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メリトクラシーの問題点とは何か?能力主義を批判する

今回は、メリトクラシーを批判したい。

「何らかの競争において優秀と認められた者がより多くの報酬を得ること」を「能力主義・業績主義(メリトクラシー)」であるとして、その問題について論じる。


メリトクラシーの何が問題なのか?

メリトクラシーに対する批判はすでによく行われていて、例えば、「エリートは自分の運の良さや恵まれた立場を自覚しろ」とか「もっと謙虚になって困っている人たちのことを考えるべき」といったものが多いが、ただ、そういう公平性や道徳といった観点の他にも、もっと現実的な問題がメリトクラシーにはあると考える。

それは例えば「複雑化」という問題で、今の社会では何らかの仕組みや制度が「複雑化」していくことの問題が軽視されがちだ。

最近だと、例えば「インボイス制度」や、少し前では「軽減税率」のようなものが話題になったが、そこにおいて、「事務手続きの複雑化によるコストの増加」といった問題が、そのデメリットの大きさに対してあまり注目されていないように思う。

現代は、税務や法務などにしても、「ちゃんと制度を理解して使いこなすのが大事」みたいに考えられがちだが、社会制度が無駄に複雑化していって、それに対して社会の全員がしっかり勉強してキャッチアップしたからといって、そのおかげで物質的な余剰が多く生まれたりするわけではない。

というより、むやみに複雑化した制度を学ぶために多くの時間や労力が使われることは、余剰の生産や新規事業への投資などに使えるはずだったリソースが失われることを意味する。

制度の複雑化が政策によって進められて、社会全体の負担が無駄に増えることは、損失の大きさという点で言えば実はとんでもないもので、酷い愚策であるにもかかわらず、その「複雑化」という問題は見過ごされやすい傾向があるように思う。

そしてそこには、「複雑なものを理解できる人間は優れている」「難しいことを理解できるように訓練すべき」とするメリトクラシーの問題が関係していると考える。

今の社会においては、例えば、優秀な会計士に頼むと税金が安くなったり、優秀な弁護士に頼むと裁判に有利になったりするが、よくよく考えれば、「それは社会的にそれほど肯定されていいようなことなのか?」という疑問がある。

複雑な知識を扱える人ほど有利になるという構造があり、メリトクラシーの上位者がどんどん制度の複雑化を進めて社会全体の負担が増え続けていくなかで、どうすればそのような「メリトクラシー(複雑化)」に対抗していくことができるのか、というのが、ここで扱いたいテーマのひとつだ。

また、この記事では、「よくあるメリトクラシー批判の批判」を試みたいとも思う。

それは、一般的にされがちな「メリトクラシー批判」が、本当にメリトクラシーに対抗するものになっているのか、という問いかけだ。

なぜそれをやろうとするのかというと、社会に対する問題提起という形でメリトクラシーを批判することもまた、人間の認知・理解という有限のリソースをめぐって、「いかにして自分の主張の優位性を多くの人に認めさせるか?」という競争(メリトクラシー)に回収されてしまうという構造があると考えるからだ。

もちろん、この記事でこうやってしている主張も、何らかの形で注目されて(競争に勝って)読者の目に入っているわけであり、注目度を競う競争の構造から逃れられているわけではないのだが、そういう構造にも言及した上で、「どのような試みが本質的にメリトクラシーと対立するものになるのか?」ということを語っていこうと思っている。


メリトクラシーは、実は弱くなる?

まずメリトクラシーについて最初に述べたいのが、多くの人がそれによって「強くなる」と考えやすいが、実は「弱くなる」のがメリトクラシーであるということだ。

しかし多くの現代人は、学力競争など、何らかの競争に勝つために各々が必死に努力するから、それによって社会全体が向上していくのだと、素朴に考えているだろう。この記事では、まずはそれを否定したい。

ここから、具体例として、まず、学力競争・学歴社会について語る。

現代の先進国に生きていて、学歴のような秩序から無縁でいることは難しいだろう。

少子化が進み続けている今の日本においても、学習塾などの市場規模は増え続けていて、ますます多くの人が受験や学歴や資格試験といったメリトクラシーを無視できなくなっている。

学力テストのようなメリトクラシーにおいては、多くの人がより良い学歴を得るために熱心に勉強することで社会が発展していく、というのが前提にあるのかもしれないが、しかし、より多くの人が学力テストのために必死にならなければならない社会は、「強くなっている」ように見えて、実は社会全体では「弱くなっている」。

その理由のひとつは、少子化が進んでいることだ。

日本という集団全体の国力を考えるなら、重要なのは人口だが、下手をすると「子供にちゃんとした教育の機会を与えられないなら虐待」と見なされるまでメリトクラシーが過剰になっている今の社会において、子供を産み控える人が増えて少子化が進んでいて、それによって集団が弱くなっている。

これに関しては、同じようなことを思っていた人が少なくないのではないかと思う。もし仮に競争によって個人の能力が上がったとしても、それで人口が減っていくぶんをカバーできるわけではなく、差し引きでは集団全体が弱くなっている、というのは、現時点ですでに多くの人が考えていることだろう。

しかしここでは、さらに、「個人の能力は上がっている」という部分についても疑問視したい。

ここでは、メリトクラシーによって、もちろん数が減っていくという点において集団が弱くなるし、それに加えて、個々の能力という点においても「弱くなっていく」と主張したい。

よく、「メリトクラシーのための競争によってその能力が作り出される」と考えられがちだが、実際には、多くの場合、メリトクラシーは、その能力を「作り出している」のではなく、「可視化している」に過ぎない。

そして、能力を可視化するための競争の影響力が強まりすぎると、それのために各自のポテンシャルを注ぎ込まなければならない社会になっていくので、リソースが無駄に消費されて、「個人の能力」という観点から考えても、各々が無力な存在になっていくのだ。


100人の村にメリトクラシーが浸透したら

例えば、よくある単純化で、「100人の村だったら」というのを考えてみることにする。

そして、「100人の村に、何らかの能力を測るためのペーパーテストが導入されたらどうなるか?」を考える。

そのテストが行われると、100人の順位が、第1位から第100位まで可視化されることになるとする。

テストの結果、あくまでそのテストの基準においてではあるが、その村における、「100人に1人の天才」や、「100人中10位以内の秀才」といった存在が可視化されることになる。

ただ、その「100人中第1位」や「10位以内」の人間が、そのテストによって産み出されたのかというと、テストはただ相対的な順位を可視化しただけだ。

テストをすれば100人中1位になれるポテンシャルを持った人間自体は、テストが行われようと行われまいと、もともとその村には存在していた。

では、テストによって能力が可視化される以前に、そのテストで第1位になれるポテンシャルを持った人間は何をやっていたのかというと、特に自分の能力を自覚することなくのんびり暮らしていたかもしれないし、あるいは、自分の能力を村の人たちのために発揮してみんなを幸せにする仕事に従事していたかもしれない。

ここでは、メリトクラシーのすべてを否定したいのではなく、メリトクラシーが社会を向上させる場合も当然ながらあると考える。

例えば「100人の村」が、生まれたときの身分で待遇のほぼすべてが決まるような非常に硬直的な社会だった場合、メリトクラシーの浸透は、良い変化をもたらす場合が多いだろうと考えられる。

実際に、身分ですべてが決まるような近代化が進む以前の硬直的な社会において、せっかく100人中1位になれる能力を持っていたのに実力を発揮できる機会が一切与えられない、ということもあっただろう。

そのような社会に個人の能力を可視化するメリトクラシーが広がっていくことは、望ましい効果を与えた場合が多かったと考えられる。

そして、伝統的な社会に対するメリトクラシーの浸透は、実際に多くの社会が近代化するときに経験したことであり、それが、「メリトクラシーが社会を向上させる」というイメージを持たれる理由のひとつになっている。

しかし、「伝統的な社会にほどほどのメリトクラシーが浸透するのは良かった」としても、「メリトクラシーが過剰になった」場合に何が起こるかを考える必要があると、ここでは主張したい。

能力を可視化する何らかのテストは、あくまで特定の基準で能力を測るものにすぎないし、当人のポテンシャルがそのまま反映されるわけではない。才能がそのままそっくり可視化されるのであれば、学習塾などに行って勉強する意味はなくなる。当然だが、テストで良い点をとるにはそのための努力が必要だ。

単純に「もとのポテンシャル」と「テストのための努力」の掛け算によって順位が決まると考えるとして、たとえポテンシャルを持っている人間であっても、そのテストのために時間や労力を使わなければ順位が下がってしまう。

そして、何らかのテストの順位が社会的な影響力を持つほど、そのテストにアジャストするための努力を、ある種強制されるようになっていく。

つまり、メリトクラシーが強い影響力を持つ社会においては、他人よりも相対的に高い順位を得るための努力をしなければ社会的に不利になってしまうので、各々が自分のリソースをテスト勉強のために使わなければならなくなっていくのだ。

テストがなかった社会(あるいは競争が緩かった社会)では、何らかのポテンシャルを持った人間は、素朴に他人の役に立つ仕事に取り組んだかもしれないし、あるいは自分の興味関心を追求していたかもしれないが、そういうことができたかもしれない時間や労力や才能が、メリトクラシーの影響力が強まるほど、他人よりも上位になるための競争に注ぎ込まれやすくなる。

このようにして、各々のリソースがメリトクラシーのため(競争に勝つため)に空費させられ、個々の能力という点においても、社会が弱くなってしまう。

先に言ったように、何らかのテスト(メリトクラシー)は、順位を可視化するだけで、その上位になれるポテンシャルそのもの(人間そのもの)を生産しているわけではない。というより、メリトクラシーが影響力を持つと、競争の下位の人たちの社会的地位が低下して子供を作れなくなるなど、むしろ「元になる才能の生産」が行われにくくなる。

そうやってプレイヤーの再生産が阻まれた上で、さらに、多くの人のポテンシャルが相対的な順位を競う競争のために消費されることになるので、「メリトクラシー」が強まりすぎると、「集団の数」という点においても「メンバーの能力」という点においても、その集団は「弱くなる」のだ。

学力テストなどの競争を否定するような意見を言うと、「でもみんなが勉強しなくなったら社会は崩壊するぞ」みたいなことが言われるかもしれないが、「人が何かを学ぶこと=学力テストで他人よりも高い順位を取ろうとすること」みたいな認識が、酷くメリトクラシーに毒された見方であると言える。

「競争に勝てば有利になれる」というインセンティブがなくても、人は自らの知的好奇心に従って何かを学んできたし、同じだけの時間が与えられているなかで、競争と関係のない興味関心に取り組むのと、競争のためにリソースを注ぐのとで、競争が激しくなるほど社会が豊かになっていくと考えられているがそれは本当か、という話だ。

しかし、ここまで説明した上で、それでもなお、現代人が「競争」を疑うのは非常に難しいとも考えている。

現代において、「競争の勝者になるような優れた個体が社会全体を良くしてくれる」という考え方は非常に強い影響力を持っているのだが、以降ではその理由を説明していきたい。


『サピエンス全史』による、サピエンスの強さの理由

ここからは、「なぜ我々は競争を疑えないのか?」について説明していくつもりだが、説明のために、サピエンスの進化的な話にまで遡るつもりだ。

当noteで過去に出した「現代人が結婚できなくなった(しなくなった)理由」や「競争を疑うのが難しい理由」といった記事では、『サピエンス全史』という本を援用して「なぜ我々サピエンスは現代のような豊かな社会を築き上げることができたのか?」を説明した。

(ここでも改めてその話に触れるが、過去記事やyoutube動画などですでに内容を知っている方は読み飛ばしてほしい。)

『サピエンス全史』で、著者のユヴァル・ノア・ハラリは、サピエンスが種としてここまで成功した要因は、知能や身体能力のような個体のスペックではなかったと主張している。

なぜなら、サピエンスと似たようなスペックだったり、脳容量や体格でサピエンスを上回っていたネアンデルタール人のような他の「人類」が軒並み絶滅して、サピエンスという種だけが生き残ったからだ。

では、なぜサピエンスが他の人類との生存競争に勝ち残ったのかというと、「嘘(フィクション)を信じるようになったから」とハラリは説明している。

「嘘」を信じるようになると、「自らの遺伝子(個体のスペック)の外部」にあるものの影響を受けやすくなり、それがサピエンスの強さに繋がったのだ。

「嘘を信じるようになる」以前のサピエンスは、現代の人間とほとんど変わらないようなスペックを持っていながらも、ハラリが言うには「サバンナの負け組」としてひっそり暮らしていたらしい。今の我々も、個体としてはチンパンジーやライオンと戦っても勝てないように、サピエンスの遺伝的なスペック自体は他の生物よりも圧倒的に強いというわけではない。

ただ、サピエンスの脳に、「認知革命」という「嘘(フィクション)を信じるようになった」という変化が起こって、それによってサピエンスは急に最強の種になったのだと、ハラリは説明している。

「認知革命」は、単純に頭が良くなって色んなことを理解できるようになった、という話ではない。

「嘘を信じる」というのは、「理屈に合わないものに大きく行動を左右される」ということで、合理的な思考や検証が重視される現代的な「頭の良さ」の基準からすれば、むしろ「頭が悪い」とされやすいような特徴だ。

ただ、そういったある種の欠陥によって、サピエンスは「最強の種」になった。

どういう理屈でそうなるかというと、サピエンスは、フィクションという「遺伝子の外部」にあるものの影響を受けやすくなったことで、集団レベルでの行動パターンの変化が非常に早くなった。

サピエンス以外の自然な生物の場合、「遺伝子」によって行動が変化するが、「遺伝子」による変化はものすごく遅い。何世代もの個体を経て、少しずつ変化が形になるのが「遺伝子」による変化だ。

一方で、「遺伝子の外部(フィクション)」による行動の変化は、「遺伝子」と比べれば圧倒的に早い。

フィクションに行動が左右されるサピエンスの場合、「何を信じるか?」が変わるだけで行動パターンが大きく変化しうるし、たとえ同一の個体であっても、信じるものが変われば変化が起こる。

そして、変化が早いということはトライアル&エラーの回数が多いということであり、それがサピエンスという「種(集団)」の単位では、他の追随を許さないほどの強みになった。

他の生物が非常に遅くしか試行錯誤できないのに対して、サピエンスだけが別次元の速さでトライアル&エラーを繰り返せるようなイメージだ。

サピエンスの近縁であるネアンデルタール人のような人類は、火や道具を使うことができたし、脳の大きさや体格はサピエンスに勝っていたが、嘘を信じることはできなかっただろうと『サピエンス全史』の著者であるハラリは述べている。

ここで、サピエンスがどのように「種」として強かったのかを説明するために、「嘘を信じることのできるサピエンス」と「嘘を信じることのできないネアンデルタール人などの人類」が、何らかの争いを繰り広げていたと仮定する。

最初は、サピエンスが負ける場合が多いかもしれない。

嘘を信じる(理屈に合わないものを信じてしまう)というのは、個体レベルや短期的なスパンは、むしろ弱くなる原因であることが多いからだ。

ただ、試行錯誤が膨大に行われているならば、どこかでたまたま、「勝てる行動パターン(を含んだフィクション)」を発見する集団が現れることになる。

フィクションは集団の間を伝播する性質を持っているので、それが集団を有利にするフィクションならば、長期的には多くのサピエンスが、その「勝てる行動パターンを含んだフィクション」を信じるようになる。

「嘘を信じる」サピエンスの場合、「勝てる行動パターン」が遺伝子を介さない速度で伝播していくのだ。

そうなると、サピエンスが相手の人類を圧倒するようになるのだが、遺伝子を介してしか変化できないサピエンス以外の人類は、サピエンスのスピードの速さに対抗できず、一方的に狩られ続けてしまうようになる。

単純化すると、このようにして、サピエンスは他の人類よりも圧倒的に強い「種」になった。

これは、サピエンスが個体として優れているという話ではなく、「嘘を信じてしまう」という、現代的な理性の基準においてはむしろ欠陥と見なされるような特徴によって、種としては最強になった、という話だ。

逆に、「現代的な頭の良さ」というのは、「嘘に騙されない」ゆえに変化が遅く、サピエンスに滅ぼされてしまったアンデルタール人のような個体スペックの高い人類に当てはまる特徴かもしれない。

雑にまとめるなら、すぐ嘘に騙されるようなバカだから「遺伝子の外部(フィクション)」に行動を左右され、それによって試行錯誤の量が膨大に増えて、結果的に「種」としては最強になった、というのがサピエンスの特徴であるということだ。

もっとも、嘘を信じるようになる「認知革命」が起こったという『サピエンス全史』の説明が、本当に研究として確度の高いものなのか、ストーリーとして単純化しすぎなのではないか、という批判もあるだろう。

ただ、現時点の我々の社会を参照しても、我々の強みの多くが「遺伝子」というよりも「遺伝子の外部」にあるとは言えそうだ。

そのため、ここでは、少なくとも我々サピエンスの強さの理由が「遺伝子の外部」にあるとは言えると見なして、以降の話を続けたいと思う。


有利な「社会制度(遺伝子の外部)」を備えた集団が生き残ってきた

ここまで、サピエンスが、個人に内在する「遺伝子」ではなく、自らの外側にある「遺伝子の外部」によって「種」として強くなってきた経緯について述べてきた。

このようなサピエンスの事情は、現代において、「本能(内部)」と「社会制度(外部)」との乖離、という問題を生んでいる。

サピエンスが他の人類を滅ぼしたあとは、現代に至るまで、サピエンス同士の争いが繰り広げられてきた。

そこで、「どのような集団が強かったのか?」だが、基本的には、より強い「遺伝子の外部(社会制度)」を備えた集団が生き残ってきた、と考えられる。

通常の生物の場合は、生存に有利な「遺伝子(本能)」を備えた個体が生き残るのだが、サピエンスの場合は、有利な「遺伝子の外部(社会制度)」を備えた集団が生き残る。

そして、「社会制度」は、例えそれがサピエンスの「本能」に反するものであっても、それを採用した集団が生き残りに有利になるなら、受け継がれていくし、尊重されるようになる。

例えば、「結婚」のような仕組みやそれに付随する文化や伝統は、集団を強くするゆえに重視され続けてきた「社会制度」であると考えられる。

伝統的な社会において、人々は、好きでもない人や、本能的には否定したくなるような異性とむりやり結婚して、子供を産み育ててこなければならなかった。

つまり「結婚」という「社会制度」は、「自然」な「本能」に反して、「不自然」に全員を番いにして社会に組み込もうとするような性質を持っていて、それは個人の本能的な幸福に反する側面があるのだが、それを採用した集団は強くなりやすかった。

そして、「自然」な「本能」のまま繁殖しているようなサピエンスの集団と、「結婚」のような「不自然」な「社会制度」を備えているサピエンスの集団とで、後者のほうが集団として強かった(生き残りやすかった)と考えられる。

これが、「結婚」がこれまでの社会において強く重視されてきた理由になる。我々個人にとって望ましいものだからそれが尊重されてきたわけではなく、「結婚」のような「社会制度」を備えていない集団は生き残ってこれなかった、という話だ。

「個人の本能的幸福に反するが、集団を強くする」という理由で重視されてきたのが「結婚」のような「社会制度」であり、それは今の社会においても強い影響力を持っていて、ゆえに、我々は「本能(内部)」と「社会制度(外部)」との乖離、という問題を今も抱えている。

サピエンスは、そもそもが「自然(本能)」に反したフィクションによって強くなった種なのだが、その後のサピエンス同士の争いにおいて、ますます「本能」と食い違うような「社会制度」を発展させてきた。

現代において、いわゆる「保守」や「伝統」と見なされている「遺伝子の外部(社会制度)」は、基本的には、「個人にとっては望ましくないものだが、集団を強くするゆえに尊重されてきた」という性質を持っている。

先に説明した「認知革命(嘘を信じるようになること)」は、それによって外部の影響を強く受けやすくなったのだが、遺伝的にはわずかな変化だ。

そのため、我々サピエンスの「遺伝子」の大部分は、まだ他の生物と同じように「自然」なままの状態と言える。

つまりサピエンスは、「遺伝子の外部(社会制度)」によって現代まで急速に発展してきたのだが、その速度が、個体としての我々自身の「遺伝子(本能)」をも切り離してしまっている。

自分たちを集団として発展させてきた「社会制度」と、自らの「本能」とが乖離しているというのが、我々サピエンスが抱えている事情なのだ。

そして、自由が重んじられる現代において、我々の「本能的幸福」のほうが重視されやすくなっているのだが、そのようにして「個人」が尊重されることは、「社会制度」の否定になり、これまで築き上げてきた文明を否定して「社会」を「自然」に戻していく、という性質がある。

実際に現代の先進国は、個人の自由が尊重されるようになったゆえに、少子化などが進んで社会が持続可能なものではなくなっている。


「豊かさ」と「正しさ」の相反

ここまでの、当noteの過去記事や「べーシックインカムを実現する方法」というサイトなどでは、ここまで述べてきた「社会制度(遺伝子の外部)」と「本能(遺伝子)」との乖離について、「豊かさと正しさが相反する」という図式で説明をしている。

「豊かさと正しさの相反」という見方においては、我々に内在し個人の幸福を規定している「自然」な「本能」のほうを、「正しいが、豊かにならない」ものとして、一方で、我々に外在し現代の社会を築き上げてきた「不自然」な「社会制度」のほうを、「豊かになるが、正しくないもの」としている。

このように、「豊かさと正しさが相反する」という形式化をすることによって、現象を説明しようとしているのだ。

また、この図式において、「豊かさ」には「集団」を重視する性質があり、「正しさ」には「個人」を重視する性質があると考える。

「社会制度」は、個人の外側にあり、集団を強くするゆえに重んじられてきたもので、一方の「本能」は、個人の内側にあり、個人の幸福や意志を規定しているものだからだ。

もう少し抽象度を落として現実の例を出して言うなら、今の社会において、いわゆる「リベラル・近代的な価値観」とされるものが「正しさ」の側で、「保守・伝統的な価値観」とされるものが「豊かさ」の側になる。

現代は、「集団(豊かさ)」を重視する「伝統的な価値観」が否定されて、「個人(正しさ)」を重視する「近代的な価値観」が尊重される社会であると言えるが、それゆえに少子化などが進んで、社会が崩壊しようとしている。

しかしだからといって「伝統的な価値観」を再起しようとすることは、個人としての我々には「間違っている(正しくない)」と感じるものなので、昔に戻るのも難しい、といったような事情を、ここでは、「豊かさと正しさが相反する」と表現しているのだ。

あるいは、この「豊かさと正しさの相反」の図式において、「個人」の視点からすれば「正しさ(個人の幸福が尊重されること)」は「豊かさ」でもあり、「集団」の視点からすれば「豊かさ(集団が強くなること)」は「正しさ」でもあるかもしれないが、ここでは意図的に、「正しさ」の側に「個人」を置き、「豊かさ」の側に「集団」を置く、という物事の見方を提示している。

これについては過去の記事や外部サイトなどで繰り返し言っていることではあるので、説明が足りなければそれらを参考にしてもらいたい。


メリトクラシーは「人工的に再現された自然(正しさ)」

本題であるメリトクラシーに話を戻すと、メリトクラシーは、「豊かさと正しさの相反」の図式において、「正しさ」の側になる。

ここまで、「豊かさ(社会制度)」が「不自然」で、「正しさ(本能)」が「自然」であることについて述べてきたが、メリトクラシーには、「自然」な「本能」に望まれやすいという特徴がある。

「メリトクラシー」は、「優秀な個人」が評価されるルールを整備することで成り立つものだが、それは、個体として優秀な者が生き残る「自然」を再構築しようとする性質がある。

そして、メリトクラシーが、実は「弱くなる」ものであるにも関わらず、我々がそれを「強くなる」ものだと思ってしまう理由はそこにある。

メリトクラシーの勝者は、人工的に再構築された「自然」な環境における優秀な個体ということになるのだが、それゆえにサピエンス基準では「弱い」ものになる。

なぜなら、「自然」な競争における優秀な個体を、「不自然」に協力し合う集団の暴力によって蹂躙してきたのが、これまでの我々サピエンスだからだ。

個体としての優秀さに回帰するということは、「社会」を否定して「自然」に戻ろうとするようなもので、それゆえに、我々個人の「本能」的な主観に反して、「実は弱くなる」。

しかし一方で、我々は「本能」としては、「実は弱い」メリトクラシーの勝者を、「望ましいもの・強いもの」と感じやすい。

例えば、「スポーツ」などの競技も、特定の基準における相対的な上位に恩恵が与えられるという点においてメリトクラシーと言えるが、我々がトップアスリートに感じる強さや美しさや憧れのようなものは、「自然」な環境に勝ち抜ける優秀な個体に対して感じる「本能」的な好ましさに近い。

ただそれゆえに、「スポーツ」の勝者は、「弱くなる」方向に自分のポテンシャルを注ぎ込んだ、無害化された個体であることになる。

実際に、ルールのない争いや長期的な社会の存続という観点においては、トップアスリートのような競争をくぐり抜けてきた一握りの優秀な人たちよりも、いびつな嘘(フィクション)を信じて「不自然」に協力し合うバカの群れ、みたいな集団のほうが「実は強い」。

我々サピエンスは、「個体としての優秀さ」を追求することで「弱くなる」存在なのだ。


「アクセル」と「ブレーキ」

メリトクラシーは実は「弱くなる」ものだが、だからといってそれが望ましくない作用なのかというと、「ブレーキ」という役割があると考える。

当noteで過去に出してきた「働くのがつらい理由とそれを解決する方法」や「なぜビジネスは悪質になるのか?」などの記事では、「アクセル」と「ブレーキ」の比喩を使って説明をしてきた。

「豊かさと正しさの相反」の図式のうち、「豊かさ」を「アクセル」「正しさ」を「ブレーキ」であると考える。

「伝統的な価値観」や「ナショナリズム」といったものが、危険だが集団を強くする「アクセル」であるとするなら、「メリトクラシー」は、「アクセル」の危険性を抑える「ブレーキ」のように作用する、と考える。

実態として考えても、「スポーツ」などのような競争は、「ブレーキ」としての社会的な役割を期待されていると言える。

スポーツなどの競技は、何らかの物質的な余剰を生産しているわけではなく、そこにどれだけ多くのリソースが注がれようと相対的な勝者と敗者の比率が変わらないという点においては不毛なものなのだが、個人に納得感を与えて社会を安定させる「ブレーキ」という社会的役割がある。

潜在的な加害性や暴力性を持った人間も、実力を向上させるために努力したり、その結果によって自分の立ち位置を思い知らされることによって、大人しくなりやすい。

「リソースが空費されるゆえに安全になる」というがスポーツで、これこれでは重要な役割を果たしているのだが、その作用が過剰になると、もとの余剰が増えないのに要求される努力の水準が上がっていき、みんなが苦しくなっていく。

ここでは、このような作用を「ブレーキ」であると見なしている。

先ほどのサピエンスの進化的な話と合わせると、個人としての優秀さを追求するからこそ、サピエンス基準では弱くなり、それが「ブレーキ」になる、という理屈だ。

「自然」な個体としての優秀さを証明するために時間や労力を注ぎ込むことは、「不自然」に協力し合って社会をつくるサピエンスの強さに逆行しようとする行為になる。

しかし、この「アクセル(豊かさ)」と「ブレーキ(正しさ)」において、我々は「本能」的に、「ブレーキ」と「アクセル」を混同してしまいやすい。

スポーツのような競争は、マクロではリソースを空費する「ブレーキ」になるのだが、競争に勝つために努力している個人の主観では、実力なども上がっていって、何らかが向上していると思いやすく、「アクセル」に感じやすい。

逆に、「伝統的な社会」や「ナショナリズム」のような、「不自然」に個人よりも集団を重視させようとする作用が、実は「アクセル」になるのだが、それは個人からすれば、自由を否定されていると思いやすいものであり、「ブレーキ」に感じやすい。

このように、個人の主観的には「アクセル」と「ブレーキ」はあべこべになりやすいのだが、我々サピエンスにとっては、実は自由の肯定が「ブレーキ」になり、自由の否定が「アクセル」として作用するということだ。

なお、ここまでスポーツを例に出してきたが、学力テストのようなメリトクラシーも「ブレーキ」になる。

何らかの知識や技術は、「遺伝子の外部」にある「アクセル」であり、それを学ぶことは「豊かさ」に繋がる。

ただ、「テストをやって相対的な上位になるほど良い待遇を得られる」という「メリトクラシー」の部分は「ブレーキ」として働くということだ。


ブレーキがあるからアクセルを強く踏める

ここまで、メリトクラシーは「ブレーキ」であり、それによって集団が弱くなっていくと述べてきたが、しかし、「ブレーキ」の作用が「アクセル」に寄与しないかというと、そういうわけでもないのだ。

これについて過去記事などでは、「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」という比喩を使って説明してきた。

もし自動車などに「ブレーキ」の機能がなければ、事故が多発するか、すごく弱くしか「アクセル」を踏めなくなる。

同じように、個人が評価されるメリトクラシー的な秩序(ブレーキ)がまったくない「伝統的な社会」のようなものが、一定以上の規模になりにくいであろうことは何となくイメージできるだろう。

「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」ように、「個人」を重視する「ブレーキ(正しさ)」の作用によって各々が納得するからこそ、大規模な「集団」を破綻させずに維持することができて、それがより強い「アクセル(豊かさ)」に繋がる、という考え方をここではする。

当記事の最初のほうでは、「伝統的な社会にほどほどのメリトクラシーが浸透するのは良かった」といった説明をしてきたが、それなりに「ブレーキ」が機能しながらも、「アクセル」が強く踏まれているときに、社会が発展しやすいと考える。

近代化が急速に進んでいった時期の日本は、「強いアクセル(ナショナリズム)とそれなりのブレーキ(メリトクラシー)」のわかりやすい例と言えるかもしれない。

近代的な大学制度などが整備されて、生まれで多くが決まる社会ではなくなっていった一方で、だからといって苛烈な学力競争が行われていたかというと、学力が審査されて優秀な人間が重用される仕組みはあったが、現代のようにテストに最適化された競争を大勢が行うというようなことはなかった。

そして、メリトクラシーによって選別された人間も、「国家のため」に自分の能力を使おうとしたのが日本の近代だった。

このような社会が良いと言いたいわけではないが、それなりの能力主義という「ブレーキ」と、ナショナリズムという強い「アクセル」の両方が機能していたときに、集団が急速に強くなっていったということだ。

一方で現代の日本は、「メリトクラシー」などの「ブレーキ」が過剰に機能していて、集団全体としては弱くなっていっている。

メリトクラシーという「ブレーキ」の作用が「アクセル」に寄与しないわけではないのだが、しかしそれはあくまでも「ブレーキ」の作用であり、「ブレーキ」が強くなりすぎると集団は弱体化していくのだ。


前半の内容(メリトクラシーを疑えない理由)のまとめ

ここまでの内容で、「なぜ現代において、メリトクラシーがこれほどまでに信奉されているのか?」を説明してきた形になる。

その理由として、メリトクラシーは実は「ブレーキ」として役割を持つものなのに、我々はそれを「アクセル」だと誤解してしまいやすいことを指摘した。

「正しさ」として肯定されるものである上で、「豊かさ」を実現すると誤解されているので、過剰に良いものと思われやすいのだ。

また、ここまで

  • サピエンスが「自然」な「本能」に反する「不自然」な「社会制度」によって発展してきたゆえに、「自然な競争における優秀な個体(メリトクラシーの勝者)」という「実は弱い」ものを、我々は「本能」的に好ましく思ってしまいやすい、という事情。

  • 「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」ように、近代においては「ブレーキ(メリトクラシー)」の作用が実際に社会の発展に寄与してきた、という経緯。

について説明してきた。

このようにして我々は、「ブレーキ」の作用である「メリトクラシー」を「アクセル」であると勘違いしてしまいやすいのだが、そのせいで、「アクセルが必要なときにブレーキが踏まれる」といったようなことが起こっている。

「社会が貧しくなっているから、もっと危機感を持って必死に競争しなければならない」と考えるのは、「速度が足りないときにブレーキを強く踏もうとする」といったような酷い間違いなのだが、現代では、そういう勘違いのもと、ますます競争を促進し、「ブレーキ」を強めようとするような政策が提案されがちだ。

とはいえ、サピエンスの成り立ちや、近代化の経緯を踏まえれば、「メリトクラシーによって社会が豊かになる」といった勘違いをしてしまうのも無理はない、ということを、ここまで説明してきた。


メリトクラシーもその批判も両方とも「正しさ」

この記事の前半では、「メリトクラシーを疑うのが難しい理由」を述べてきたかが、ここからは、「なぜメリトクラシー批判が機能しないのか?(メリトクラシー批判の批判)」について論じる。

結論から言うと、前半で出した図式において、「メリトクラシー」も「よくあるメリトクラシー批判」も、両方とも「正しさ」の側なのだ。

先に、「豊かさと正しさの相反」という図式を出して、メリトクラシーは実は「正しさ(ブレーキ)」の側であることを説明してきた。

そして、よくされがちな「メリトクラシー批判」も、この図式で言う「正しさ」の側の意見であることが多い。

多くのメリトクラシー批判は、メリトクラシーを「豊かさ」の側に位置づけた上で、「正しさ」の側からそれを批判する形になっている。

しかし、この記事でここまで説明してきたように、「メリトクラシーによって社会が豊かになる」は誤解で、実はメリトクラシーこそが「正しいが、豊かにならない」の側なのだ。

そもそもが勘違いに基づいた批判になるので、それが批判として機能しにくいということだ。

例えば、

  • 「市場競争によって社会が豊かになっていくが、格差や貧困などの問題が発生するので、社会保障によって対処していくべきだ」

  • 「強者を優遇することで社会が豊かになっていくが、弱者が蔑ろにされてしまう問題についてもっと考えるべきだ」

といったような意見は、メリトクラシーを、「集団を強くする代わりに問題も発生する」という「豊かさ(アクセル)」の作用であると置いた上で、その問題に対処するための「正しさ(ブレーキ)」を重視すべき、と主張するような形になっている。

しかし、実はメリトクラシーは「正しさ(ブレーキ)」として作用するものであり、つまり、「メリトクラシー」も「その批判」も、両方とも「正しさ」の側(弱くなるブレーキの作用)であるということになる。

優秀な個人であることを競う「メリトクラシー」も、弱者や恵まれない者を重視すべきとする「メリトクラシー批判」も、どちらも「正しさ」の側で、それゆえに、弱者性について問題提起する「メリトクラシー批判」は、実はメリトクラシーと対立するものにならないのだ。

実際に、現代における「誰がより優遇すべき弱者なのか?」を争うような状況が、メリトクラシーに近いものであると何となく感じている人は少なくないだろう。

以降では、強さを競う競争(メリトクラシー)と、弱さを競う競争(よくあるメリトクラシー批判)が、実は同じ「競争(差の肯定)」の作用であることを説明していく。


「弱さを競う競争」は「メリトクラシー(強さを競う競争)」と結託する

これについては、「弱さを競う競争が起こっていることをどう考えるべきか?」などの記事で説明してきたことなのだが、現代では、社会保障や優遇措置や政治的正しさなどにおいて、「弱さを競う競争」が行われている。

「弱さを競う競争」は、個人の権利を保障しようとするからこそ避けることができないものだ。

弱者性の優先度をつけずに全員を等しく扱うこと(個別の弱者性を認めないこと)は、例えば、普通に歩ける人と車椅子の人をまったく同じように扱うようなものであり、「正しさ」に反する。

個別の弱者性を尊重するのであれば、何らかの基準において「差」を設けて、特定の誰かを他よりも優遇する必要がある。

しかしそれゆえに、弱者としての優先度を競う競争が発生することを避けられない。これは、学力テストやスポーツなどのメリトクラシーにおいて、相対的な優劣が必ず発生するのと同様だ。

過去記事では、メリトクラシーのような競争を「プラスの競争」と呼び、社会保障、優遇措置(アファーマティブアクション)、政治的正しさ(ポリティカルコレクトネス)などをめぐって行われる「弱さを競う競争」を「マイナスの競争」と呼んだのだが、ここでも同じ言葉を使うことにする。

この両者の「競争」は、「プラスの競争」の問題を「マイナスの競争」によって対処する、といったように、互いに補完し合うようなものに思われがちなのだが実はそうではなく、どちらも「正しさ(ブレーキ)」を強めようとする作用だ。

メリトクラシーのような「プラスの競争」と、社会保障やポリコレのような「マイナスの競争」は、実は対立し合う関係ではなく、「正しさ」において結託していて、どちらも「豊かさ」と対立する。

プラスとマイナスの競争が結託しているというのは、例えば、弱者性への配慮を求める「マイナスの競争」は、「プラスの競争」における競争の下位を問題視して、それは一見して「プラスの競争」を批判しているように見えるのだが、競争そのもの(差を作ることそのもの)を疑わずに、競争の下位を問題視するのは、マッチポンプ的な側面がある。

競争の下位が発生すること自体は、競争が競争として機能しているならば避けられないものであり、原理的に問題が解決することがないからだ。

では、「競争」と本質的に対立するのは何なのかというと、それは「そもそも差を作らせない」「そもそも競争に参加させない」といった性質の作用になる。もちろんそれは自由や個性の否定になりやすく、個人にとっては加害的で、ゆえに「豊かさと正しさが相反する」という表現を使ってここまで説明をしてきた。

ここで言う「正しさ」は、「差を肯定する」という性質を持ち、「プラスの競争」も「マイナスの競争」もそこに含まれる。

一方で、ここで言う「豊かさ」は、「差を否定する」という性質を持ち、これが、「メリトクラシー」や「政治的正しさ」と対立するものであると考える。

「集団(豊かさ)」を重視する「社会制度」は、基本的には、「差の否定」である「同質性」を重視する性質がある。

なぜなら、何らかのわかりやすく単純な「同質性」がなければ、集団が一つにまとまりにくいからだ。

「集団」を重視するための「同質性」は、例えば伝統的な社会における「男らしさ、女らしさ」や、現在も学校や会社などで見られる「先輩、同期、後輩」などのように、画一的な規格に個人をむりやり当てはめるなどの形で、「差を否定する」ように作用するものだった。

「同質性」を重視することで、他人よりも有利になろうとする競争に個人がリソースを使いすぎることなどが防がれ、集団としては強くなりやすくなるが、一方でそれは個人にとっては加害的なものになるので、「豊かになるが、正しくない」のだ。

それに対して、「プラスとマイナスの競争」は、どちらも「差を肯定する」ものであり、互いに結託して、「正しさ」のために、「社会制度」が個人に押し付けてきた「同質性」を解体していこうとする。


「競争」が「同質性」を解体していこうとする

「マイナスの競争」は、「プラスの競争」のルールや公平さを疑うことが多いが、それは競争そのものの否定にはならず、むしろ競争における「差を肯定する作用」を補強することになる。

ルールがより公平なものになることは、「競争」の正当性を強めるように働くからだ。(これに関して詳しくは「弱さを競う競争」の記事を参考にしてほしい。)

また、差を作ること自体は肯定しながら、弱者性を重視しようとするのが「マイナスの競争」なのだが、それは「競争を下に拡張しようとする」性質がある。

これも「弱さを競う競争」の記事で出した図式だが、結託したプラスとマイナスの競争において、「プラスの競争」においては上位に、「マイナスの競争」においては下位に、余剰の分配の正当性が与えられやすくなる。

「差」を作り、プラスとマイナスの極端に恩恵が与えられるようにするのが、「競争」の特徴だ。

このようなプラスとマイナスの競争が影響力を持つほど、中間に位置する「同質的」な人たちが損をしやすくなり、どちらかの競争における上位(あるいは下位)に位置する人たちが得をしやすい社会になっていく。

このような、メリトクラシーやポリコレが浸透した社会においては、中間層である人たちも、中間にいると不利になるので、上か下か、いずれかの競争の勝者を目指そうとしやすくなる。

このようにして、「中間層(同質性)」を解体していこうとするのが「競争」の作用なのだ。

この図式において、「プラスの競争」の勝者であるエリートや高所得者と、「マイナスの競争」の勝者である福祉受給者やポリコレ強者は、対立し合っているわけではなく、どちらも競争の恩恵を受けている側であり、互いに親和的であると言える。

実際に、エリートほど福祉に肯定的で、中間層ほど福祉を嫌う傾向があるだろう。

つまり、ここで示している対立軸は、「プラスの競争の勝者」対「マイナスの競争の勝者」ではなく、「競争によって恩恵を得ている人たち(プラスとマイナスの競争の勝者たち)」対「そうではない同質的な人たち(中間層)との対立」、ということになる。


「もっと弱者のことを考えるべき」はエリートにとって耳心地が良い

ここまでの「プラスの競争・マイナスの競争」の図式を出して何が言いたかったのかというと、弱者性を尊重しようとするような「メリトクラシー批判」は、実はメリトクラシーと対立するものではないということだ。

よくあるメリトクラシー批判として、例えば、「エリートは自分の運の良さや恵まれた立場を自覚しろ」とか、「傲慢にならずにもっと弱者のことを考えるべき」といったものなどがあるが、こうした主張は、むしろメリトクラシーと親和的だ。

実際に、そもそもエリートは、一般層と比べて、こういった主張を受け入れて、弱者の問題について真剣に考えたりしやすい人たちと言える。

弱者性への配慮の要求は、競争の勝者の立ち位置を脅かすものではなく、むしろ「競争(差を肯定する作用)」を補強しようとする性質のものになる。そのため、「弱者のことも考えるべき」という言説は、エリートたちにとっては実は耳心地の良いものであり、受け入れられやすいのだが、それゆえに批判としてあまり機能しない。

メリトクラシーの勝者が本質的に嫌うのは、同質的な集団であり、競争によって差をつけることそのものを否定しようとする「伝統」や「ナショナリズム」のような作用だ。

このような事情を説明するために、差を肯定する「正しさ」と、差を否定する「豊かさ」が相反関係にある、という図式を提示してきた。


「近代的理性」が「本能(多様性)」を再評価する

メリトクラシーを疑うことが難しい事情については前半で説明してきたが、それに付け加えると、我々サピエンスは、「近代的個人として合理的に思考すること」によって「正しさ」を重視しやすくなる。

先に述べたように、現代においていわゆる「リベラル」と括られるような立場や考え方は、ここで言ってきた「プラスとマイナスの競争」の側、つまり「正しさ」の側を重視しようとするものだ。

そして、これは「競争を疑うのが難しい理由」などの記事でも説明してきたことなのだが、「近代的な思考(理性)」というのは、実は「本能」を再評価しようとする性質がある。

一般的には、「理性と本能が対立する」といったイメージがあるかもしれないが、実は「理性」と「本能」は同じ側にあり、両者は「社会制度」と対立する。

サピエンスは、「本能」を否定する「社会制度」によって現在まで発展してきた。

ただ、「社会制度」は、嘘(フィクション)という性質を持つのだが、近代教育を受けて合理的に思考するようになった人ほど、そのような「嘘」を信じられなくなっていく。

「理性(近代的・合理的に思考する能力)」は、「嘘を信じようとしない」ゆえに、「社会制度」と対立することになるのだ。

さらに、「近代的な個人」として内省的に思考するようになるほど、自分の外側にある「社会制度」よりも、自分の内側にある「本能」に準拠しやすくなる。

このようにして、「理性」には、「社会制度」を否定して、「本能」を肯定しやすい性質があると言えるのだ。

ゆえにここでは、「本能」対「理性」ではなく、「本能・理性」対「社会制度」という見方を提示している。

このような見方から言えるのは、現代において我々が何かを疑うための道具である「理性」が、「正しさ」を疑えない原因になっているので、メリトクラシーも問題に思いにくい、ということだ。

また、リベラルな価値観においては、よく「多様性」というキーワードが掲げられるのだが、「理性」が「本能」を重視するゆえに「多様性」が求められるようになる。

「社会制度」が個人に押し付けようとしてきた「同質性」と比べれば、我々の「本能(遺伝子)」にはもっと「多様性」があるからだ。

つまり、リベラルにおける「多様性」というキーワードは、伝統的な社会が押し付けようとしてきた「同質性」に対抗して、個人の遺伝的多様性を尊重しようとするもので、「理性」が「本能」を重視するからこそ、このようなことが起こる。

リベラルな価値観(多様性)を重視する人たちは、必ずしも利己的だとか無責任というわけではなく、むしろ弱者性の問題に真剣に向き合おうとするからこそ、「社会制度」が強制してきた「同質性」を否定しようとする。

しかし、「理性」によって「社会制度」を否定し、個人の「本能」を重視しようとすることは、文明を否定して「自然」に戻ろうとするようなものでもある。

我々は、「理性」的に「本能」を再評価しようとするからこそ、近代化を進めることによって、これまでの社会を担っていた「豊かさ」を破壊しようとしてしまうのだ。


「複雑化(負担が増える)」という問題

この記事の冒頭で行った問題提起は、制度の「複雑化」によってむやみやたらに手間が増やされていくといった問題が軽視されていて、それもメリトクラシーに関連するものなのではないか、というものだ。

ここからは、「複雑化(負担が増える)」という問題を扱う。

「豊かさと正しさの相反」の図式において、「複雑化」は、「正しさ」の側に位置する。

先に、「社会制度」が押し付けてきた「同質性」に対して、「本能」には「多様性」があると述べたが、集団よりも個人を重視するならば、「複雑化」はどうしても進んでいく。

無理やり「同じ」と扱っているものを否定して、「それぞれ違う」ことを認めようとするならば、当然ながら「複雑」になっていくことを避けられない。

社会保障やアファーマティブアクションなどにおいても、それぞれの違いについて厳密に配慮しようとするほど、制度が複雑になっていくように、「個人の権利や多様性を尊重すると複雑化が進む」のだが、それは、「複雑なことを理解できる人間は優れている」とするメリトクラシーと実は相性が良い。

先ほどまではこれを、「プラスの競争」と「マイナスの競争」の結託、と言って説明してきた。

「これくらいのことは理解できるようになるべき」とする「メリトクラシー(プラスの競争)」と、「こういう問題もあるので理解してください」とする「ポリコレ(マイナスの競争)」は、手を取り合って「複雑化」を進めていこうとする。

「優秀な個人を重視する」メリトクラシーは、複雑さを理解する能力を価値のあるものとして、「個人の多様性を尊重する」ポリコレは、同質的な社会を解体してこと(複雑さを増やしていくこと)を良しとするのだ。

あるいは、近代教育によって合理的に思考する能力を鍛えた個人は、それによって「社会制度(同質性を強制してきた作用)」の嘘に気づいて、もっと多様性を尊重すべきと考えるようになる。

このように、「努力・自由・理性・自然・優秀さ・弱者の尊重」などといった概念が「正しさ(個人の重視)」において結びつき、それによって「複雑化」が進んでいて、ゆえに「複雑化」を疑うのが難しくなっていると、ここでは考える。

実際に、「複雑化」は、必ずしも利己的な動機や悪意によって進められるものではなく、むしろ善意によって進んでいく。各々が自分の関心や専門性に真摯に向き合って問題に場当たり的に対処していけば、しかるべくして「複雑化」が進んでいくことになる。

例えば、「軽減税率」や「インボイス制度」にしても、「低所得者に配慮する」とか「会計や納税をきちんとやる」みたいな、それ自体は「正しい」と言えるような目的のもとに行われているだろう。

もちろん、自分にとって有利な「複雑化」を進めると自分が社会的に有利になれるので、各々の利己的な動機によって「複雑化」が進められる側面もある。ただ、そういった自分自身を有利にするための行為を禁止することは、個人の自由や権利の否定になりやすく、いずれにしても、「正しさ」を重視するならば「複雑化」を避けることができない。

一方で、そのような「複雑化」の問題は、負担が増え続けていくことだ。

「メリトクラシー・ポリコレ」といった「プラスとマイナスの競争」が重視される今の社会においては、「これくらいのことは理解できるようになるべき」「こういう問題もあるので理解してください」といったことが至るところで主張されていて、認知・理解・配慮・関心などの有限のリソースをめぐって、その優先度が争われている状態なのだ、そうやって「これくらいのことは」とか「これも大事だから」と言われているもののすべてを理解できる人間はこの世に存在しないし、至る所で主張される何らかの重要性を一切無視できないのであれば、際限なく負担が増え続けていく。

ゆえにここでは「複雑化」を、「正しいが、豊かにならない」ものとして、「ブレーキ」であると考える。

複雑になって負担が増え続け、集団が指向性を失うことによって「ブレーキ」がかかるイメージだ。

それに対して、「豊かになるが、正しくない」ような「アクセル」になる作用を、ここでは、「簡易化」と呼ぶことにしたい。

「簡易化」の作用は、「複雑化」に対抗して、物事を前に進める力になりやすい。何らかの「簡易化」の作用が働くことで、集団としてまとまって何かに取り組むことをしやすくなるからだ。

一方で、「簡易化」は、単純に望ましいことではなく、何らかの価値判断のもと、本来は複雑なものを強引にひとまとめにする(「正しさ」に反する)ような性質を持つ。

ゆえに「簡易化」を、「豊かになるが、正しくない」として、「アクセル(危険だが原動力になるもの)」であると考える。

何らかの「簡易化」の作用を強めると、個人の自由や権利、多様性などを無視すること(複雑さの否定)になりやすく、「正しさ」に反する。

しかし、「簡易化(豊かさ)」の作用を単に望ましいものであるとはしないものの、このまま「複雑化」が進みすぎて負担が増え続けていくと社会が崩壊してしまうので、もう少し「簡易化」を進めようとする(つまり「複雑さ」を減らしていこうとする)必要があると考える。


いかにして「複雑化」に対抗することができるのか?

ここまで、「複雑化」を「正しいが、豊かにならない」、それと相反する「簡易化」を「豊かになるが、正しくない」ものとして、今の日本のような社会においては、もう少し「複雑化」を否定して、「簡易化」を進めていく必要があると考えることについて述べてきた。

ただ、それをやろうとする上で、「複雑化が問題なので、もっと簡易化を進める必要がある」という主張を多くの人に認めさせようとすることは、「簡易化」を進めようとする方法としてはあまり効果的ではないと考える。

なぜなら、何らかの問題提起をしてそれをより多くの人に認めさせようとすることが、まさに、認知・理解・配慮・関心などの有限のリソースの奪い合いに参加することになり、「相対的な上位を競う競争(メリトクラシー)」という「正しさ」に回収されてしまう構造があるからだ。

この記事では先に、近代教育によって訓練される「理性」が「正しさ」の側のものであることを指摘してきたが、つまりそれは、問題提起や議論や検証などの、現代の問題解決のフォーマットそのものが「正しさ(複雑化)」に向かう性質を持っているということだ。

「正しさ」のフォーマットの上で「正しさ」の問題を指摘しても、それが「正しさ」と対立するものとしては機能しにくい、という話だ。

ゆえに、「正しさ(複雑化)」に対抗しうる方法は、「議論を重ねること」ではなく、例えば、「もとの余剰を増やそうとすること」だと考える。

「豊かさ」を強める方法については、当noteの「働くのがつらい理由とそれを解決する方法」や「なぜ若者や氷河期世代は革命や労働運動を起こさないのか?」という記事や、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトで説明しているので、詳しくはそれを読んでほしい。

どういう発想で「豊かさ(簡易化)」を進めようとするのかというと、「簡易化」を、それ自体の有用性によって評価しようとする。

「簡易化」という「簡単にする・楽にする」作用は、それに直接関わる人たちにとっては、恩恵になる場合が多い。

そのため、「自分たちに必要なものを自分たちで生産する」というようなローカルなコミュニティを再構築すると、「簡易化」が評価されやすくなると考える。自分たちで作って自分たちで享受するなら、当然ながら、その仕事が簡単になるのは望ましいことだからだ。

つまり、「豊かさ」を強めるためには、問題提起や議論のような「競争」において優位性を勝ち取ろうとするのではなく、何らかの「豊かさ」を生み出しうる要素を、それ自体の有用性によって評価しようとする必要があるということだ。

例えば、これは「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?」などの記事で述べていることだが、メリトクラシーやポリコレのような「競争(プラスとマイナスの競争)」が影響力を持つほど、社会に必要な仕事を行うエッセンシャルワーカーが評価されにくくなる。

「相対的な優位性を勝ち取るための競争をしない(社会全体を有利にする仕事をしようとする)」というのがエッセンシャルワークの特徴だからだ。

そしてそれゆえに、「もっとエッセンシャルワークを評価するべき」といった問題提起(つまり相対的な理解の優先度を得ようとする試み)というのは、あまりうまく機能しないのだ。

ではどうすればいいかというと、エッセンシャルワークは、まさにそれがエッセンシャルであるという点において高く評価されるものであり、ゆえに、「自分たちに必要なものを自分たちで生産する」ような枠組みが形成されると、エッセンシャルワークはそれ自体の有用性によって評価されやすくなる、と考える。

そうやってエッセンシャルワークを評価しようとする試みは、いわゆる自給自足のようなものになるのだが、一般的な自給自足のイメージのように低い能率の生産活動を意図するわけではなく、「自分たちのために知識や技術を直接的に使うような枠組みを形成していこうする」というのが、ここで意図している「ローカルなコミュニティの再構築」だ。

ただ、もちろん今の社会は、資格や権利に雁字搦めにされている状態で、我々は、知識や技術を自分たちのために自由に扱えるわけではない。そのため、ローカルなコミュニティが自分たちの裁量で生活をより豊かにしていこうとする試みは、国家による既存のルールと衝突することになるだろう。

ただ、そのような衝突にこそ、メリトクラシー(複雑化)という問題に対する突破口があると考える。

学歴・医療・司法など、メリトクラシーと結びついていて、明らかに問題になっているのに自浄作用を持たないような領域に対して、「学歴社会や専門性の枠組みをどうにかする必要があるのではないか」とか「既存の競争の秩序は不公平なのではないか」みたいな批判的な主張をして問題を認めさせようとしても、そうやって問題提起して理解を求めるというやり方自体がメリトクラシーに回収されてしまう。

メリトクラシーに対抗する試みは、エッセンシャルワーカーなどの労働力を抱え込むことで交渉力を持ったローカルな集団が、「自分たちの裁量で知識や技術を扱いたいから、国家に対してルールの簡易化を求める」という形で行われると考える。

このようなローカルな集団と国家との対立は、「豊かになるが、正しくない」という「アクセル」の性質を持ち、危険なものでもあるのだが、それゆえに、「複雑化」に対抗して「簡易化」を進めることができる可能性があると考えている。

ここでは、「豊かさ」を強めるためには、集団同士の対立が必要という発想をしているのだが、これに関しては、ここで詳しく説明するのは難しいので、「べーシックインカムを実現する方法」などのサイトを読んでほしい。

「軽減税率」や「インボイス制度」などの、政府が率先して「複雑化」を進めているという問題に対しても、「複雑化が問題だからやめるべきだと声を挙げる」みたいな、個人が有権者として政府批判をして、それを相対的に優先度の高い主張として納得させようとすること自体が、「複雑化」に向かってしまう構造を持っている。

これについては、「日本円を使うメリットとデメリット」といった記事などで述べてきたが、本来はローカルを重視する枠組みである国家すらも「複雑化(正しさ)」を意識しなければならなくなっている状況に抗うためには、「日本円を使うメリットを疑う」というような集団が現れる必要があると考えている。

日本政府が提示する既存のルールに対して、ある種の「競合相手」が現れなければ、政府が「豊かさ(簡易化)」の方向に舵を切る必要に迫られないのではないか、ということだ。

そして、「べーシックインカム」というのも、「複雑化」が進んでいく政府の制度に対して、「簡易化」が要求されることで実現に向かっていくものであると位置づけている。

このような、政府とローカルが対立することによって「豊かさ」が再評価されるようになっていく、という話については、今後、当noteでも、詳しく説明する記事を出していくつもりだ。

長くなったが、今回は以上になる。

このnoteで語ってきた内容については、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトにより詳しく書いてあるので、よければサイトのほうも読んでみてほしい。


まとめ(メリトクラシーを疑うのが難しい理由)

  • 多くの人は、メリトクラシーによって集団が「強くなる」と考えているが、実はメリトクラシーによって集団は「弱くなる」。

  • 何らかの競争(メリトクラシー)は、相対的な順位を可視化するが、相対的な上位になるポテンシャルを持った才能そのものを「作り出している」わけではなく、あくまで「可視化している」にすぎない。競争をすれば上位になれるポテンシャルを持った人間そのものは、競争が行われようと行われなかろうと、もとから世界には存在している。

  • 学力テストなど何らかの競争の社会的な影響力が強まるほど、各自の時間や労力や才能を、その競争にアジャストするために消費しなければならなくなるので、過度なメリトクラシーは各々のキャパシティを奪ってしまう。

  • さらに、メリトクラシーが浸透した社会(競争にリソースを使わなければ不利になる社会)においては、元の才能の再生産(人口の再生産)を行うのも難しくなり、少子化が進んでいく。

  • つまり、「メンバーの能力」という点においても「集団の数」という点においても、メリトクラシーが過度に浸透した社会は「弱くなる」。

  • メリトクラシーが浸透した社会は、実は「弱くなる」のだが、我々は「本能」的にそれを疑いにくい。その事情を説明するために、当記事では『サピエンス全史』の内容を援用した。

  • 我々サピエンスは、「嘘を信じる(遺伝子の外部の影響を受けやすくなる)」ことによって、遺伝子(本能)に規定される「自然」な生物の理から外れ、「不自然」に集団として発展してきた。

  • サピエンスにとって、「本能(遺伝子)」と「社会制度(遺伝子の外部)」には乖離がある。「本能」は我々個人の幸福を規定しているのに対して、「社会制度」は我々を集団として強くしてきたものである。当記事ではこのような事情を、「豊かさ(社会制度)」と「正しさ(本能)」が相反する、と説明している。

  • メリトクラシーは、「人工的に再構築された自然」であり、我々は「自然」な「本能」としては、メリトクラシーの勝者に「強さ・美しさ・憧れ」などを感じやすいが、そのように「本能」的に好ましく感じやすいものだからこそ、競争の勝者は、サピエンス基準では「実は弱い」。

  • 当記事では、「豊かさ」を「アクセル」、「正しさ」を「ブレーキ」であると説明する。「正しさ」の側であるメリトクラシーは、「ブレーキ」という役割を持つ。

  • 「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」ように、個人を納得させるメリトクラシーの作用によって、より大規模な集団を破綻させずに維持できるという側面がある。ただ、「ブレーキ」の作用はあくまで「ブレーキ」なので、それが強くなりすぎると集団は弱体化していく。

  • メリトクラシーは、「個体としての優秀さを目指すから集団としては弱くなる」という形で「ブレーキ」として作用するものだが、我々はそれを「アクセル」であると勘違いしてしまいやすい。個人の主観としては、競争の勝者になるための努力は「強くなっている」と思いやすいものだからだ。しかし、各々が相対的な競争のためにリソースを使いすぎることは、社会全体では「リソースの空費」になり、また、「アクセル(不自然な社会制度)」を解体してしまう。

  • 「サピエンスが自らの本能に反する形で集団として強くなってきた事情」と、「ブレーキがあるからアクセルを強く踏めるように、近代においてはメリトクラシーが浸透することで社会が向上してきた経緯」によって、メリトクラシーが「実は弱くなるもの(ブレーキの作用)」であるにもかかわれず、我々は「メリトクラシーによって集団が強くなる」と勘違いをしてしまいやすい。


まとめ(よくあるメリトクラシー批判が機能しない理由)

  • 「よくあるメリトクラシー批判」は、メリトクラシーを「豊かさ(強くなるもの)」の側に起き、「正しさ」の側からそれを批判するが、そもそも「メリトクラシーによって集団が強くなる」が勘違いなので、批判はまともに機能しにくい。

  • 実際には、「メリトクラシー」と「メリトクラシー批判」は、どちらも「正しさ(多様性のある個人)」を重視しようとする作用であり、結託して「豊かさ(同質的な集団)」を解体していこうとする。

  • ここでは、メリトクラシーのような「強さを競う競争」を「プラスの競争」と呼び、社会保障やポリコレのような「弱さを競う競争」を「マイナスの競争」と呼び、どちらも「正しさ(ブレーキ)」の作用であると考える。

  • 「マイナスの競争」は、「プラスの競争」における競争の下位を問題視して、一見してそれは「プラスの競争」を批判しているように見える。しかし、競争が機能するならば「競争の下位が発生する」ことは原理的に解決不可能な問題であり、「差を肯定」しながら競争の下位を問題視するのは、マッチポンプ的な側面がある。

  • 「競争(プラスとマイナスの競争)」と本質的に対立する試みは、「そもそも差を発生させようとしない(差を否定する)」ことであり、それをやろうとする「同質性(社会制度)」は、「豊かになるが、正しくない」という性質を持つ。

  • 「プラスの競争の勝者(エリート、高所得者)」と「マイナスの競争の勝者(福祉受給者、ポリコレ強者)」は、どちらも「競争(差を肯定する作用)」の恩恵を受けている側であり、そのような「競争の勝者」が真に嫌うのは、「同質的な集団(差を否定する作用)」である。

  • 「もっと弱者を尊重すべき」というエリート批判(「マイナスの競争」の側からの「プラスの競争」の批判)は、実際には「競争(差を肯定する作用)」を補強するものであり、実は競争の勝者にとって耳心地が良く、受け入れらやすい。しかし、であるがゆえに批判としては機能していない。


まとめ(メリトクラシーに対抗するための方法)

  • 「正しさ(プラスとマイナスの競争)」は、社会に「複雑化」をもたらす。

  • 「複雑なことを理解できる人間は優れている」とするメリトクラシー(プラスの競争)と、「個人の権利や多様性を尊重すると複雑化が進む」というポリコレ(マイナスの競争)が「正しさ(個人の重視)」において結託し、「複雑化」を進めていく。

  • 「複雑化」に対抗する作用は「簡易化」だが、それは、個人の自由や権利、多様性などを無視することになりやすく、ゆえに「豊かになるが、正しくない」ものになる。

  • 「複雑化」を問題視しようとする上で、「問題提起・議論・検証」といった現代の問題解決のフォーマット自体が、相対的に優先度の高い主張であることを認めさせようとする競争(メリトクラシー・ポリコレ)に回収される性質があり、ゆえに、「複雑化(正しさ)」に対抗するための「簡易化(豊かさ)」は、それ自体の有用性によって評価されなければならない。

  • 「簡易化」を評価するためには、ローカルなコミュニティを再構築して、自分たちに必要なものを自分たちで生産し、「簡単であること・楽であること(簡易化)」の恩恵を直接的に享受しようとする必要がある。

  • 「複雑化(メリトクラシー)」の問題に対抗するためには、知識や技術などを、自分たちを豊かにするために自分たちの裁量で扱う枠組みを形成していく必要があるが、それは国家による既存のルールと対立する。ただ、そのような集団同士の対立にこそ、「豊かさ」が発生する余地があると考える。

  • 集団同士の対立によって「豊かさ」が発生するという論点に関して、詳しくは「べーシックインカムを実現する方法」という外部サイトで解説している。また、当noteでも、今後更新する記事で説明するつもりでいる。


以上になります。

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