医療DX入門1 概論と課題整理


1. はじめに

 医療とは医師が患者さんから直接・間接に情報を得て、それを医学的知識や経験とあわせて評価し、よりよい状態へと介入していく営みのことです。医療という情報処理プロセスに近年進歩した情報通信技術(ICT; Infomation and Communication Technology)を取り入れることで、以下のような効果がると期待されています(図1)。

  • 業務改善

    • 業務効率を向上させ医療安全をサポートする

  • 情報共有

    • 患者に対して包括的な医療サービスを実現するため、院内、院外を通じたチーム医療、診療連携のための情報を共有する

  • データ活用

    • デジタル化されて蓄積されたデータを利用して医学研究、公衆衛生に役にたてる

    • 効果の高い保健医療政策を立案し実行する

図1 医療DXで期待されること

 医療におけるICTの応用は1950年代より始められてきました。日本においても1980年代には医療保険請求業務の電子化が進められ、1990年代には検査や処方などの紙ベースの伝票を電子的に処理するオーダリングシステムの導入が始まりました。2000年代以降は診療の全てを電子的に記録できる電子カルテシステムが大規模病院を中心に普及し始めました。さらに電子化されたデータとデジタル技術を使って医療改革を進めようとするDX (Digital transformation) も2018年より政策的に進められています[1]。
 しかし、今なお医療分野のDXは難しい課題の一つであり、他分野に比べて遅れているとも指摘されています。ベッドサイドから研究、公衆衛生や保健医療行政にわたる「医療」全般において情報システムが関わる現在では、そのシステムの優劣が組織のパフォーマンスにつながりますし、人の命にも関わります。また、医療において業務全般を横断的に見渡して、デジタル化を軸にシステム設計を行い業務改革を進めることのできるDX (Digital transformation) 人材不足もまた深刻な問題です。この分野の教材も日本語どころか、英語で書かれたものも少ない状況です。少しでも役に立つ情報を提供するため、医療とDXについてこれから半年程度かけてNoteで連載していこうと思います。

2. 医療における情報化の取り組み

 医療における情報システムの導入は1970年代から進められてきました。JAHIS(一般社団法人保健医療福祉情報システム工業会)の2022年度調査では、大規模から中規模病院では85%以上の病院がオーダリングシステム、電子カルテを既に導入しています[2]。厚労省の報告では医療保険請求もオンラインを含め電子的媒体でほぼ100%行われています[3]。しかし、ユーザーである医療従事者の病院情報システムに対する満足度は必ずしも高くありません。情報システムを導入しても業務改善に結びつかずかえって手間が増えてしまうという指摘もあります[4]。
 このように医療の電子化が進んでも臨床の現場であまり恩恵がうけられていないという現象は、世界中でひろくみられており、日本に限ったことではありません。アメリカでは医療安全向上のために360億ドルの予算を投じて電子カルテを普及させましたが、質の悪い電子カルテによる医療事故も発生しており医療従事者が電子カルテによって疲弊しているとも指摘されています[5]。日本の医療でFAXがいまだに使われていることが新型コロナウイルス感染症でも象徴的に取り上げられましたが、アメリカやイギリスなどの諸外国でも新型コロナウイルス感染症の報告を始め医療文書のやりとりはFAXで行われております[6]。医療DXが遅れていることが日本という国の特性に由来する問題であるかのような主張もありますが、医療そのものがDXになじみにくいところがあるということをまず踏まえておく必要があります。

3. 医療DXとは何か

 まず、これまでの情報化、デジタル化とDXの違いについて説明します。例えば、図2のように紙中心の業務でFAXと印鑑を廃止し、単にデジタル化したとしても、むしろ業務が増えるだけでデータも活用できずあまりメリットはありません。

図2 よくある「IT化/情報化」

 こうした反省のもとで、紙にでやっていた業務をデジタル化で再定義しようという発想がうまれてきました。それがDX(Digital transformation)です。
 DXについて経済産業省は2018年に「デジタルトランスフォーメーションを推進するためのガイドライン(DX推進ガイドライン)」2018をだして、その中でDXを以下のように定義しています[7]。

 企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること

経済産業省「デジタルトランスフォーメーションを推進するためのガイドライン(DX推進ガイドライン)」2018[7]

 つまり、単に情報システムを利用して「情報化、IT化」を進めるにとどまらず業務そのものや組織を変革することも含めることをDXと定義しています。つまり、図3のようにデータ活用も視野に入れて業務をデジタル化していくことです。

図3 業務改革、データ利用を含めたDX

 医療はこれまでも医学の進歩や疫病や災害、地域の状況や政策転換などで変化してきました。データに基づいた医療としてEBM(Evidence Based Medicine)を実践していく現代において、デジタル化でデータを活用することは医療にとって大きな助けにもなります。ここで、先ほどの経産省の定義に基づいて、医療DXを以下のように定義します。

医学の進歩や医療を取り巻く環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、患者や社会のニーズを元に診療とそれに関連する業務そのものや、組織、プロセスと文化・風土を変革し、よりよい医療を提供する方法を確立すること。

4. 医療DXにおける課題

 医療DXを進めることで、業務改善や情報共有、そしてデータ活用と様々な恩恵が得られると期待されています。それでもなお、医療DXが進んでいない理由は大きく分けて5つあります。それぞれについて解説します。

  1. 医療そのものの性質

  2. 統制上の問題点

  3. 法令遵守

  4. 技術構成

  5. 人材育成・キャリアパス形成

4.1 医療そのものの性質

 デジタル化を進めれば大量の情報を処理することができて、業務効率を飛躍的に上げられると言われております。しかし、医療は多くの人手による労働集約的な作業の積み重ねで成り立っています。患者さんの病態も様々で、急患対応など非定型業務も多くデジタル化の恩恵を受けにくいところもあります。
 デジタル化による「破壊的イノベーション」が起きた分野では効率が10倍にも100倍にもなったと言われますが、医療でデジタル化がいかに進んでも、それだけで手術件数が2倍に増えるようなことはありません。
 CTやMRIなどの新規デジタルデバイスによる恩恵もありますが、単なるデジタル化だけ、情報システムを導入するだけで医療において革新的なメリットが持たされることはあまり多くありません。紙のカルテから電子カルテに変わっても、ヒトの健康課題をヒトによって解決するという診療の本質はあまり大きくは変わっていません。

4.2 組織統制上の問題点

 病院などの医療機関では医師免許、看護師免許などの国家資格を持つスペシャリストがそれぞれのスキルに応じて組織化されて役割を分担しています。医局、看護部、薬剤部、放射線部、事務といった職能区分と、内科、外科などの診療区分がマトリックス上に重なった複雑な組織体制になっています。
 医師や看護師、薬剤師といった専門職はもともと流動性が高く、退職しても次の職をすぐに得ることができますし、慢性的に人手不足です。経営陣の意向がトップダウンで伝わりにくいのも特徴です。ステークホルダーは院内にとどまらず保健所や自治体などの行政、関連業者や医師会など多数に渡り利害関係の調整も複雑です。コンウェイの法則によれば、情報システムを設計する組織は、その組織のコミュニケーション構造を似たシステムを構築すると言われていますように、医療情報システムは複雑なコミュニケーションを反映したものとなっています[8]。
 また、医療には保守的な傾向があります。命の関わる厳しい場面で「新しいやり方とこれまでになじんだやり方」のどちらを選択するかというと、医療を提供する側だけではなく、受ける側の患者さんたちも「これまでのやり方を選択する」と回答する方が多いのではないのでしょうか。
 それでも、医学の進歩や社会的要請に応じて医療は変革してきました。新しい治療や検査法がが患者さんにとっても医療機関にとってメリットがあるものであればすぐに広まります。そうした環境で医療DXが進まないのは現場にとってのインセンティブがあまりないからです。新しい検査機器や治療法は使えば病院の収益につながりますが、電子カルテを始めとした医療情報システムは導入しても病院が患者さんに提供する医療サービスはあまり変わりませんし、診療報酬上の加算もあまりありません。さらに、同じような病院を比較して電子カルテを導入した群としなかった群を比較するというような研究も行われていませんので、医療においてDXの有用性を示したエビデンスは実はあまりありません。現場の医療従事者や経営陣にとってDXはそれほどメリットがあると考えられていないのが統制上の最大の問題点です

4.3 法令遵守

 医療においては関連する法令も多く保険制度も複雑です。医療情報システムは機微情報である個人の疾病に関するデータを扱うため、そのガイドラインも政府より提示されています。DXに伴う業務改革を行うためには、それらの法令やガイドラインを遵守し、業務プロセスに反映させる必要があります。
 時代の進歩とともに規制緩和の流れにはありますが、そもそも薬機法などの法律ができた背景には粗悪な医薬品の流通を阻止して国民の健康を守るという目的があります。医用画像ソフトウェアが薬機法でClass 2の管理医療機器と認定されるなどデジタル機器に対する規制が強化されましたがこれはやむを得ないところもあります。
 電子処方箋などのデジタルサービスを国は進めようとしておりますが、処方箋に関する法令(療養担当規則)が紙ベースでの運用を前提としているため電子的な運用が複雑なものとなっています。デジタル化を前提とした法整備が望まれます。

4.4 システム構成での問題点

 医療情報システムは電子カルテ本体と医事会計システム、そして検査、給食、画像、薬剤などの各部門システムから成り立っています。それらのシステムを連携して動かすためには標準的なインターフェースの整備が必要ですが、まだ十分に普及しているとは言えません。したがって構成は複雑で難易度の高いものとなります。
 前章の通り、医療機関の組織構成は複雑です。さらに役職も複雑で、医師であれば部長、医長、主任、主治医、担当医などといった役職があり、それぞれに役割が与えられています。情報システムでは記録やオーダーを実行する権限を設定する必要がありますが、このような複雑な組織体制や役割を反映させる必要があります。この役割は病院によって異なりますし、同じ病院でも部署ごとにルールが異なります。この20年くらいは病院業務の標準化が推し進められてきて、理不尽なローカルルールは廃止される方向にはありますが、そのルール自体が診療部門の特性や課題を反映させた工夫からなりたっていることもあり、全てを認めないわけにいきません。結果として、情報システムにそのルールを反映させるための改変としてカスタマイズコストが発生します。
 このように医療機関での役割を反映させてソフトウェアを構成することの難しさは日本に限らず、アメリカの電子カルテで最大のシェアを誇るEpic社がデンマークに進出する際にも医師や看護師の役割が異なることが導入の障壁となりました[9]。

4.5 人材育成・キャリアパス形成

 医療DXを推進していくためには上記のような課題を解決するスキルが求められます。医療現場を理解するための医学知識と情報処理技術、そして医療情報システムに関連した知識が求められます。医療DX人材が不足していること、そのための人材育成が重要であるとされてはおりますが、現実に探してみると求人はそれほど多くありませんし、あっても一般的な医療職やIT技術者と比べても待遇が悪いという状況です。これは、日本だけではなくアメリカでも同じような状況です。2017年のデータですが、医師資格を持たないClinical Informatics Specialistの平均年収が$68,700であり、医師資格を持つClnical informatics Managerでも$92,800と当時1ドル118円程度であったことや、大手IT企業の初任給が10万ドルを超えていたことを考えるとそう夢のある数字とはいえません[10]。Salary.comで調査したところ、2024年現在でも総合内科医 (general physician)の平均年収が22万ドルであるのに対して、Clinical informatics managerの給与は12万ドルです[11][12]。日米ともに医療DXのスペシャリストとしてのキャリアパスは、まだ開けていると言える状況にはありません。

5. 情報ギャップ(GAPS)を意識しよう

 医療DXでの課題を述べてきました。それでも、デジタル化が進んだ現代社会で、医療においてもデジタル化は既に進んだ状況にあり、よりよい医療を追求するためには、DXを進めていくほかにありません。
 DXでは情報を集めて伝え、そして活用していくことが求められていますが、そこにギャップがあると情報が伝わらず、活用もできなくなります。
 これらのギャップを乗り越えてDXを進めるためには総合的な取り組みが必要です。他の分野のようにDXによる破壊的イノベーションが医療では残念ながら起こることはないかもしれませんが、一つ一つ課題に向き合って解決していうことを積み重ねれば大きな進歩につながっていくと私は信じております。
 ギャップ(GAPS)を把握して、乗り越えていくための手段としてGAPS Frameworkを取り上げて解説していきます[13]。WHOはSDGs 3.8であるUniversal Health Coverage実現のためにデジタルヘルスを推進しており、そのDigital Implementation Investment Guide (DIIG)に沿ったプログラムを各地で展開しています[13]。そのカリキュラムに沿って医療の現場から保健行政にいたるまで応用できるようにしたものがGAPS Frameworkです。
 本記事はまだ満足の行く完成度ではありませんが、とりあえず公開します。予告なく改訂作業を行いますのでご容赦ください。

参考文献

  1. 内閣官房、医療DX推進本部、2018年、 https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/iryou_dx_suishin/index.html

  2. 一般社団法人保健医療福祉情報システム工業会、JAHIS 病院情報システム導入調査結果報告 -2022年調査-、https://www.jahis.jp/action/id=57?contents_type=23

  3. 厚生労働省、オンライン請求の割合を100%に近づけていくためのロードマップ(案)、https://www.mhlw.go.jp/content/12401000/001076308.pdf

  4. 小林慎治,中小病院に適応した情報戦略の検討,共済医報 2008;57(2): 92-94

  5. Fred Schulte, Erika Fry, Death by A Thousand Clicks, Fortune, March 18, 2019, https://kffhealthnews.org/news/death-by-a-thousand-clicks/

  6. Sarah Kliff, Margot Sanger-Katz, Bottleneck for U.S. Coronavirus Response: The Fax Machine, NY Times, July 17, 2020, https://www.nytimes.com/2020/07/13/upshot/coronavirus-response-fax-machines.html

  7. 経済産業省「デジタルトランスフォーメーションを推進するためのガイドライン(DX推進ガイドライン)」2018年, https://www.meti.go.jp/press/2018/12/20181212004/20181212004.html

  8. Melvin Conway, Conway's law, http://www.melconway.com/Home/Conways_Law.html

  9. Arthur Alen, Lost in translation: Epic goes to Denmark, Politico, June 6, 2019, https://www.politico.com/story/2019/06/06/epic-denmark-health-1510223

  10. Robert E. Hoyt, Elmer V. Venstam, William R. Hersh, Chapter 1, Overview of Health Informatics, Health Informatics: PracticalGuide Seventh Edition, 2017.

  11. Salary.com, Clinical Informatics Manager Salary in the United States, https://www.salary.com/research/salary/benchmark/clinical-informatics-manager-salary

  12. Salary.com, Physician General Practitioner Salary in the United States, https://www.salary.com/research/salary/alternate/physician-general-practitioner-salary

  13. Asia eHealth Information Network, Mind the GAPS, https://www.asiaehealthinformationnetwork.org/mind_the_gaps/

  14. WHO, Digital Implementation Investment Guide (DIIG): Integrating Digital Interventions into Health Programmes, https://www.who.int/publications/i/item/9789240010567