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「大丈夫じゃなくても大丈夫」じゃない場合

小さい頃から算数が苦手だった。計算も図形もダメで、まずもって数字が嫌いだ。ときどき数の大小がわからなくなるし、言われた数字はコンマ3秒で忘れてしまう。時間を24時間表記で伝えてくる奴はちょっと嫌だなと思っている。いや、思ってはいないけれど、不安になる。19時が午後7時であることを「知識」として知っているが、体の方は納得していない。理解までに、数秒のラグ。ぼーっとしている時に時間を言われると、今でもまれに悲惨な事故を起こしてしまう。
知識といえば、計算もほとんど記憶でやっている。これとこれを足すとこれになる、という経験知の動員。だから、ちょっと桁が増えるとすぐにエラーが起こる。私は2桁足す1桁の足し算が怪しい。暗算ができないことがある。繰り上がりと逆上がりは幼少期からの天敵だ。それどころか、センター試験の数1Aの問題用紙、帰宅して捲ってみると何故か「2+5」を筆算していた。いや、それはさすがに焦っていただけか。

何の話かというと、人には得手不得手があるということだ。
ゲームのキャラクターのように能力値が多角形のパラメータに可視化されていたら、私はだいぶ使いづらいモンスターだと思う。
算数もとい数字関係はてんでダメ。それに付随して、距離や時間、速さ等の数字を用いた感覚が全く育っていない。特に単位を二つ以上使うものが苦手で、小学生以来「はやさの問題」とは犬猿の仲だ。
代わりと言っては何だが、国語と英語は得意だった。文章を読んで理解するとか、書くとか、論理的に何かを捌くとか、そういう部分はかなり自信があった。あった、と過去形なのは、いま絶賛休職中で、何をしてもだめだという気持ちになっているからである。

小さい頃から、ずば抜けてダメな奴だった。
現在でこそADHDという診断名のもと服薬治療しているが、うちの親は精神科を「精神病院」と呼び、そこに罹るものは何らかの差別や人権侵害を受けると信じていた。昭和すぎる。だから「なんでそんなことができないの」から始まり、罵声は次第に「だから先生に精神病院に行けだなんて屈辱的なことを言われるのよ」「次やったら学校辞めさせて精神病院に入れるからね」「そんな病院に行けと言われてるだなんてバレたら、もう今の学校なんか通えないのよ」とお決まりのルートを辿っていた。苦手は全て努力不足である。
今思うと、これは教育心理学的にも、というかそういう観点を抜きにしてももう、普通に悲しい育ちである。
私が何とか「普通の人」の範疇で生きるためには当然努力が必要で、そして母の価値観の下で苦手分野を捨てることは「逃げ」だった。逃げるは恥だ。自然、私の人生も「苦しまなければ価値がない」という謎の絶対的価値観に占拠されるようになり、大学受験では数学を使い、進学先のゼミでも統計学をやる羽目になった。自分で苦しい道を選択する癖は抜けず、今は興味も素養も全くない分野の資格を取れと会社に脅されている。もっと向いている職業だっていっぱいあっただろうに。

この生き方には辟易としているが、一方で仕方ないよなあ、とも思ってしまう。

たとえばここ数年「〇〇という病気のことを理解してください」という類のツイートを見かけることがある。この分野でよく出てくるのが、先述のADHDとか、LD(学習障害)とか、あとは感覚過敏などだ。いわゆる発達や精神科のお世話になる領域の「不得意」は、従来の社会において私の母のような無理解の者に虐げられており、近年ようやく正しい認知がなされるようになってきたところだ。「私もそうなんです」のみならず「え、これ私じゃん!?」と言った反応まで、さまざまなレベルで存在感を見せている。正しい理解が広がるのは喜ばしいことだ。そのはずだ。
しかし私は、どうしてももやもやしてしまう。
例えば私が「私はディスカリキュア(算数障害)なんです」と言ったとしよう。理解のある親なら、それが努力不足によるものではなく子供の特性によるものだと納得し、罵声や暴力を浴びせないかもしれない。周囲の友達も受け入れてくれるだろう。でも結局、普通学級でやっていくためには「数学」は必修であるし、現在の学校教育ではそのフォローはしきれない。
もっと言おう。「私はディスカリキュアなんです」と主張して、どんなに「そうかそうか」と周りが許してくれても、例えばその子供の志望校が国立大学だったらどうにもならないのだ。そうかい君は算数ができないのか、じゃあ免除してあげようとはいかない。じゃあ他に行きなさい、だ。
受験の問題なら、さまざまな大学があって、自分に合う場所を納得して選べば大きな問題にならないかもしれない。しかし「僕ADHDなので仕事中集中して座っていられないんです」「不注意で発注全部間違えました」では話にならない。普通の仕事につけなくなってしまう。
「私こういう欠陥があります!わかってください!理解してください!」とツイッターで叫んだところで、結局は本人が努力してそれをカバーする他ないのだ。そういう現実を踏みしめて見るに、あの手のツイートはちょっと辛い。職場や社会がもっと「特性」を理解してサポートし合うようになれば理想だが、現状どれだけの企業が、部署が、人々が、そのような意識で対応しているだろうか?
個々の、いま現在の問題に落とし込んでみると、結局は「自分で順応する手立てを見つけるor その場からリタイアする」という構造になってしまうのである。
「理解してもらえたら楽になったので」「自分に向いていないことは無理せず諦めて……」と体験談をシェアしている人もいる。そういう場合もある。その人たちには心から良かったねと思う反面、自分はそうはいかないからな……と思うと、余計に辛くなってしまう。

我が家の家訓に「逃げるは恥だが役に立つ」はなかった。その結果今でも、自分に向いていない場所からログアウトすることが、何か恐ろしいことのように思えてしまう。でも実際に自分が本当に素晴らしいと思っているのは、好きなことや得意分野だけを伸ばし切った先にハツラツと働くことだ。それが一番に決まっている。しかし悲しいかな、伸びもしない数学を泣きながらやっている間にデッサンの練習をしまくって美大に行くとか、そういう選択をしてこなかった。向いていない場所からログアウトしたとて、行く先で好きなこと、得意なことができるわけでもない。私はF.R.I.E.N.D.S.の大ファンだが、職探し中のレイチェルが「仕事が見つかったのかい?」という問いに対して放った、まさか!に続く言葉に共感してしまう。「I'm trained for nothing!(私なーんにもできないもん!)」
そういう人間は結局、苦しい現状から逃げても良い世界が待っているとは限らない。あるのは現在の下位互換、それでは本当にただの「逃げ」になってしまう。

よく、能力に偏りがあっても自分の得意を伸ばして素晴らしい働きをしている人が取り沙汰される。しかし忘れてはいけないことに、彼らは象限のひとつにすぎないのだ。つまり、この世には「苦手はあれど得意が素晴らしい人間」の何百倍もの「苦手があって、比較的得意なことはあれどそれだけじゃどうしようもない」人間、つまり「ただただ欠陥があるだけの凡人」がいるということだ。最近流行りのギフテッド云々の話題を見るたびに、後者である自分は俯いてしまう。「社会の宝」であるギフテッドの輝かしい才能を潰さないように!というレアケースについて議論する前に、大勢の「ただただ欠陥があるだけの凡人」が社会のお荷物にならずに済む方法も、考えてみてはくれないだろうか?いや、ギフテッドは「かっこいい」し「夢がある」し「援助し甲斐がある」けれど、欠陥があるだけの人に向き合っても楽しくないからな。結局そういうことだろう。やりたいこととやらなくちゃいけないことがあって、後者に分類される問題。

少し悲観的になり過ぎてしまった。主語が大きくなると危ないので、自分だけにフォーカスしよう。

私はどうやって生きていこうかな。

無理をして生きていくには孤独すぎて、鬱に足を取られてしまった。おかげで現在は休職中である。夢もない、希望もない。あるのは苦手な仕事に復帰しなければならないという予定だけ。
社会が、会社が、人が、と考え始めたらキリがない。そんな大きな変革を待つ時間も、巻き起こす元気も、私にはない。だから結局、苦手をどうやってカバーするか、自分で試行錯誤するしかない。
複雑な金銭管理や貯金ができないから、自分でも続けられる形で家計簿を模索している。鬱の薬を飲み忘れるとそのうち最悪な気分になるというのに、うっかりすると服薬管理も怠ってしまう。ただ数値を打つだけでも普通の人の3倍時間がかかるのに、復職してより高度な仕事を求められることが怖くて仕方がない。

そうだ、鬱だって同じだ。
鬱なんです、と言ったところで会社が優しくしてくれるわけではない。じゃあ無給ですが休職し続けますか?それにも限りがありますが、となるだけだ。
自己責任社会で足が止まると、こうなってしまう。
だから結局、自分でどうにか工夫して、叱咤激励して、目が覚めてああどうしようと絶望的な気持ちになっても、突然不安発作が来ても、数字が苦手で仕事の各所で躓いても、ITとビジネスの話が寒いぼが出るほど嫌いでも、生きていかなければいけないんだなあ、と思った。
だって家賃を払って、ローンを払って、愛犬のためにご飯代を確保しなきゃいけないし。
仕事が嫌いで、苦手で、できることならずっと休んでいたいと思う人なんていくらでもいるだろう。そんななか長期で休職させてもらっているだけ、ありがたく思わなきゃいけないんだろうなあと、頭ではわかっている。
それでも、この先も頑張り続けなければいけないことがーーもっと言えば、終わりのない疲弊の先に特に好転の兆しが見えないことが、どうしても怖いと思ってしまう。

仕方なく生活がつづく。



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