「失われた30年(平成不況)」を疑うべき理由(GDPという指標には欠陥があるのではないか?)
日本は長らく経済が停滞しているので、「失われた30年」や「平成不況」と言われて、それが問題であると言われることが多い。
ただ、「少子化が進んでいる」とか、「生活が苦しい」といった問題は、不況から脱すれば解決できるとは限らない。
なぜなら、例えば、日本とは違って経済成長が順調な国でも、少子化や生活苦のような問題が起こっていないわけではないからだ。
というより、他国の状況を鑑みるならば、少子化のような問題は、経済成長できていないことではなく、むしろ経済成長することで起こる。
そのため、今回は、「経済成長」という概念を疑うことにしたい。
「経済が成長していない」というのは、ようは「GDPが増えていない」ということなのだが、そのような「GDP」という指標について検討するという形で、「日本社会は30年間が失われているから(長期不況だから)、それが問題だ」という考え方を疑うことにする。
「失われた30年」ではなかった国との比較
例えば、韓国やシンガポールは、日本と同じアジアの先進国だが、それらの国は、経済成長という観点からは日本よりもずっと数字が良い。
日本のように「失われた30年」ではなく、比較的順調に経済成長を続けてきた。
年間のGDP成長率を比較してみても、日本のように低成長が続いているわけではなく、80年代以降も、平均で年間5%以上もの経済成長を続けている。
ただ、そのような経済成長が順調な国に、少子化のような問題がないのかというと、むしろ現在は、日本よりも少子化問題(出生率の低さ)が深刻だ。
経済停滞が長らく続いている日本では、多くの社会問題が、経済の低成長に絡めて語られやすい傾向があるように思う。
そのため、「経済が停滞していて、だから若者が貧しく、子供が作れない」といった意見も多い。
しかし、他国のデータなどを見るに、少子化のような問題は、経済が停滞していることではなく、むしろ経済成長することによって起こる。
ではなぜ、一般に「生産力の向上」と見なされるような「経済成長(GDP成長率の増加)」によって、少子化や生活苦のような問題が起こるのか?
今回は、そもそもの「経済成長」の定義や、「GDP」という指標を疑う。
「交易量=生産量」と見なすのがGDP
「GDP(国内総生産)」の数字が過去よりも増えることを、経済成長と言う。
GDPの詳細な算出方法や厳密な定義などの説明は省くが、ここで、ざっくりとGDPがどのような指標であるのかを簡単に説明すると、「交易の量」を「生産の量」と見積もるのがGDPの特徴だ。
「市場で貨幣を介して取引されたモノを数えて、それを生産量と見なす」という発想によって、GDPが算出され、それが「生産」や「成長」の指標として使われている。
例えば、市場における交易をまったく行っていない共同体があるとして、その共同体はGDPがゼロだが、一切の「生産」が行われていないわけではないだろう。
GDPは、「交易」の部分を見て、それを「生産」と見積もっている。そのようなやり方でなければ、客観的な数字として「生産量」を出すのが難しいからだ。
ただ、そうやって、「交易量=生産量」と見なすGDPという指標に、問題があるのではないかと考える。
「同じ値段で質が良くなった」をGDPは評価できない
GDPは、貨幣を介して交易されたものを計測して、それを「生産量」とする。そして、GDPの値が大きくなると、経済が成長したと見なされる。
ただ、GDPのような「交易」を「生産」と見なす指標においては、「同じ値段でも質が良くなった」とか「同じクオリティでも値段が安くなった」といった「豊かさ」が、評価されにくい。
なぜなら、多くのものは、質が良くなったぶんだけたくさん消費されるわけではないからだ。
人間は、何らかの娯楽を享受できる可処分所得や、ご飯を食べられる量などが決まっていて、質が良くなれば良くなったぶだけ、それがより多く購入されるわけではない。
例えば、この「失われた30年」で、ゲームのハードやソフトは驚くほど進化したが、値段がそれほど変化しているわけではない。
「初代プレステ」が「プレステ4」になったような変化や、「スーパーファミコン」が「ニンテンドースイッチ」になったような変化を、GDPという指標では評価することができていない。
また、往々にして、優れたコンテンツは、消費量を増やさない。
安価で長く遊べるゲームが行き渡ったとして、それは市場での取引の量を減らすので、GDPにとってはむしろマイナスになる。
アニメや映画を見放題のサブスクなども、消費者にとっては豊かさの向上かもしれないが、GDPは減りやすい。
人間の可処分所得はあまり変わらないので、無料で見れたり遊べたりする優れたコンテンツが増えるほど、むしろGDPは減りやすくなることがあるのだ。
GDPの向上は、我々が素朴に感じる「豊かさ」に逆行するようなところがある
人間は、モノを食べる量などもそれほど変わらない。
外食やコンビニの食品などが、過去よりも質が良くなったというのは、素朴な生活の豊かさに大きく寄与する進歩かもしれないが、GDPには評価されない。
食べ物は、おいしくなればなるほどたくさん食べるようになる、というわけでもないからだ。むしろ、食べ過ぎると健康を害して生活の質が落ちる。
逆に、飲食に関してGDPが増えやすいような状況を考えるに、みんなが健康を害するくらい食品を食べまくる社会だと、消費量が増えて、GDPも増える。
国民の多くがすごい肥満になるような、健康的な食事量を超えるくらい人々が消費に駆り立てられる社会だと、GDPは増えやすいだろう。
そして、病気になる人が増えてさらに医療費がかかったり、フィットネス産業などに金が支払われるようになれば、さらにGDPが増えやすくなる。
一方で、適切な食事量で、人々が自主的に運動をして、何らかの市場のサービスに頼らずに健康が維持されているような社会は、消費が行われないので、GDPは低くなりやすい。
また、例えばサービス業などにおいて、丁寧で親切なサービスが、思いやりや職業倫理によって無償で提供されているような社会は、GDPが低くなりやすい。
逆に、「基本的には労働者にサービス精神がなくて、チップが当たり前」とか「丁寧なサービスには相応のサービス料を支払うべき」といったような社会は、貨幣のやり取りが増えるので、GDPは高くなりやすい。
「マナーの向上」のようなものも、GDPは評価できない。例えば、「かつては街中がゴミだらけだったけど、みんなのマナーが上がって、ちゃんとゴミ箱にゴミを捨てるようになり、昔よりも街は綺麗になった」……というのは、良いことかもしれないが、それによってGDPが上がるわけではない。
GDPを上げるためには、「みんなのマナーが悪いままで、専用の掃除業者を雇ってゴミを片付けるようになり、その業者の給料が、その街で売られる商品に上乗せされる」……みたいな形で問題を解決する必要がある。
「マナー」ではなく「市場原理」で解決すると、GDPが上がりやすいのだ。
このように、GDPの向上は、我々が素朴に感じる「豊かさ」に、むしろ逆行するようなところがある。
重要なものは、重要であるがゆえに、交易の対象にならない
さらに致命的なGDPの欠陥として、「重要であるがゆえに交易できないもの」を、GDPは評価することができない。
先に説明したように、「交易量」を「生産量」と見なすのがGDPという指標の特徴だが、社会を根底から支える重要な仕事ほど、それが重要であるがゆえに、交易することができない。
「重要であるがゆえに交易できない」もののわかりやすい例が、「人口の再生産(出産・育児)」だ。
「結婚して子供を産む」といった行為に、市場での交易が起こる余地はほとんどない。
「妊娠・出産・子育て」は、重要であるがゆえに交易の対象にはなりにくい。
代理出産のような、富裕層が金を払って第三者の女性に子供を産ませるビジネスがあるが、基本的に大多数の出産は、そういう経済合理性とは別の、愛情みたいなものに多くを頼って行われる。
また、インフラ整備や治安維持のような、経済活動の前提として必要になる仕事も、交易の対象にはなりにくい。
市場という「交易の場」が成立するための前提になるインフラや治安も、交易の対象にはならないので、市場のルールには評価されにくい。
基本的にインフラ整備や治安維持は、市場原理ではなく、国家権力のような市場の外部に頼る必要がある。
「出生」や「インフラ」や「治安」は、「重要であるがゆえに交易できないもの」だ。これらは、「長期的なGDP」にとっては最重要視すべきものなのだが、「短期的なGDP」には評価されない。
そこには、「短期的なGDPの向上が、長期的なGDPの向上を否定する」という構図があるのだが、このことについても以降で説明していく。
GDPを「豊かさ」の指標にするのは妥当か?
GDPという指標は、「過去よりも安くなったり、質が上がったもの」や「市場を介さない親切さやマナーの向上」や「重要だからこそ交易できないもの」などを評価できない。
そのため、このようなGDPを「豊かさ」の指標にするのは妥当か? という疑問が生じる。
実際に、GDPという指標を疑問視する意見を持つ人は少なくないだろう。
だが、ここでは、「GDPが社会の豊かさを反映していないわけではない」と考える。
とはいえ、「GDPを増やそうとする努力は豊かさにとって逆効果になりやすい」とも考える。
「GDPが社会の豊かさを反映していないわけではないが、GDPを増やそうとする努力は逆効果になりやすい」と考える理由として、ここでは、GDPを、「ブレーキを踏まれた量から、アクセルを踏まれた量を推測する」ような指標であると考える。
自分は、「市場の役割はブレーキである」という考え方を持っている。
「市場競走はブレーキとして作用する」という考え方については、すでに「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由」という記事で説明している。
市場を「ブレーキ」であると考えれば、市場での交易を数えるGDPという指標は、「ブレーキ」を数えていることになる。
この「市場がブレーキ」という考え方については、この記事内でも改めて説明していく。
「気持ち」が「アクセル」で、「経済合理性」が「ブレーキ」
ここでは、市場の作用を「ブレーキ」と考え、GDPを、「ブレーキを踏まれた量から、アクセルを踏まれた量を推測する」ような指標であると考える。
一般的な乗用車において、「ブレーキ」が踏まれた量を計測すれば、その数字は、「アクセル」が踏まれた量をある程度は反映するだろう。
GDPも、そのような指標であると考えるのだ。
市場の役割を「ブレーキ」と考えると、自ずとこのような考え方になる。
一般的に、「市場」というシステムは、生産を促進する「アクセル」のように考えられることが多いように思う。しかしここでは、市場で取引を行おうとすることは、むしろ「ブレーキ」として作用する、と主張したい。
では、市場が「ブレーキ」だとして、生産にとって「アクセル」になるものは何かというと、
何らかの良いものを生み出そうとする気持ち
社会のためになることをするべきという規範
「男女は結婚して子供を作るもの」といった保守的な社会の常識
「国家を強くしなければならない」というナショナリズム
理屈を超えて誰かを好きになるような愛情
などの、経済的合理性に反するものが、「アクセル」として機能すると考える。
一方で、市場競走において個人が利益を得られるようになるルールは、実は「ブレーキ」として作用するのだ。
経済合理性に反する「気持ち、規範、常識、仲間意識、愛情」のような「アクセル」は、生産を促進するが、同時に危険なものでもあり、市場という「ブレーキ」の作用がそれを制御しているイメージだ。
この「アクセル」と「ブレーキ」の比喩において、「ブレーキがあるからこそアクセルを強く踏める」と考えることができる。
一般的な乗用車をイメージして、もしそのクルマにブレーキの機能がなければ、アクセルを強く踏めないか、事故が多発するだろう。
ブレーキがあるからこそ、ある程度の速度を出しながら運転できて、事故も防ぐことができる。
これは、「気持ち(アクセル)」と「市場(ブレーキ)」の関係にも同じことが言える。
「市場」といった個人の自由と権利を重視する「ブレーキ」の作用があるからこそ、戦争や革命のような破綻を起こさずに、近代国家のような巨大な集団を維持できていて、それが「社会の豊かさ」に繋がると考える。
ただ、個人が市場において利益を得ようとする経済合理性そのものは、生産の勢いを削ぐ「ブレーキ」として作用すると、ここでは主張したいのだ。
個人の主観に反して、市場は「ブレーキ」
市場が「ブレーキ」であることは、個人の視点では、直感的には納得しにくいだろう。
各々の個人の立場からすると、市場競走という場で成功できるチャンスがあるからこそ、そのために必死に努力しようとするわけで、主観的には市場の作用が「アクセル」であると感じやすいだろう。
しかし、そうやって個人が相対的な競走の勝者になるためにリソースを使おうとすることが、社会全体(マクロ)では「ブレーキ」として作用する。
例えば、マクロで考えれば、国力にとって最も重要視すべきは「人口」だ。
今の社会は、高い学歴を得るために必死に受験勉強したり、高い年収を得るためにキャリアアップを目指したり、美容に金や労力を突っ込んだり、マッチングアプリでより良い相手を探したりなど、他人よりも秀でるための努力にリソースが使われているが、であるからこそ、少子化が進んでいく。
個人が相対的な勝者になるために努力しなければならない構造自体が、マクロでは社会を衰退させていく要因になっているのだ。
マクロで見れば、競走することではなく、むしろ競走を否定するような作用が、実は「アクセル」として作用する。
例えば、「一定の年齢になった男女は結婚するもの」といったような「伝統的な価値観(保守的な社会の規範・常識)」は、個人の主観ではそれが「ブレーキ」だと思いやすいだろうが、実際には、競走が過剰になるのを防いで「人口の再生産(社会全体にとっては最も重要な生産行為)」を可能にする「アクセル」として作用してきた。
このようにして、社会全体(マクロ)での「アクセル」と「ブレーキ」は、個人の主観(ミクロ)で見た場合とはあべこべになりやすいという事情がある。
「伝統的な価値観」のような「アクセル」の作用は、個人の自由や権利を否定するゆえに、「正しさ」に反するものであり、そのような個人にとって危険な作用の行き過ぎを、「市場のルール」といった、個人の自由や権利を重視する「ブレーキ」の作用が押さえつけている、といったイメージをここでは提示している。
貨幣を介すると、個人の権利が守られやすくなるが、負担が増える
市場が「ブレーキ」として働くことの、より具体的な例を考えたい。
例えば、「伝統的な家族観」や「豊かな地域社会」が機能しているような社会は、出生率が増えやすいだろう。
そこでは、家族の間や共同体の間での、家事、育児、介護、手伝い、助け合い、近所付き合い、雑談、配慮、といったものは、基本的には貨幣を介さずに行われる。
それに対して、市場(貨幣経済)が社会に浸透するほど、かつては貨幣を介さずに行われていたことが、貨幣を介して行われるようになっていく。
貨幣を介するようになることは、今までは個人の権利や報酬が曖昧な感じでやっていたのを、客観的な、可視化・明文化されたルールでやろうとするようになることを意味する。
市場における貨幣を介したやり取りは、「客観的」という性質を持つ。
貨幣を介して取引をすれば、例えば、その仕事に対してその報酬が正当なものなのかどうかなどが、外側から客観的に判断しやすくなるからだ。これは、個人の権利を守ることに繋がる。
一方で、市場というルールに則って取引をすること自体に、かなりの手間がかかる。
「市場における取引」であるためには、今までは曖昧にやっていたようなことを、どんな契約をしてどんな職務を行ったのか、他人から見てもわかるように客観的な形で可視化・明文化し、会計上の規則に従って記録を残す必要がある。その場合、法務や税務のような仕事が新しく増え、もちろん税金を支払う必要もある。
何らかの仕事を、貨幣を介さずに行った場合と、貨幣を介して行った場合とで、仮に行われる仕事の実態がまったく変わらなかったとしても、貨幣を介したほうが、負担は大きくなりやすい。
つまり、市場において貨幣を介して取引をするということは、「個人の権利が守られやすくなる代わりに、ルールに則って取引を行うコストがかかる」といったもので、ゆえにそれは「ブレーキ」として作用するのだ。
何らかの仕事を行おうとするとき、実は、「気持ち、規範、常識、仲間意識、愛情」といった「アクセル」を駆動させたほうが、つまりルールを介さないほうが、必要なコストが少なくなって「楽」なのだ。
特に、市場のルールには評価されにくい「出生」や「インフラ」や「治安」のような仕事ほど、「アクセル」に頼る必要がある。
一方で、そのような「アクセル」を強めることは、個人の権利が蔑ろにされやすくなることでもあるので、危険な状況だ。
市場のルールで取引をすると、「交渉するコスト」「可視化・明文化するコスト」「法務・税務などのコスト」がかかるが、それによって安全になり、「ブレーキ」がかかる。
個人の主観では、「市場が影響力を持ち始めると、金を儲けようとするインセンティブが生まれるので、それによって生産が促進される」という考え方になりやすいかもしれない。
しかし実際には、貨幣を介することは、「安全だけど勢いを削ぐ」ような「ブレーキ」の作用なのだ。
「ブレーキ」が強く作用すると、行われることの実態に対して、生産に寄与しない仕事が増えて、生活は苦しくなりやすい。
そして、そのような「ブレーキ」が強く働いているほど、市場での取引の量は増えたことになるので、GDPが増える(経済成長する)。
短期的なGDPの向上が、長期的なGDPの向上を否定する
ここでは、市場での取引が「ブレーキ」になると考え、市場における交易量を計測するGDPを、「ブレーキが踏まれた量から、アクセルが踏まれた量を推測する」ような指標であると考えている。
まず、GDPという指標は、社会の豊かさを反映していないわけではない。
一般的な乗用車において、たくさん「ブレーキ」が踏まれていたら、同じくらいは「アクセル」が踏まれただろうと推測できるように、GDPという指標においても、たくさん「交易」が行われていたなら、同じくらいは「交易のもとになる生産」が行われただろうと推測することができる。
そして、このように考えると、経済成長した国の出生率が下がる理由を説明することもできる。
「GDPが高い」ということは、「ブレーキが多く踏まれている」ということであり、長期的には、速度も落ちていくだろう。
市場での取引の量が増えて、経済合理性をより多くの人が重視する社会になることは、「気持ち、規範、常識、仲間意識、愛情」のような「アクセル」の作用の影響力が落ちていくことでもあるので、それによって社会が失速していくのだ。
先に、「短期的なGDPの向上が、長期的なGDPの向上を否定する」という構図があることについて言及したが、ブレーキが強く踏まれれば速度が落ちていくように、経済成長(短期的なGDPの増加)という「ブレーキの増加」は、長期的なGDPにとって最も重要な「人口(出生率)」を減らしていくのだ。
「GDPを増やそうとする努力」には注意が必要
先に、「GDPが社会の豊かさを反映していないわけではない」が、「GDPを増やそうとする努力は豊かさにとって逆効果になりやすい」と述べた。
その理由は、少子化や生活苦のような、「アクセルの欠如(ブレーキの過剰)」で起こる問題に対して、GDP(ブレーキの量)を増やして解決しようとするのは、「速度が足りないときに、さらに強くブレーキを踏もうとするようなもの」だからだ。
「GDPが増えれば現状の社会問題が解決する」と考えるのは、むしろあべこべな政策を進めてしまうかもしれないような考え方であり、注意が必要と言えるだろう。
これが、今回主張したかったことだ。
「失われた30年(平成不況)」という見方を、全面的に否定しようとは思わない。
GDPは「ブレーキ」を計測しているが、だからといって「生産(アクセル)」を反映していないわけではなく、数十年もGDPの成長率が低かったということは、結果として日本が、長らく生産量を増やしてこれなかったということではあるかもしれない。
だが、「ブレーキ(交易)の量からアクセル(生産)の量を見積もるGDPという指標」は、それほど精度が高いというわけではない。
ここでは、GDPの欠陥として、以下を指摘してきた。
「過去と比べて同じモノの値段が安くなったこと・同じ値段だけど質が上がったこと」を評価できない
「市場を介さない親切さやマナーの向上」を評価できない
「重要であるがゆえに交易できないもの」を評価できない
GDPは、「ブレーキ」から「アクセル」を推測しているが、「アクセル」そのものを評価できているわけではないのだ。
以上のような理由で、GDPは、考慮するに値しない指標とは言わないが、「GDPが増えさえすれば豊かな社会になる」と言うこともできない。
ゆえに、「日本の問題はGDPが増えていないことで、低成長から脱することができれば、社会が良くなっていく」といったような考え方をするべきではないと考える。
まとめ
日本は長らく経済が停滞しているゆえに、「不況から脱して経済成長することが重要だ」という意見が多いが、他国の事情を見るに、少子化や生活苦の問題は、経済成長していないことではなく、むしろ経済成長することで起こる。
この記事では、「経済成長(GDPが増えること)=豊かさの向上」を疑うために、GDPという指標について検討している。
GDPは、市場における「交易の量」を計測して、それを「生産の量」と見なす指標である。
何らかが生産されても、それが市場で交易されなければ、GDPという指標においては、「生産が増加した」とは見なされない。
「同じモノの値段が安くなった・同じ値段だけど質が良くなった」「市場を介さない親切さやマナーの向上」「出生・インフラ・治安など、重要であるがゆえに交易できないもの」などを、GDPという指標は評価することができない。
しかし、GDPが生産量を反映していないわけではない。ここでは、「市場」の作用を「ブレーキ」であるとして、GDPを「ブレーキを踏まれた量から、アクセルを踏まれた量を推測する」ような指標であると考える。
ここでは、「気持ち、規範、常識、仲間意識、愛情」のような経済合理性に反するものが、生産を促進する「アクセル」になると考え、個人の自由と権利を重視する「市場」のルールが、「ブレーキ」として作用すると考える。
かつては規範や愛情などを駆動して曖昧にやっていたような仕事を、市場で貨幣を介して行おうとすると、「交渉するコスト」「可視化・明文化するコスト」「法務・税務などのコスト」などの負担が増える。貨幣を介することで個人の権利が守られやすくなるが、それは「安全だけど勢いを削ぐ」ような「ブレーキ」として作用する。
GDPが増えたということは、「ブレーキ」が強く作用している社会になったいうことで、それは、長期的には速度が落ちていく(社会が衰退していく)要因になる。このようにして、短期的なGDPの向上が、長期的なGDPの向上を否定する。
少子化や生活苦といった「アクセルの欠如(ブレーキの過剰)」によって起こる問題に対して、「もっとGDPを向上させる必要がある」と考えるのは、「速度が足りないときに、より強くブレーキを踏もうとする」ようなものであり、ゆえに、GDPの向上を「豊かさ」と見なすことには注意が必要だ。
今回の内容は以上になります。
この記事では、GDPの問題を指摘してきたが、「じゃあどうすればいいの?」については、このnoteの別の記事や、別のサイトなどで書いています。
内容を体系的にまとめているものとして、「べーシックインカムを実現する方法」というウェブサイトを公開している(全部無料で読める)ので、よければ以下のサイトも見ていってください。
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