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なぜビジネスは悪質になるのか?市場のルールが社会に与える影響について解説

「悪質なビジネスが多い」と感じたことのある人は多いと思う。

意図的にわかりにくい仕組みを作り、情報の非対称性を利用して高い料金を支払わせる。不安を煽って無駄なものを買わせる。一度契約したサービスを解約しにくくする。……など、今の社会には、人間の弱い部分を狙うようなビジネスが多くなっていると感じる人が少なくないはずだ。

今回は、「市場のルールが社会に浸透した結果として、ビジネスは悪質なものになる(多くの人にとって悪質と思えるものになる)」という話をしたい。

ただ、「市場そのものの意義を極端に否定」したり、「モラルが大事という結論で締めくくる」といったことはせず、「なぜビジネスが悪質になるのか?」の原理的な説明を試みる。


市場は、アンフェアだった社会に、フェアネスをもたらす

まず指摘したいのは、それがフェアネスに基づいた試みであっても、「悪質」に映る場合があることだ。

例えば、スポーツにおいて、「ディフェンス」のような、自分が勝つために相手を妨害する(自分が有利を得るために相手を不利にする)行いがされる。もちろん、スポーツならば、ルールに認められた範囲でそれをやるのは、むしろ称賛されることだ。

ただ、スポーツにおける「ディフェンス」のようなことが、我々の生活に関わる場で行われたら、それは「悪質」であると見なされやすいだろう。我々の生活や社会は、競技ではないからだ。

しかし、市場は、もともとは競争ではなかった社会に対して、「スポーツのような競争」をもたらそうとする作用になる。

スポーツは、「公平なルール」のもとに競い合い、そのルールに認められた範囲内では、相手を妨害することが許される。

同じように、市場も、「より多くの貨幣を稼いだ者が、その貨幣を使うことで、より多くの分配を手にすることができる」という、ある種の「勝者に報酬が与えられるゲーム」である。

そしてそのゲームは、「公平なルール」のもとに競い合うことが重視されている。法律などの「市場のルール」は、政治的な議論によって常にルールの調整や更新が行われている状態で、それは完全に公平なものとは言えないが、万人にとってフェアなものであることを目指してはいる。

市場において意図される公平さは、スポーツにおける「公平なルール」に近い。

そして、それが「公平なルール」であるからこそ、「ルール」の範囲内で全力を尽くすと、「相手を不利にするようなふるまい」になりやすいと考える。

「公平な条件で勝ち負けを競う、スポーツ競技に似たような状態を、社会にもたらそうとする働き」である市場は、多くの場合、個人には歓迎されるものになりやすい。

なぜなら、市場における「公平なルール」が普及する以前の伝統的な社会は、アンフェアなものだったからだ。

アンフェアだった旧来的な社会に対して、市場は、フェアな競争に個人が参加できる自由と権利をもたらす。

個人の自由と権利を重視する市場の作用は、近代的な価値観において望ましいものとされやすく、自由な意思を持つ個人に受け入れられやすい。

ただ、市場がもたらす「公平さ」は、「不公平であること」によって成り立っていたかつての社会の仕組みを解体していき、それゆえに、悪質なものに映ることがある。

市場がもたらす「公平な競争」は、望ましい面があると同時に、今までの社会を破壊していく作用でもあるのだ。

「市場という公平なルールの競争に参加できる」という形で、社会にフェアネス(自由と権利)がもたらされていったのだ。

しかし、それがフェアな競争であるからこそ、既存の社会の「モラル」に反するような、悪質なビジネスが行われるようになっていく。そのことを以降で説明していくが、ここでは説明のために、市場が「ブレーキ」であるという考え方を提示したい。


「いかに相手の需要を満たすか?」ではなく、「いかに相手に金を支払わせるか?」がビジネス

一般的に、市場(ビジネス)は、生産を促進する「アクセル」のようなものと考えられていると思う。しかしここでは、市場の役割は「ブレーキ」であるという考え方を提示したい。

市場が重要なものであることは否定しないが、その役割を、「アクセル」ではなく、「ブレーキ」と考えるのだ。

「市場競争(ビジネス)は、誰かの需要を満たし合う競争であり、それが行われるほど社会が豊かになっていく」という考え方が、あるいは今の社会の前提になっているかもしれないが、ここではそうは考えない。

まず、ビジネスは、「素朴に誰かの需要を満たしさえすれば、それが評価されて、それに応じた金が儲かる」といったものではない。

なぜなら、「相手に金を支払わせないと金が手に入らない」というのが、市場のルールだからだ。

例えば、「働かずにのんびりと暮らしていきたい」などの、多くの人が素朴に持っているであろうニーズは、市場において満たされることはない。

働かない人は金を稼げず、金を支払えないので、そのような人の需要を満たしてもビジネスにならないのだ。

つまり、「いかに相手の需要を満たすか?」ではなく、「いかに相手に金を支払わせるか?」が、ビジネスであり、そのようなルールはむしろ、金を支払えない相手の需要を満たすことに、マイナスのインセンティブをもたらす。

そしてそれゆえに、近代化して経済成長した社会ほど少子化が進む。

市場が社会に浸透すると、「子供を産み育てる」といったような社会に必要な仕事が、かつてよりも低く評価されるようになるのだ。

これについて詳しくは、「経済成長すると少子化が進む理由と、べーシックインカムによる出生率の改善について」という記事で解説している。


市場の役割は「ブレーキ」だが、社会の「豊かさ」にとっては不可欠

また、このnoteでは、「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由」という記事を書いている。

そこでは、市場が、「あらゆる人の需要を満たそうとするルール」ではなく、「金を支払える人・金を稼げる人の需要を満たそうとするルール」であることを詳しく説明している。

育児や介護のような仕事は、それを必要とする乳幼児や高齢者が金を稼げないので、いくら需要があっても給料が高くなりにくい。また、インフラ整備や治安維持などの社会の前提になる仕事は、重要なものであるがゆえに市場で交易できる対象にはならず、それも市場原理では評価できない。

「市場のルール」には、「社会に必要なものほど評価できない」という特徴があるのだ。

「相手の需要を満たしたい・相手を幸せにしたい」というのが最大の目的なのであれば、金を貰わずに相手に必要なものを提供すればいいし、実際に、貨幣が浸透する以前の社会ではそれが行われていた。

伝統的な社会では、貨幣を介さずに、素朴に相手が必要とすることを行っていたのに、「市場」というルールが影響力を持つようになると、「相手が望むことを無償で行うのは損」という考え方になっていく。

市場経済(貨幣)が社会に浸透していくほど、「相手がそれを必要としているなら、金を取らないと割に合わない」と考える人が増えていくのだ。

このような作用は、むしろ「ブレーキ」のようなものと思えないだろうか?

ただ、市場が「ブレーキ」だからといって、それが悪いと言いたいわけではない。

貨幣が普及する以前の伝統的な社会における生産活動は、個人にとって理不尽になりやすいものだった。特に報酬が定められているわけではなく、自由を否定されながら、集団のための仕事に従事させられる人が多かった。

一方で、市場のルールに則って、貨幣を介してやり取りをすると、個人の権利が守られやすくなる。

例えば、貨幣を介すると、その労働に対してその給料が、他と比べて高いのか低いのかを、客観的に比較しやすくなる。そのため、伝統的なやり方で生産を行っていた場合に対して、貨幣を介した取引が主流になるほど、理不尽なことが起こりにくくなっていくと言える。

市場のルールは、「社会にとって重要なものを評価できない」が、一方で、それによって「理不尽が防がれやすくなる」。

これは、役割としては、「ブレーキ」であると考えるべきだろう。

何らかの生産活動において、必ずしも貨幣を介してそれを行う必要はない。ただ、市場のルールに則って「ビジネス」を行うというのは、「重要なものが評価されにくいが、理不尽が防がれやすい」というルールで活動することを意味し、市場の役割は「ブレーキ」なのだ。

そして、市場が「ブレーキ」だからといって、それが市場が豊かさに寄与していないわけではない。

一般的な乗用車などを考えてみても、「ブレーキ」がなければ大変なことになるだろう。ブレーキがあるからこそ、速度を出して、安全に長い距離を走れるようになる。

同じように、市場のルールという、理不尽を防いで個人を納得させる「ブレーキ」の作用があるからこそ、現代社会のような、大規模な協力関係が機能する。

もし市場という「ブレーキ」がなければ、すぐに一揆や革命や戦争などが起こって、大きな集団を維持し続けることができなくなっていただろう。

ここまで、市場(ビジネス)の役割は「アクセル」ではなく「ブレーキ」だが、そのような「ブレーキ」は、大規模な協力関係を成立させるという点において、「豊かさ」にとって不可欠な役割を果たしていることを説明してきた。


「公平な競争」が「ブレーキ」で、「不公平な協力」が「アクセル」

では、「市場」を「ブレーキ」と考えるなら、「アクセル」は何に当たるのかというと、「集団に協力することを個人に強制する作用」であると考える。

例えば、「伝統・規範・常識・モラル」などといったものが、生産を促進する「アクセル」になる。

伝統的な社会の規範は、もちろんそこに特有の道理はあるにしても、市場のような「フェア」なルールと比較すれば、「アンフェア」なものであることが多い。

市場が普及する以前の、伝統的な社会の価値観は、「不公平な協力」を個人に強制するようなものが多く、これが「アクセル」として作用してきたと考える。それに対して、市場という「公平な競争」に参加することを個人に許す作用が「ブレーキ」になると考える。

またここでは、伝統的な価値観は、明文化されていない「モラル」という形を取りやすく、市場によって、誰もが客観的に参照できる「ルール」がもたらされると考える。

「不公平な協力」が「アクセル」になり、「公平な競争」が「ブレーキ」になるのだが、我々は、この「ブレーキ」と「アクセル」を混同しがちだ。

我々の個人の素朴な主観としては、自由を制限する「不公平な協力(アクセル)」のほうを、「ブレーキ」だと思いやすく、競争への参加が許され、自分がそのために努力する「公平な競争(ブレーキ)」のほうを、「アクセル」だと思ってしまいがちなのだ。

これについては、「現代人が結婚できなくなった(しなくなった)理由」や「競争を疑うのが難しい理由」というnoteを書いていて、そこで詳しく説明している。

我々は、個人の「本能」としては、「自然な競争」における勝者を、「望ましいもの・優れているもの・強いもの」と思いやすい。しかし、そのような「本能」を超えて「不自然な協力」を促す作用が、今の我々の「社会」を支えている。

そして、社会から個人を開放することは、個人の本能的には「正しいこと」と感じやすいが、それは「文明」を否定して「自然」に戻ろうとするようなものなので、社会が継続できなくなっていくし、生活が過酷になっていく。

つまり、「豊かさのために必要だが、正しくない」という「社会制度」と、「正しいが、豊かさが否定される」という「本能」とが、対立する関係にあることになる。

そして、この記事で説明してきた「不公平な協力(アクセル)」が、「社会制度」の側になり、「公平な競争(ブレーキ)」が、「本能」の側になる。

現状の社会は、個人の「本能」を否定する不自然な協力関係である、「不公平な協力」という「アクセル」に頼って成立している。そしてそれは、個人にとっては「正しい」と感じにくいものだ。

一方で、市場が社会に浸透することは、「公平な競争」という「ブレーキ」が強くなっていくことを意味する。これは、個人が「本能」的に「正しい」と感じやすいことだが、それゆえに、「文明」を否定して「自然(本能)」に戻ることになってしまう、という構図だ。


「ルール」と「モラル」の対立

我々は、「能力のない人間が不利を被る・人間の弱い部分が狙われる」ようなビジネスを見て、悪質だと感じやすいが、それは「公平な競争(ブレーキ)」が正常に作用して、「文明(社会)」が「自然(本能)」に戻っているからこそ、そうなっている場合が多い。

本来の自然な人間は、今の社会の規範(モラル)が要求している水準と比べて、もっとずっと自分勝手だ。そういう自分勝手な人間の自由を抑えることでこれまでの社会が成り立っていたのだが、「市場(ルール)」が人間を自由にしたからこそ、「社会(モラル)」が維持されなくなっている……というのが、現在の先進国で起こっている現象だ。

ただ、そうであるがゆえに、「ルール」を徹底した悪質なビジネスに対して、もっと「モラル」を重視するべきだ、とするのが難しくなる。

悪質なビジネスを否定する「モラル」は、それはそれで、個人の自由と権利を理不尽に制限する、「不自然」なものだからだ。

ここで示してきたのは、「重要なものが評価されにくいが、理不尽が防がれやすい」という「ルール」と、「重要なものを評価するが、個人の自由や権利を理不尽に制限する」という「モラル」は、どちらも良い面と悪い面がある、という見方だ。

「モラル」が弱まり「ルール」が徹底されると、弱い者が食われるような「自然」な社会に向かっていく。しかしだからといって、「モラル」を強めると、個人の自由と権利を否定することになる。

「豊かさのために必要だが、正しくない」という「モラル(不公平な協力)」と、「正しいが、豊かさが否定される」という「ルール(公平な競争)」とが、対立しているという見方をするならば、一概に、「もっとモラルを強めるべきだ」と言うこともできないのだ。


「ルール」を徹底するとビジネスは悪質になる

ここでは、「悪質なビジネス」は、「不公平な協力(モラル)」が解体されて、「公平な競争(ルール)」が強まった結果として起こるものと考えている。

悪質なビジネスの例として、例えば、高齢者をカモにする証券会社が挙げられるだろう。

法に触れるようなやり方をするのは犯罪だが、「モラル」には反するが「ルール」の範囲内、というラインでやっているのが、高齢者を相手にする金融機関だ。

ほとんど認知症みたいな高齢者を騙す形で、金を儲けるようなビジネスは、もちろん悪質なものと言える。

しかし、これはこれで、「公平な競争」が作用した結果でもある。

伝統的な社会の恩恵で、つまり「不公平な協力」の結果として、自身の本来の能力には不釣り合いな預金を手にしている高齢者がいて、それが市場という「公平なルール」において、より実力のある人間のほうに金が渡った……というのが、金融機関のカモにされる高齢者という現象であると考えられる。

(※先に「重要なものが評価されにくいが、理不尽が防がれやすい」のが市場のルールと言ったが、そこにおいては、高齢者が自身の能力に不釣り合いな金銭を手にしていることが「理不尽」となる。)

「モラル」よりも「ルール」が重視されるならば、そのような社会になっていくのだ。

また、現在は、老後の安心を買うために、貯金を貯めておくことが必要と言われる。

しかし、金さえ支払えば介護のような労働集約的なサービスを安心して受けられる……というのは、労働者の「モラル」が高いからこそ成り立つような状態だ。

もし「モラル」が解体されて「ルール」が徹底される社会ならば、貯金を持っているからといって安心はできない。自分が加齢によって能力が衰えたなら、あとはその金が狙われるだけだ。

このように、「モラル」よりも「ルール」が重視される社会は、「弱い者が食われる自然」のようなもので、多くの人にとって、安心して生きることのできない、苦しい社会になる。

とはいえ、「モラル」というのも、個人を犠牲にする不合理な献身によって支えられている。(高い「モラル」で介護のような仕事をする人は、社会に搾取されているし、それを強制することは、それはそれで正しくない。)

この記事で示してきたのは、「ルール」を徹底するとビジネスは悪質になり、「モラル」を高めると個人の自由と権利が否定される、という相反関係だ。

このような事情があるゆえに、悪質なビジネスに対して、「もっとモラルを高めればいい」と言っても、あまり本質的な解決にはなりにくいのだ。

「ではどうすればいいのか?」だが、それについては、以降に更新するnoteで書いていこうと思う。

ここで論じてきた「モラル(アクセル)」と「ルール(ブレーキ)」の対立や、「モラルを高める(伝統的な規範の復権)」というやり方とは別の「アクセル」の強め方について、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトを公開していて、そこで体系的に論じているので、よければ読んでみてほしい。(全部無料で読めます。)


まとめ

  • 市場(ビジネス)は、「スポーツ」のような「公平な競争」を社会に普及させていく作用になる。それは、「アンフェア」だった伝統的な社会に「フェアネス」をもたらすが、それゆえに、旧来の社会の仕組みを破壊していく。

  • 一般的に、市場(ビジネス)は、生産を促進する「アクセル」と思われているが、実はその役割は「ブレーキ」だ。市場のルール(貨幣)を介することは、「重要なものが評価されにくいが、理不尽が防がれやすい」という「ブレーキ」を機能させることになる。

  • 市場のルールによる「公平な競争」が「ブレーキ」であるのに対して、個人の自由や権利を否定して集団のために従事させる、「不公平な協力」を促す作用が「アクセル」になる。「アクセル」は、「伝統・規範・常識・モラル」といった形をとる。

  • サピエンスは、自身の「本能」に反する「不公平な協力」を行うことで、現代の豊かさを築き上げてきた。ゆえに、「本能」を重視すると、「文明」が否定されて「自然」に戻っていく。

  • 「公平な競争」は、サピエンスの「本能」にとって正しいと思いやすい。だが、それゆえに、今の社会の豊かさの前提になっている「不公平な協力」に反する。そして、サピエンスの本能的な主観に反して、「不公平な協力」が「アクセル」になり、「公平な競争」が「ブレーキ」になる。

  • 「公平な競争(市場のルール)」が徹底された社会は、「ブレーキ」を踏み続けて静止したような、「社会」が崩壊して「自然」に戻ったような状態であり、「能力のない人間が不利を被る・人間の弱い部分が狙われる」環境になる。

  • 「モラル」を否定する作用である「ルール」が強まると、悪質なビジネスが発生する。しかし、それを防ぐ「モラル」も、個人の自由や権利を理不尽に制限する性質のものなので、「もっとモラルを高めるべき」とも言いにくい。

内容は以上になります。

youtube動画も更新しているので、よければ見ていってください!


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