現代人が結婚できなくなった(しなくなった)理由【未婚と少子化問題】
日本の生涯未婚率は増え続けている。
かつての日本は、「結婚するのが当たり前」の社会だった。
過去の生涯未婚率(50代の未婚率)を見ると、80年から90年は、未婚率が5%を切っている。
これはつまり、50年代から60年代に20歳だった人たちは、95%以上が結婚できていたということだ。
今の日本は、未婚率が上がり続けていて、2020年には、男性の生涯未婚率がおよそ28%、女性がおよそ18%とされている。これはすでに50代に入った人のデータであり、今の若者の生涯未婚率は、もっと高くなると予想される。
今の社会の前提になっている考え方は、「結婚するかどうかは個人の自由」といったものだ。
ただ、「結婚するかどうか」と「子供を作るかどうか」は切り離せない問題であり、「未婚・少子化」という問題は、社会の存続において、無視することができない。
未婚・少子化という問題に対して、「昔は周囲の圧力によって気が進まないまま結婚して子供を産んでいたが、今は個人の自由が尊重される社会になったから未婚率が上昇していて、ゆえに、この問題は解決しようがない」と多くの人が考えているだろう。
ただ自分は、問題を詳細に把握することで、解決の糸口が見えてくると考える。
そのため、今回は、「なぜかつては結婚するのが当たり前だったのに、現代人は結婚できなくなったのか?(あるいはしなくなったのか?)」の理由について、なるべく多くの人が納得できる説明を試みる。
本能と社会とのミスマッチ
まず否定したいのは、「人間は子孫を残す本能があるはずなのに、結婚できなくなっていて、そんな社会はおかしい」という考え方だ。
なぜなら、「結婚」という社会制度は、人間に遺伝的・進化的に備わっている「本能」を歪めて、「出生」にブーストをかけるような性質のものだからだ。
よく、「人間が進化的に獲得してきた本能と、現状の社会環境とに齟齬がある」という話が言われる。
例としてよく挙げられるのは、肥満の問題だ。
人間の遺伝子が形成されてきた長い歴史において、糖や脂肪の多い食べ物は、すぐに食べようとするのが適応的だったので、我々はそのような形質を進化的に獲得している。しかしそれによって、飽食の時代になった現代は、むしろ肥満が社会問題になりやすい……みたいな話を聞いたことがある人は多いと思う。
そのような、「本能と社会とにミスマッチがある」という話において、実は「結婚」も、我々が進化的に獲得してきた「本能」に反する「社会制度」なのだ、という話をこれからしたい。
そもそも、我々に内在している「本能」と、社会を支えている「社会制度」とには、ミスマッチがある。
これについて説明するために、遺伝的・進化的な話に踏み込む必要があるが、そこで、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』の内容を援用したいと思う。
「遺伝子の外部」がサピエンスの強さの源泉
『サピエンス全史』の序盤では、なぜホモ・サピエンスが、現在のような繁栄した社会を築き上げるほどの、「最強の種」になることができたのか、その理由を説明している。
『サピエンス全史』において、著者のハラリは、「大きな脳、道具の使用、優れた学習能力」といった、一般的にサピエンスの強みとされるものは、サピエンスが種として成功した要因ではないとしている。
なぜそう言えるかというと、「大きな脳、道具の使用、優れた学習能力」みたいな特徴は、ネアンデルタール人などの、サピエンス以外の人類種にもあったものだからだ。
にもかかわらず、他の人類種は滅びてしまい、サピエンスが生存競争に勝ち残った。「では、サピエンスが強かった要因はなにか?」という話が、『サピエンス全史』ではされている。
著者のハラリは、サピエンスが種として圧倒的に強くなった要因は、「嘘を信じるようになった」ことだったと述べている。
「嘘を信じるようになる」以前のサピエンスは、「大きな脳、道具の使用、優れた学習能力」といった今の我々と進化的にはそれほど変わらないスペックを備えていながら、他の自然生物と比べて特に強い種ではなく、サバンナでひっそりと暮らしていたらしい。
しかし、サピエンスの脳にちょっとした変化が起こり、サピエンスは、「嘘(フィクション)」を信じられるようになった。
それは、遺伝子の変化としては、それほど大きなものではない。しかし、そのちょっとした変化によって、サピエンスは、突然に、他の種よりも圧倒的に強い種に変化した。
「嘘(フィクション)」を信じるようになると、「遺伝子の外部」にあるものの影響力を受けやすくなる。
「嘘を信じてしまう」というのは、個体レベルでは、必ずしもポジティブな変化ではない。理屈に合わないことを信じてしまうことは、現代の合理的な見方からすると、むしろ頭が悪いとされやすいような欠陥だ。
だが、そのようなある種の欠陥によって、サピエンスは、種としては「最強の種」になった。
「フィクション(遺伝子の外部)」にあるものの影響を受けやすくなることで、変化の速度が格段に早くなる。
自然な生物は、遺伝子の変化によって行動パターンを変化させるが、遺伝子を介した変化は遅い。何世代も個体を跨ぎながら、少しずつ変化するのが遺伝子だからだ。
一方で、「嘘(フィクション)」は、すぐに変化しうる。
「フィクション(遺伝子の外部)」の影響を強く受けるようになり、遺伝子を介さないスピードで変化するようになったことが、サピエンスという種の強さの理由なのだ。
遺伝子を介さないスピードで変化することができる
「フィクション」に強く影響を受けるサピエンスは、信じるものが変わりさえすれば、それによって行動パターンも変わる。
この特徴が、「種」という集団の単位では、突出した強みになった。
変化が早いということは、トライアル&エラーの回数が多いということであり、また、そのようなサピエンスの変化の速度に、他の生物は対応することができない。
例えば、サピエンスと他の自然生物が生存競走をしていたとして、サピエンスが「勝ちパターン」を発見した場合、遺伝子に規定されている他の自然な生物は、サピエンスほど早くは変化できないので、サピエンスに対応できず、狩り尽くされたり、滅ぼされてしまう場合が多かった。
例えば、サピエンスが、ネアンデルタール人のような他の人類種と戦争を繰り広げていたとする。
もし仮に、最初のほうにほとんどが負けたとしても、どこかで、サピエンス側が「勝てる行動パターン」のようなものを発見すると、「フィクション」の影響を受けやすいサピエンスの場合、それがすぐに伝播する。
すると、「勝てる行動パターン(生き残りに有利な社会制度)」を備えたサピエンスが多くなっていくだろう。
そして、そのスピードに、「遺伝子によってしか変化できない生物」は対応できない。
ものすごい速度で「勝てる行動パターン」を発見して共有していくサピエンスは、長期的には、他の種を圧倒するようになる。
ネアンデルタール人のような他の人類種は、「大きな脳、道具の使用、優れた学習能力」を持っていたが、「嘘(フィクション)を信じること」はできなかった。ゆえに、サピエンスの変化の速さに対応することができず、長期的には、他の自然生物と同様に、一方的に狩られる側になってしまったというのが、『サピエンス全史』の説明だ。
このように、サピエンスの強さの要因は、「遺伝子の外部(フィクション)」の影響を受けやすくなり、それゆえに、遺伝子を介さないスピードで変化できることにあった。
なお、ここまでの内容は、『サピエンス全史』の記述とはやや異なる形で、かなり噛み砕いて説明しているものなので、正確な内容を知りたいならば『サピエンス全史』を読んでほしい。
「本能」に反する「社会制度」を持つ集団が生き残ってきた
サピエンスが、他の種よりも圧倒的に強い種になったあとは、サピエンス同士の生存競争が起こった。
そして、サピエンスの強さの源泉は「遺伝子の外部」にあるので、サピエンス同士の争いにおいても、基本的には、有利な「遺伝子」を持っている集団というよりは、有利な「フィクション(遺伝子の外部)」を備えている集団が生き残ってきた。
「遺伝子の外部」には、思想、文化、伝統、慣習、宗教、法律、科学技術など、色々あるが、ここでは、それらの「遺伝子の外部にあるもの」を、ひとまとめにして「社会制度」と呼ぶことにしたい。
自然な生物の場合は、生存に有利な「遺伝子(本能)」を持っている種が生き残る。一方で、サピエンスの場合は、存続に有利な「社会制度」を持った集団が生き残る。
そして、サピエンスの強さの源泉である「社会制度」は、たとえそれがサピエンス自身の「本能的幸福」に反するものであっても、それが集団を強くする性質を備えていたならば、重視され続ける。
我々が何に幸福を感じるかは、基本的には、「遺伝子・本能」に規定されている。
一方で、「社会制度」は、サピエンス個人の「本能的な幸福」に反するものであっても、それを採用した集団を強くするならば、受け継がれるし、尊重されていく。
往々にして、サピエンスを種として繁栄させた「社会制度」は、サピエンス自身の「本能」をも置き去りにしている。
言い方を変えれば、自分たちの「本能」を捻じ曲げてでも集団を強くするような「社会制度」を重視してきた集団が、これまで生き残ってきたということだ。
保守的・伝統的な価値観とされるものが、なぜ今まで尊重されてきたのかというと、それが我々の本能的な幸福を満たすからではなく、むしろ本能的な幸福に反するような形で、集団全体を強くする性質を備えていたからだ。
「結婚」という「社会制度」
ここまで、なぜ「現代人が結婚できなくなった」という話で、サピエンスの成り立ちの話をしてきたかというと、「本能的な幸福に反するが、その制度を採用した集団を強くする」という理由で尊重されてきたのが、「結婚」という「社会制度」だからだ。
つまり、「結婚すると幸せになれるから結婚が大事」というわけではないのだ。
「結婚」という制度が今の社会に根づいていて、それが重視されている理由は、過去に「結婚」のような「社会制度」を採用してきた集団のほうが、それを採用しなかった集団よりも生き残りやすかったからだ。
本能的には、女性は、決められた男性と結婚するよりも、より強い遺伝子の男性を選別して子孫を残そうとしたかもしれないし、男性は、集団に協力的になるよりも、自分がより優れた個体だと主張するために力を誇示しようとしたかもしれない。
だが、そのような自然な「本能」を重視するような集団は、おそらく、「結婚」のような「社会制度」を備えた集団に滅ぼされるなどして、生き残ることができなかったと考えられる。
「結婚」という制度は、古今東西の、一定の規模に達したほとんどの社会集団において見られるもので、それらは、細かいところで多少の違いはあるが、基本的には、近代的な感覚からすれば男尊女卑と見なされるようなものになる。
世の中には様々な「社会制度」があるが、「結婚」は、その中でもとりわけ、非常に深くサピエンスの歴史に根づいたものと言える。
「結婚」は、「本能」に反する「社会制度」ではあるが、例えば、伝統を強く疑問視するリベラルな思考の持ち主でさえ、「性的少数者でも結婚できる権利」などを目的とすることがあるように、疑うことの難しい、「社会制度」の中のトップティアであると言える。
「結婚」という「社会制度」が強い影響力を持つ理由のひとつは、それが本能に反する社会制度でありながら、本能的な幸福をまったく無視しているわけでもないところにある。
人間には、「好きな相手と長く一緒にいたい」「安心できる人間関係を構築したい」という本能的な欲求がないわけではない。
そして、「結婚」という制度には、男女がWin-Winになるような、ある種の正当な取引を実現させる側面もある。
結婚は、本能に反するものの、それによって「男女の長期契約が可能になる」という性質がある。
結婚という「社会制度」は、「女性の本能」を短期的に否定して、「男性の本能」を長期的に否定する。
若い時期の女性は、本能的には、「もっと相手を選り好みしたい」と考えるだろう。一方、男性は、「年齢を経て性的魅力を失った女性とは離れたい」と本能的には感じる。
そういった本能を否定して、男女の「長期的な契約」を成立させるのが、「結婚」という制度なのだ。
このような制度は、本能に反するものではあっても、男女双方の立場からして、それほど道理に反したものは感じにくいのではないかと思う。
長期で見れば、結婚という制度があることで、男女の性的資本の差が均され、「短期的には性的資本に差がある、男女の長期契約」という、ある種の「正当な取引」が実現する。
とはいえ、結婚が「本能」に反する「社会制度」である以上は、近代化と情報化(グローバル化)が進むほど、その影響力が失われていく。
そして、このような旧来的な信頼関係が破綻してしまった現在、女性側からすれば、若くて価値の高い時期の自分を捧げるに値する男性はほとんどいないし、男性側からすれば、若い時期が終わっても面倒を見続けるに値する女性はほとんどいない、という形で、大多数の男女が結婚できる社会ではなくなっている。
「近代化」と「グローバル化」によって「社会制度」が否定される
現代における「結婚」の影響力低下は、「社会制度」が否定され、「本能」が肯定される社会になっていることを意味する。
基本的に、「近代化」と「グローバル化」が進むと、「本能」が肯定されやすく、「社会制度」が否定されやすい社会になっていく。
まず、「近代化」が進むと、人間は、個人として思考するようになり、「自分の内面」や、「自分の考え方」を重視するようになる。
そうすると、自分の「本能」のほうに準拠しやすく、「社会制度」のほうに矛盾を感じやすくなる。
合理的個人として近代的に思考するようにようになると、「社会制度」のおかしさに目が行きやすくなるのだ。
よく、「理性と本能が対立する」といったイメージがあるが、実は近代的な「理性」は、「本能」を再評価する性質がある。
「敵の敵は味方」のような感じで、「本能」と「理性」は、「社会制度」と対立することによって、実は結託し合う関係にある。
そのため、リベラルな価値観は、本能的幸福に反する「社会制度」のほうを問題視し、個人に備わっている「本能」を尊重しようとする傾向がある。
また、「グローバル化」も、「社会制度」を相対化する性質がある。
グローバル化が進むほど、「世界中のあらゆる人間に共通するもの」といった普遍性が意識されるようになり、それによって、特定の「社会制度」が相対化されるようになっていく。
特定の(ローカル)な社会制度と、サピエンスの本能とでは、「本能」のほうが普遍性が高いからだ。
(なおこれらの論点について詳しくは、「べーシックインカムを実現する方法」の主に第2章と第3章で説明しているので、noteの外部のサイトになるが、よければ参考にしてみてほしい。)
「本能的幸福」の重視は「正しい」が、社会を「自然」に戻していく
現代は、「近代化・グローバル化」の動きによって、「社会制度」の影響力が弱まり、「本能」が重視されるようになっている。ゆえに、「結婚」を疑う人が増えている。
「結婚」が「本能」に反する「社会制度」である以上は、「特に結婚したいと思わない」「結婚という制度に矛盾を感じる」と個人が思うのは、当然だ。
個人の自由や権利や本能的幸福を重視する視点からすれば、結婚するのが当然とされていた社会こそが、歪んだものだったのだ。
ただ、個人の本能的な幸福が重視されるのは「正しい」ことなのだが、それは同時に、サピエンスが種として繁栄する以前の「自然」な状態に戻ろうとするようなものでもあり、ゆえに今の社会は、未婚化・少子化などの問題によって存続が難しくなろうとしている。
少子化が進んでいくことには良い側面もあり、少なくとも、爆発的な人口増加が続いていたよりは、ずっとマシだっただろう。
一方で、「有利な社会制度が生き残る」という原理が変わるわけではないので、今の少子化の傾向がずっと続いてこのまま人類が絶滅するまで人口が減り続けるかというと、どこかの時点で、個人を強く否定するような「社会制度」が復権する可能性は十分にある。
そのため、少子化が進んで社会が衰退していくのを、「それはそれで良いこと」と放置していいわけではないように思う。急激な人口減少には、さすがに危機感を持つべきだ。
「ではどうすればいいか?」だが、その詳細は、長くなりすぎるので、この記事にすべて書くことはできない。
詳しくはまた以降の記事などで論じるつもりだが、概要を簡単に言うなら、それは、「メリトクラシー」や「ビジネス」のような、相対的な順位のつく競走を疑うというものになる。
「メリトクラシー・ビジネス」は、「本能(自然)」を重視する側
「メリトクラシー」や「ビジネス」は、優秀な個人に利益が与えられるようにする仕組みだが、これは、「本能」と「社会制度」とで、「本能」の側を重視しようとする性質のものになる。
サピエンスは、自然な動物としての「本能」では、「優秀な個体が尊重される・生き残る」ような自然に近い状態を、妥当に感じる。
「メリトクラシー・ビジネス」は、「強い者が生き残る自然」を再現するような性質がある。
そのため、「本能」を重視する「メリトクラシー・ビジネス」は、実質的に、「社会制度」を否定しようとするのだ。
個人の能力を可視化する「競走」は、「社会制度」を否定し、「本能」が重視される自然な状態に社会を退行させていく性質を持っていて、実際に、「メリトクラシー・ビジネス」が影響力を持つほど、「結婚」できる人は減っていく。
例えば、女子教育が進んだり女性が市場競走に参加するほど、未婚率が上昇(出生率が低下)していくのは、世界中に見られる傾向だ。
なぜ女性が競走に参加すると結婚できる人が減っていくのかというと、差が可視化されると、女性は、競走の下位の男性に魅力を感じなくなるからだ。
女性には上昇婚をしたがる傾向(本能)があるので、自分と同等か、自分よりも能力が上の男性しか、恋愛・結婚の対象になりにくい。
であるならば、原理的に、結婚できない人が発生してしまう。
これは女性が悪いと言いたいわけではなく、妊娠などに負うリスクなどの性役割の差や性的価値の差を考えれば、女性が優秀な男性を選びたがるのは、「自然」なことなのだ。
「メリトクラシー・ビジネス」によって個人の能力差が可視化されるような状態は、歪なものではなく、むしろ「自然」に近いような「正しい」状態であり、そしてそれゆえに、今の社会を衰退させていく。
逆に、伝統的な結婚観が、男尊女卑・家父長制という形を取りやすかったのは、男女の評価を分離して、男性を上に置けば、それによって全員が結婚できるようになるからだ。
社会制度的に、男性を女性よりも上と位置づけることで、実際に女性の本能としても、多くの男性に好意を持ちやすくなる。
このような仕組みは、社会集団を強くための「社会制度」だが、個人の「本能」には反するものであり、ゆえに、「近代化・グローバル化」が進むことで否定される。
「優秀な個人を優遇すれば社会全体が豊かになる」という「誤解」
当然ながら、ここでは、「未婚問題・少子化問題を解決するために、家父長制のような結婚観を復権させるべきだ」みたいなことを主張したいわけではない。
個人の自由と権利を尊重する近代的な価値観は、それはそれで重視すべきものであり、近代化・グローバル化がここまで進んだ現代において、伝統を復権しようとするのも現実的ではないだろう。
では、「じゃあどうやって出生率を改善する方向を目指していくか」だが、突破口は、今の社会に「誤解」があることだと考えている。
今の社会においては、「優秀な個人を優遇することで社会全体が豊かになっていく」という何となくの前提があり、それによって、「メリトクラシー」や「ビジネス」による秩序が重視されがちであるように思う。
とはいえ、ここで説明してきたように、優秀な個人を優遇することは、むしろ「本能」が重視される自然な状態に社会を退行させていくことであり、その部分に「誤解」があるのではないかと考える。
このnoteでは、すでに「メリトクラシー」や「ビジネス」を疑うような内容の、「なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?(答え:競争のやりすぎ)」や「経済成長すると少子化が進む理由と、べーシックインカムによる出生率の改善について」という記事を書いている。
自分の基本的な主張は、今の社会におけるメリトクラシーやビジネスなどの「相対的な競走」は、別にそれをそんなに重んじる必要はないのではないか、というものだ。
「メリトクラシーやビジネスのような競走を疑って、革命を実行していくための方法」については、今回はさすがに長くなりすぎたので、機会を改めて、このnoteでも書いていくつもりだ。
なお、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトには、すでにその内容を全部書いているので、よければ読んでみてほしい。(全文無料で読めます。)
まとめ
「結婚できない(しない)人が増えている」理由を、「本能(我々の進化的な好み)」と「社会(結婚などの制度)」とにミスマッチがあるからと考える。
ホモ・サピエンスが種として飛躍的に成功した要因は、「遺伝子の外部(社会制度)」にある。
我々の幸福は「本能」に規定されているが、一方で「社会制度」は、「本能的幸福」に反するものであっても、集団の存続を有利にするならば継続され、尊重されるようになる。それを重視する集団が生き残り、それを重視しない集団は滅びるからだ。
「結婚」も、集団を強くするゆえに尊重されてきた「社会制度」であると考える。
「近代化・グローバル化」は、「社会制度」を否定して「本能」を重視する性質があり、ゆえに、それが進んだ現代は、「結婚(社会制度)」に疑問を持つ人が増えている。
「結婚」のような「社会制度」が否定され「本能的幸福」が重視されることは、サピエンスが「遺伝子の外部」によって力を得る前の「自然」な状態に退行していくことを意味し、ゆえに今は、未婚化・少子化によって社会の存続が危うくなっている。
「メリトクラシー・ビジネス」のような「競走」は、「強い者が生き残る自然」を再現しようとするような試みであり、「社会制度」と「本能」とで、「本能」の側を重視するものになる。
今の社会には、「優秀な個人を優遇することで社会全体が豊かになっていく」という「誤解」があり、そこには、これから「本能」よりも「社会制度」の側に社会を傾けて行こうとするための可能性がある。
今回の内容は以上になります。
内容が参考になった方・活動を応援してくださる方は、「スキ」や「フォロー」をしていただけると嬉しいです。
また、noteと似たような内容のyoutubeもやっているので、こちらもよろしくお願いします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?