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読書記録 無理ゲー社会 その2

読解力に乏しいためか、読み返すたびに気になるところが変わる。まあ、日常の会話でも、一回聞いただけで理解できないこともあるので(おまけに難聴)、本を読むときに似たようなことが起きてもおかしくはないだろう。

何度か読み返した時に、次の文が気になった。

身分制社会では、生まれたときの身分によって職業や結婚相手など、その後の人生が決まってしまう。これは極めて理不尽だが、それで不幸になったとしても個人の責任が問われることはない(「生まれ」が悪かったのだ)。ところが、「誰もが自分らしく生きられる社会」では、もはや身分のせいにすることはできず、成功も失敗もすべて自己責任になる―――これが「メリトクラシー」だ。(「無理ゲー社会」P.46-47)

(NOTEで引用を使えるようになったのがうれしい。)

ここで、「誰もが自分らしく生きられる社会」というところが、なぜか今日、強く引っかかった。確かに、現代社会は身分制社会ではない。では、本当に今は「誰もが自分らしく生きられる社会」なのか?

そもそも「誰もが自分らしく生きられる社会」とはどういう社会か?

社会に暮らす個々人が、「自分らしく生きる」ことを妨げられない社会、それが必要ではないか。

では、現実は?「誰もが自分らしく生きられる社会」は実現されているか?おそらく答えは「NO」だ。家庭、学校、部活動、会社などの事情によって、「自分らしく生きる」ことに制限を受けていると感じるケースは多数ある。そのような現実を見ると「誰もが自分らしく生きられる社会」は実現不可能な「仮定」の世界ではないだろうか。

経済学では、人などの経済主体を「常に合理的な行動をする」と「想定」する。現実には「常に合理的な行動」をしているわけではないが、そこを否定してしまうと経済理論が成立しなくなる。

「メリトクラシー」も、「誰もが自分らしく生きられる社会」でなければ、「Merit(能力)」が「Inteligence(知能)」に「Effort(努力)」を加えることで向上する社会が成立しないはずだが、現実の社会が「誰もが自分らしく生きられる」かを確かめぬまま、「努力すれば報われる」理想だけを強調しているのではないだろうか?

読書記録と題しながら、話は方々に脱線する。何回書けば終わるのか。自己満足のブログだからこれも良しとしよう。

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