幻聴や幻覚に悩まされながらもなんとか働いていた頃、大人の発達障害というものが世間などで話題になった。
子供の頃に気付かれなかった、見落とされていたものが大人になって困りごととして注目され検査をすると発達障害であると判明したものを指し、症状などを見ると自分にも当て嵌まる気がした。
主治医に相談すると、うつ病によって脳のパフォーマンスが落ちてそう感じるだけかもしれないがうつ病が落ち着いたら検査を受けてみますかと尋ねられたので検査を頼んだ。うつ病から回復し発達障害の検査を受けるまでに4年ほどかかった。いつの間にか私の二十代は精神疾患で終わろうとしていた。

舞い上がれ

検査結果は不注意型ADHDと軽度のASD傾向だった。ようやく自分の今まで感じてきた生きづらさの原因がわかったと同時に、脳の特性であるため根本治療が出来ない事、まわりの健常者のようなライフプランは自分に適合しない現実を突きつけられた。
仕事では後輩が出来、非正規の立場ながら正規の後輩を教育したり任される事が多くなってきた。退職した同僚の穴埋め要員として数ヶ月違う環境に置かれたのもあってキャパシティオーバーを起こし、元々今年の3月で退職する旨は伝えていたが2月に限界が来て休職をし、7年間勤めた職場を退職した。
再発した鬱病の療養をしながら家で過ごす時間が増えたが、病状は改善せず日々何もしていない罪悪感に悩まされながら日々を過ごした。発達障害の悩み事でもある後延ばし癖は困る人間が自分だけの場合、より長く延びる傾向にある。病院で必要な国保の切り替え以外、全てが督促の連絡が来ないと出来ないレベルだった為住民税などの支払いに困らされた。無職の場合は年金などは支払い免除など猶予措置がとられる事もあるが、最早その手続きすら億劫でPayPayで納付を済ませている。億劫さをとった為貯金は数ヶ月で50万ほど減った(この内の20万はiPhone15proを購入したせい)

泣きわめけ

流石にこんな生活長引くのはいかんと傷病手当の申請などをしてギリギリで諸々の支払いや納付などをしているのだが、いかんせん1日に出来るキャパシティが少ない為本来1週間で出来そうな事に数ヶ月掛かっている。6月中に申請したいと思っていたマイナンバーは先週ようやく申請した。何故無職で時間はあるのに行動に起こすのにこんなに時間がかかるのかは私が1番知りたい。
常に悩み事が頭の中に陣取っていて、解決しようにも注意力が散漫な為実行に移せず、結局頭の中が忙しくしているだけで脳が疲弊し1日が終わってしまう。
それでも無職という平日の好きな時間に役場や銀行に行ける身分のうちに働き始めたら難しいだろうなと思っていたNISAの口座開設などをした。
現在は市の社会福祉協議会に何かしら受けれる支援の相談や親の介護や妹の老後の世話などを軽減する手段が無いか相談しに行きたいと思って1ヶ月が経とうとしている。一度は市役所まで行ったのだが相談出来る職員が当日不在で、相談がある時は事前に電話予約しておいた方が良いと窓口で言われ、やる気と行動に移せる気力が気がつけば窓口開局時間外になりがちな人間は電話予約が苦手すぎて詰んでしまう。仕事の電話はスムーズに出来るのに。

さんざめけ

現在ADHDと軽ASD傾向、きょうだい児でヤングケアラーであった自分とボケが始まりかけてる母親の介護と私の同意なく将来の妹の世話が確約されてしまっている現状に問題が多すぎて手をつけるのが怖いのと発達障害特有の見通しのたたなさにより山積みの問題をどう扱えば全くわからず下敷きになっている。
障害のある身内のきょうだい児の話などは探せば出てくるが、発達障害当事者でありきょうだい児の話というのは埋もれているのか中々見つからない。
本来こういったケアなどは家族がサポートしてくれるものだとは思うのだが、親は発達障害の検査結果と医師の所見を見ても「診療報酬を稼ぐために病気(発達障害の診断)にしているんじゃないか、とても貴方がそんな障害があるとは思えない」と火の玉ストレートに地雷を踏み抜いた上で20年以上続く苦しみと医師免許を持ってる人間から提示された診断結果も無かった事にした人間なのでおそらく異世界転生をするとステータスに「無効化」スキルが表示されるのだろう。
親からは理解されない、妹はそもそも理解しようとする学力が無い。ならばもう自分の世話は自分でしていくしか無いのだ。

呪術廻戦のタイトルがウルフルズの「バカサバイバー」で丁度世代ということもあり聞いていたら懐かしくなったので便乗してタイトルに使ってみた
メンタル落ちてる時、ウルフルズ聞くとなんか少しだけ楽になるなと気づいた。

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