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なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由

今回は、「なぜ社会に必要な仕事をしている人ほど待遇が悪くなりやすいのか?」をテーマにしたい。

「エッセンシャルワーク」と言われるような、素朴に人のためになるような仕事や、社会に必要な仕事ほど、給料が低かったり、労働環境が悪かったりする問題がよく指摘される。

この問題について説明していこうと思う。


「市場」は「あらゆる人の需要を満たそうとするもの」ではない

「市場は、需要を満たすもの」と思っている人は多いと思う。

市場のメカニズムが説明されるときに、「需要と供給」という概念が使われるし、我々の素朴な実感としても、誰かの需要を満たそうとするのがビジネスだと感じているだろう。

しかし、例えば、育児や介護のような仕事は、たとえ強い需要があっても、儲かるビジネスにはなりにくい。なぜなら、サービスを受ける側になる乳幼児や老人が金を払えないからだ。

金を稼げない人は金を払えないので、金を稼げない人の需要をいくら満たしても、ビジネスとしては成功しない。

市場は、「あらゆる人の需要を満たそうとするもの」ではなく、「金を稼げる人の需要を満たそうとするもの」なのだ。

「金を支払ってもらわなければ金が儲からない」というのが、市場のルールだ。

「ユーザーのニーズを満たすのがビジネス」みたいなことが言われがちだが、それは正確ではなく、「金を支払おうとするユーザーのニーズを満たすのがビジネス」と言うべきだろう。

例えば、我々の多くが素朴に持っているニーズは、「あまりキツい労働をせずに楽に暮らしたい」みたいなことだったりするが、市場のルールにおいて、そのようなニーズが満たされることはない。

なぜなら、「働かなくてもいいような楽な状況」を提示された人間は、金を稼ごうとしなくなり、ゆえに金を支払えなくなるからだ。

金を支払ってもらわなければビジネスが成立しない以上は、市場において、「金を稼げない人」や「金を稼ごうとしない人」の需要が満たされようとはしない。

金を支払ってもらうためには相手が金を稼いでいる必要があり、ゆえにビジネスは、相手の生活を楽にするよりもむしろ、「もっと色んなことにコンプレックスを感じながら、少しでも多くの金を稼ぐために必死に働け!」と煽り立てるようなものになりやすい。

例えば、通勤中の電車の中で見かけるような広告は、スキルアップ、転職、投資、美容……みたいなものが多いだろう。

ビジネスは「金を稼げる人」を相手にしないと儲からないが、「金を稼げる人」の望みは、「もっと金を稼げるようになること」だったりすることが多い。ゆえに、すでに金を稼げる人に向けた、さらに金を稼ぐためのスキルアップや転職などは、収益性の高いビジネスになりやすい。

また、性的魅力を持っている若い女性なども、「金を稼げる人」であることが多く、そのような層の需要を満たすビジネスは収益性が高い。若い女性を中心に経済が回るのは、若い女性の持つ性資本が「金を稼げる人」の需要になりやすい、という事情もある。


「市場」は「市場の前提になるもの」を評価しない

「金を稼げる人の需要を満たす」のが市場だったとして、しかし人間は、産まれたその時点から「金を稼げる人」ではない。

乳幼児や子供は、一方的に庇護を受ける必要のある存在であり、人は誰しも、「金を稼げる人の需要を満たす」という市場のルールの外側の、経済合理性ではない部分に頼って産まれ、育てられてきた。

ここで指摘したいのは、市場というシステムは、それ自体で自己完結しているものではないということだ。

市場において、「金を稼げる人(経済合理的な判断のできる個人)」がそのメインプレイヤーになるわけだが、その「金を稼げる人」を産み育てる仕事は、市場の外部に頼らざるをえない。

つまり、市場は、その外部に頼らなければ成立しないシステムなのだが、その上で市場のルールは、「市場を成り立たせる外部の仕事(子供を産み育てること)」をマイナスに評価する。

市場が出生をマイナス評価することに関しては、「経済成長すると少子化が進む理由と、べーシックインカムによる出生率の改善について」という記事で説明している。

上の記事の概要を簡単に説明すると、まず、社会に市場経済が浸透すると、個人が自由に市場競走に参加できる、チャンスのある社会になるのだが、それゆえに、競走に勝つための努力をしない人間が不利になる。

そして、人に与えられているリソースは有限なので、市場競走に勝つために使えるリソースと、子供を産み育てるために使うリソースは、トレードオフの関係にある。

例えば、子供を産んで育てた場合に使う金や時間などのリソースは、そのまま市場競争に勝つために使ったり、自分が消費者として楽しむために使うことのできるリソースでもあるのだ。

このようにして、市場は、実質的に「出生」をマイナスに評価する。

市場は、その外側からプレイヤー(産み育てられた主体)を持ってこなければ成立しないシステムであるのに、市場のルールは、そのプレイヤーの供給(子供を産み育てること)を、低く評価してしまうのだ。

この点において、市場というシステムには、外部からリソースを奪って消費するような性質があると言える。

市場が、「それに頼っているにもかかわらず、低く評価するもの」は、市場に参加するプレイヤーを産み育てる「出生」に限らない。市場が成立する前提となる場を整備する「インフラ」や「治安」も、市場は評価することができない。

インフラ整備や治安維持は、市場という交易の場そのものを成立させるために必要なものだが、そうであるがゆえに市場はそれを評価できない。交易を成り立たせる場そのものは交易の対象にできないからだ。

社会そのものの存続のために必要なインフラは、最初は国家主導によって整備するしかない。市場をちゃんとルールの守られる場にするための権力や警察力は、現在も国家が提供している。

市場は、その外部の仕事に頼らなければ成立しないが、その上で、市場のルールは、「市場が成立するための場を整備する仕事」を評価することができない。


市場を「ブレーキ」であると考える

市場は、その性質上、「集団のための試み(社会の存続にとって必要な仕事)」よりも、「個人のための試み(競走に勝つための各々の努力)」を重視するものなのだ。

「なぜ社会に必要な仕事をしている人ほど待遇が悪くなりやすいのか?」に対しては、「そもそも市場がそういう性質のものだから」というのが回答になる。

特に変なことが起こっているというわけではなく、市場は、「個人のため」を重視する作用で、それゆえに、市場が影響力を持つほど「集団のため」の試みが軽視されやすくなる。

ゆえに、まさに市場というシステムが正常に機能しているからこそ、エッセンシャルワーカーという「集団のため」にリソースを使おうとする人たちは、高く評価されない(給料が低い)のだ。

しかしここでは、市場を「良くないもの」と考えているわけではない。

むしろ、市場は、「集団のため」を評価しないからこそ、重要な役割を果たしていると考える。

ここでは、「市場の役割はブレーキである」という考え方を提示したい。

一般的には、市場は、生産を促進する「アクセル」のようなものであると考えられることが多い。

しかしここでは、「市場はブレーキ」という考え方を提示する。

個人のミクロな視点では、市場競走において他者よりも優位を得るための努力ができることは、自身を奮い立たせるアクセルのように感じるだろう。

しかし、そうやって各々が自己利益の追求にリソースを支払うようになる構造こそが、集団のマクロな視点では、「人口の再生産」のような社会の存続にとって最も重要な試みにとってマイナスに作用する。

実際に、市場が浸透した社会は、出生率が減っていき、長期的な存続が危ぶまれるようになる。

このような点を持ってして、ここでは、市場を「ブレーキ」であると考える。


伝統的な規範や常識が「アクセル」として作用する

では、市場が「ブレーキ」であるとするなら、「アクセル」にあたるのは何なのか?

ここでは、経済合理性に反する、「伝統的な価値観」や「社会の規範・常識」や「ナショナリズム」のようなものが、「アクセル」として作用すると考える。

市場は、「個人の需要・個人の欲望」を重視するゆえに、それはマクロでは「ブレーキ」として機能する。

一方で、伝統や規範は、「集団の需要・集団の欲望」を重視するゆえに、「社会に必要な仕事」を重視し、それが社会集団全体にとっては「アクセル」として働く。

一般的には、各々が自己実現のために努力し、その原動力によって社会が発展していく、と考えられているだろう。

しかし、先に述べたように、努力した個人がその分のリターンを得られるという市場のルールにおける競走は、そのルール自体が「社会に必要な仕事」を評価できないので、競走が行われるほど、むしろ社会は衰退していく。

繰り返し言うが、そのような個人が自己利益を目指す作用が「悪い」と言っているのではない。ただ、市場が果たしている重要な役割は、「アクセル」にあるのではなく「ブレーキ」にあると主張しているのだ。

ここでは、個人の自由と権利が尊重されているから社会が豊かになる」と考えるのではなく、「個人の自由と権利が尊重されているのは、それ自体が望ましいことだが、一方で社会全体は衰退していく」と考えるのだ。

一方の、「保守的な社会の規範や常識(アクセル)」は、それ自体が、個人の自由と権利を否定する性質を持っていて、望ましくないものだ。一方で、社会にとって必要な仕事を評価するためには、そのような個人を否定する作用が必要になる。

つまりここでは、「保守的な社会の規範や常識(アクセル)」のような、「社会に必要な仕事を評価するが、個人の自由を否定するもの」と、「市場のルール(ブレーキ)」のような、「個人の自由を尊重するが、社会を衰退させていく」ものとの、トレードオフがあると考える。

ここで示している見方は、社会に必要な仕事を評価しうるが、暴走する危険のある「アクセル」の作用を、社会に必要な仕事を評価しないが、個人を納得させながら安全にリソースを消費する「ブレーキ」の作用が、その行き過ぎを防いでいるといったものだ。

「集団の欲望」を重視する社会の規範や常識は、「これがなければ社会が成り立たない」ものではあるが、危険なものでもある。

それに対して、「個人の欲望」を重視するブレーキが、暴走を防いでいるのだが、まさに「ブレーキ」であるからこそ、その作用が強くなりすぎると、社会が衰退していく。

直感的には、市場が「ブレーキ」であることを納得しにくいだろうと思う。

個人のミクロな主観において「アクセルを踏んでいる(競走のための努力している)」と思えるようなことが、社会全体というマクロでは「ブレーキになる(人口を減らして社会を衰退させていく)」といった形で、市場が「ブレーキ」として作用しているからだ。

競走がブレーキとして働くことについては、例えば「スポーツ」のようなものを思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。

スポーツは、それ自体が何らかの物質的な余剰を生産するわけではなく、そこにどれだけリソースを注がれても、必ず相対的な勝者と敗者が生まれる。そのため、子供を産み育てたり、社会に必要な仕事に使うことのできるリソースを、スポーツのような相対的な競走に注ぎ込むほど、マクロでは全員が苦しくなっていく。

このような「競走の過剰」という論点については、「なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?(答え:競争のやりすぎ)」という記事をすでに書いているので、よければ参考にしてほしい。

上の記事では、市場競走にも、スポーツと同じような「相対的な競走(必ず勝者と敗者、つまり貧富の差が生じる)」という性質があることについて述べている。

個人が市場競走に注ぎ込む努力は、ミクロ(個人の主観)では、生産を促進するアクセルに思えるのだが、マクロ(社会全体)では、社会に必要なエッセンシャルワークがルールに評価されず、人口(出生率)の増加にとってもマイナスに働く。

このような点を踏まえれば考えてみれば、市場は「ブレーキ」として作用していると思えるのではないだろうか?


ブレーキがあるからアクセルを強く踏める

ここでは、市場の役割を「ブレーキ」であるとした。とはいえ、社会の豊かさにとって市場が重要な役割を果たしていないわけではない。

「アクセル」と「ブレーキ」という比喩を使ったが、「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」と考えることができる。

もしクルマにブレーキの機能がなかったなら、事故が多発するか、かなり低い速度でしか運転できなくなるだろう。

同じように、「ブレーキ」のない社会は、「強いアクセル(大規模な協力関係)」を踏むことができない。

もし、個人の利害を調停する「市場」のような「ブレーキ」の作用がなく、「伝統的な価値観」や「規範や常識」や「理念や団結」のような、個人を否定する「アクセル」の作用のみに頼る社会運営をしようとした場合、戦争や革命によって、社会が一定の規模に達する前に崩壊してしまうだろう。

個人の自由を重視する「ブレーキ」の作用があるからこそ、より強い「アクセル」を踏めるようになったのが、近代社会の特徴であると、ここでは考える。


「GDP」は「ブレーキを計測して走行距離を推定する」

市場を「ブレーキ」と考えるなら、経済成長した(GDPが増加した)国家の出生率が減っていくことも説明しやすい。

「GDP(国内総生産)」は、簡単に言うと、市場で交易されたやり取りを計測して、それを「生産量」と見立てる指標だ。

しかし、「人口の再生産」という社会にとって最も重要な「生産」が、GDPの増加によって減少していくなら、GDPはむしろあべこべな指標のようにも思える。

ただここでは、GDPを、生産を反映していないとは考えない。

アクセルとブレーキの比喩で言うなら、GDPは、「ブレーキを計測して走行距離を推定する」ような指標なのだ。

一般的な乗用車などにおいて、ブレーキを踏まれた回数を計測すれば、それはある程度は、走行距離(アクセルが踏まれた回数)を反映することになるだろう。

普通にクルマを運転していれば、アクセルを踏んだぶんだけ、ブレーキも多く踏むことになる。

そして、市場(ブレーキ)における交易量に着目するGDPという指標は、ブレーキを数えることでアクセルを見積もるようなものと言える。

ブレーキがたくさん踏まれていたなら、それに見合うほどアクセルが踏まれていたと見なしてもいいように、交易がたくさん行われていたなら、それに見合うほど生産が行われていたと見なしてもいいように思える。

そして、アクセルではなくブレーキのほうを計測しているのがGDPなのだ。

そう考えると、「GDPが増えると少子化が進む」ことにも説明がつきやすいように思う。

経済成長しているということは、たくさんのブレーキが踏まれているということで、だとすれば、長期的には速度が減速していく。

GDPを増やした国は、長期的なGDPにとって最も重要な数値と言っても過言ではない「出生率」を減らしていくことになる。

これは、市場の作用が「ブレーキ」だからこそそうなるのだ。

(この論点については、また別の記事で詳しく説明するつもりだ。)


アクセルを踏むつもりでブレーキが踏まれている

ここでは、「集団を重視することによるアクセル」と「個人を重視することによるブレーキ」という図式を提示してきたが、どっち重視するのが良い、という話をしたいわけではない。

ただ、今の社会において、「アクセルを踏むつもりでブレーキが踏まれていることが多い」ことは指摘したい。

現在の政治や、何らかの政策提言において、「速度が足りないからブレーキを踏もう」というようなことが言われがちなのだ。

例えば、「人口が減り続けて社会の存続が危ぶまれている」や「努力しているのに生活が苦しい」といった「アクセルの欠如(ブレーキの過剰)」が原因の問題に対して、「市場競走の促進によって豊かな社会を目指そうとする」のは、「速度が足りないときにより強くブレーキを踏もうとする」ようなものなのだ。

このような論点について、詳しくは、また機会を改めて論じたいと思う。

長くなったので、今回の内容はここまでにする。

この記事で出してきた、「集団の欲望」を重視する作用が「アクセル」で、「個人の欲望」を重視する作用が「ブレーキ」という考え方については、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトで詳しく説明しているので、よければ読んでみてほしい。


まとめ

  • 市場において、金を稼げない人は金を支払えないので、金を稼げない人の需要をいくら満たしても、ビジネスとしては成功しにくい。乳幼児や老人は金を稼げないので、育児や介護の仕事は、多くの需要があっても給料が高くなりにくい。

  • 「金を稼げる人の需要を評価する(金を稼げない人の需要を評価しない)」のが市場のルールだが、それゆえに市場は、それ自体で完結しているシステムではなく、外部に「プレイヤーの生産(子供を産み育てること)」を頼っている。

  • 市場は、外部からプレイヤーを呼び込まないと成立しないが、一方で市場のルールは、そのような「市場の外部(出生)」をマイナスに評価する。

  • 「出生」に留まらず、市場は、インフラ整備や治安維持など、「社会に必要な仕事(エッセンシャルワーク)」を高く評価できない。

  • 市場は、外部の余剰を消費することで成り立ち、その上で、そのような外部の仕事をマイナスに評価する。ただ、それをここでは、「市場の役割はブレーキである」と考える。

  • 市場が「ブレーキ」であるとして、「アクセル」として作用するのは、経済合理性に反する「伝統的な価値観」「社会の規範や常識」「ナショナリズム」などである。

  • 個人の自由を否定して「集団の欲望」を重視する作用が「アクセル」になり、個人の自由を肯定して「個人の欲望」を重視する作用が「ブレーキ」になる。

  • 「社会に必要な仕事を評価するが、個人の権利を否定する(アクセル)」か、「個人の権利を尊重するが、社会に必要な仕事を評価できない(ブレーキ)」か、のトレードオフがあることになる。

  • 市場(ブレーキ)が、社会の豊かさにとって重要な役割を果たしていないわけではなく、「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」と考える。利害を調停して個人を納得させる「市場(ブレーキ)」の作用がなければ、近代社会のような「大規模な協力関係(強いアクセル)」も成立しない。

  • 市場がブレーキであるならば、GDPは、「ブレーキを計測して走行距離を推定する」ような指標と言える。そして、それゆえに、ブレーキを踏み続けると速度が落ちていくように、GDPを増加させた国家は、長期的なGDPにおいて最も重要な人口を減らしていく。

  • 現代の国家においては、「人口減」や「生活の苦しさ」といった「アクセルの欠如(ブレーキの過剰)」が原因の問題に対して、「もっと経済成長が必要」などといった、「速度が足りないときにより強くブレーキを踏もうとする」ような政策が提唱されがちだ。


この記事の内容は以上になります。

このnoteと似たような内容のyoutubeもやっているので、よければ動画のほうも見ていってください!


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