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なぜ転職の広告ばかりなのか?転職エージェントが流行る社会の闇

「転職を勧める」広告を、誰もが目にしたことがあるだろう。

転職エージェントや転職サイトの広告を、電車広告、ウェブ広告、youtube広告、テレビなど、色んなところで見る。

CMをいたるところで見るということは、儲かっているということで、実際に、人材紹介業・職業紹介事業の数はすごい勢いで増え続けている。

民営職業紹介事業所数の推移-厚生労働省

また、youtube上やSNS上などで、転職を勧めたり煽ろうとする人も非常に多く見られる。その理由のひとつは、転職サービスを紹介するのは割が良いからだろう。

例えば、アフィリエイトと呼ばれる、自分が紹介したリンク先からサービスに登録されることで報酬が入る成功報酬型広告というのがあるのだが、転職サービスの多くは、無料の会員登録をさせただけでも、1万円とか、それ以上の額をもらえる(これに関しては、アフィリエイトの仲介サイトなどに登録してみれば誰でも確認できる)。

何が言いたいかというと、今の社会において「転職を仲介する仕事」は、非常に収益性の高い、儲かりやすいビジネスであるということだ。

そして今回のテーマとしては、「なぜ、ただ人を会社から会社へ移しているような仕事が、これほどまでに数が増えて、いたるところにCMを打ちまくるくらい儲かっているのか?」ということについて論じようと思う。


転職サービスで本当に年収は上がるのか?

多くの人が気になっているのは、「転職すると年収アップ!みたいな広告を良く見るけれど、これって本当なの?」ということだと思うので、まずはこの話をしたい。

例えば、マッチングアプリの広告を考えてみてほしいのだが、多くの人が付き合いたいと思うような美女やイケメンが映っているだろう。それに対して、「マッチングアプリに登録すればそういう美女やイケメンと付き合えるのか?」という話で、転職サービスも似たような感じだ。

「マッチングアプリ広告の前面に出るような美男美女」と、「転職広告の前面に出るような高待遇」は、似たようなものであるということだ。

ただこれは、人や場合にもよるだろうが、平均的なスペックの男性が、マッチングアプリの広告に出てくるような美女とアプリで付き合える確率と比べれば、平均的なキャリアの男性が、転職サービスによって高待遇の職場に移れる確率のほうが、まだ少し高いかもしれないと個人的には思っている。

つまり、「性」よりは「仕事」のほうが、まだもう少し堅実的で、過剰なイメージが煽られる度合いは小さいだろうということだ。

しかしいずれにしても、「多くの人の目を惹くために、実態よりも良いイメージ・成功しやすそうなイメージが煽られる」というのが広告の特徴であるという点は変わらない。


プロフィールを「盛る」必要がある

「実態よりも良いイメージを提示しなければならない」というのは、消費者向けの広告に限ったことではなく、ユーザーとしてマッチングアプリや転職サービスを使おうとしたときに、我々自身に課されることでもある。

例えば、マッチングアプリなどを使うにおいて、プロフィールは、何かしらの形で実態よりも良く見せようとしなければ不利になる。

「ありのままの自分を見せようとする」というのは、誠実な態度ではあるかもしれないが、ライバルたちがより良く見せるためにプロフィールを「盛る」なかで、自分だけが「盛らない」という選択肢をすると、そのぶんだけ不利になってしまう。

「盛りすぎると実際に会ったときにミスマッチになる」というのも、それはそうなのだが、まずはマッチングしないと何も始まらない(つまりプロフィールを偽ってでも出会うところまで行こうとするのが最適な行動になる)ので、自由な出会いの場は、プロフィールを「盛る」のが前提になっていく。

ライバルと注目度を競い合うなかで、ある種、不誠実なやり方を強制されるようになっていくのが、自由競争のしんどいところではある。

そしてこれは、マッチングアプリのみならず、企業と労働者との、雇用のマッチングにおいても似たようなことが言える。

もちろん契約上のことで嘘をつくことはできないにしても、企業はなるべく待遇を良く見せようとするし、労働者も自分を優秀に見せようとする。

マッチングしてみて「言ってることと違う」とか「騙された」みたいになることもあるだろうが、転職活動や選考に、お互いにバカにならないコストをかけているので、ちょっとイメージと違っても、働こうとしたり、雇用しようとしたりするかもしれない

そして、やや実態が盛られていても「働こうとする・働かせようとする」余地があるのなら、その余地の分だけ、実態と乖離しすぎない程度に「盛る」のが最適な行動になっていく。

他よりも注目されてマッチングするところまでいかないと話が始まらないので、機会を獲得するために「盛る」のが当たり前になり、そういうことをやりたがらない、誠実にやろうとするような人は不利になってしまうのだ。

自由競争が促進される今の社会において、「人が自由に移動することで最適な相手が見つかって、より良い社会になっていく」や、「各々がより良い企業・より優秀な人材だと認められるために努力するからこそ、社会全体が向上していく」といったような考え方がされがちだ。

しかし、自由競争における、「互いにより良く見せ合おうとするPR合戦」「相対的に有利なポジションを獲得しようとする競争」みたいなものは、実はかなり不毛であることが多い。

この記事ではこれから、この「自由にマッチングしようとする社会になること」の問題について論じていこうと思う。

ただ、「転職サービスを使わないほうがいい」と言いたいわけではないことに留意してもらいたい。

個人レベルにおいては、当然ながら、マッチングアプリで恋人ができる場合もあるし、転職サービスによって待遇が良くなる場合もあるだろう。

特に年収や仕事のキツさは、個人の能力というよりは、「どういう種類の仕事をするか」に大きく左右される部分があるので、転職によって待遇が良くなることは普通にあると考えられる。

この記事では、ミクロでは転職サービスを使って当人の待遇が良くなることがあるとして、マクロ(つまり社会全体)で考えた場合、転職仲介業や人材派遣業が盛り上がっている現状の社会において、いったいどのようなことが起こっているのか、を論じる。


「伝統的な信頼関係」を解体すると「貨幣」が発生する

これは過去のnote記事などでも繰り返し説明してきたことでが、当noteにおいては、「自由競争によって社会が豊かになっていく」という考え方をしていない。

「個人が自由に競争する」ことは、それによって社会が豊かになるように見えるが、実は余剰を消費していくものであり、一方で、伝統的な価値観やナショナリズムのような、「自由を否定して集団のために協力させる」ような作用が、余剰を作り出すものである、と考えている。

この詳細については、「なぜ若者や氷河期世代は革命や労働運動を起こさないのか?」や「働くのがつらい理由とそれを解決する方法」といった記事を参考にしてもらいたい。

「自由競争は余剰の消費」と言うと、社会通念を疑うような話に思われるかもしれないが、現代の日本人の多くは何となく、個人の自由が尊重される今の社会は、過去の伝統的な社会が作ってきた余剰を消費して成り立っている、と感じているのではないかと思う。

実際に、出生率の低い現状の日本社会は持続可能性がなく、過去の資産を目減りさせながら、現在の生活水準が維持されている。

「自由競争はむしろ豊かさを解体する」の簡易的なイメージとして、まず、何らかの余剰の生産は「集団」であることによって行われると考える。

例えば、長期的な社会の存続において最も重要な人口の再生産は、「子供を作る(家族を作る)」という、「個人」を超えて「集団」になることによって成り立つ。

ゆえに、「個人」よりも「集団」を重視する作用が「豊かさ」を生み出すのだが、市場競争(ビジネス)は、「集団」を成り立たせる信頼関係を解体しようとする性質を持つ。

例えば、「家族」のような「伝統的な信頼関係」が解体されると、それによって「貨幣」が発生しやすくなる。

家族同士でまとまって暮らしていれば、市場における消費量は増えにくいが、各々が一人暮らしをして個別で家賃を支払い、家具や家電なども個人のためのものを買うようになるほど消費量が増える。

そのため、貨幣を稼ぐこと(消費量を増やすこと)を志向するビジネスは、集団の不和を煽って、「家族」や「ご近所」などのような「伝統的な信頼関係」を解体していこうとする。

当事者にそのような意図が明確にあるわけではなかったとしても、市場ルールの上で各々が貨幣を稼ごうとすれば、それは総体としては「集団」を解体しようとする性質の作用として働く。

そして、「家族」などの集団が解体されて少子化が進んでいくと、市場のプレイヤー(人口)の再生産が行われなくなるので、長期的には市場競争そのものが破綻する。

このような点をもってして、ここでは、自由市場におけるビジネスという形で各々が金を儲けようとすること自体が「余剰の消費」であるという考え方をしている。

ビジネスは基本的には、「集団」を成り立たせていた「伝統的な信頼関係」を切り崩していく性質を持つ。

「家族だから助け合うし一緒に暮らす」といったような古い常識や慣習のようなもの解体すると、そこに「貨幣」が発生するイメージだ。

旧来の社会における「伝統的な信頼関係」がビジネスによって切り崩されている例として、例えば、現代では、「何の関わりもない他人から急に何かを提案されたら、それは基本的に営業であり、話を聞くべきではない」「アポイントもなしにインターホンが押されても対応しないほうがいい」というのが、都市部で生活する若者の一般的な感覚だろう。

しかし、昔の社会に生きてきた人ほどそういう感覚を持っていない。「話しかけられたらちゃんと話を聞く」というのは、旧来の社会においては必要なことだった。

そして、営業系・訪問販売系のビジネスは、そういう「伝統的な信頼関係」を利用して、ある種それを切り崩すような形で利益を上げようとするものと言える。

もちろん、営業が多く行われる社会になるほど、それで嫌な目に遭った人や痛い思いをした人が増えていくので、「話しかけられたらちゃんと話を聞く」といったような信頼関係が解体されていき、「他人から急に来る話は基本的に全部対応しない」といった態度が当たり前になっていく。

このようにして、自由市場において貨幣を稼ごうとするふるまいによって、旧来の社会にはあった親切心やおおらかさのようなものが失われてしまう。

ここまで述べてきた上で、ここで提示したいのは、「集団」を成り立たせていた「伝統的な信頼関係」をダイナミックに切り崩すようなものほど、収益性の高い(儲かりやすい)ビジネスになりやすい、という考え方だ。

そして、今の社会において、「伝統的な信頼関係」を激しく解体しているビジネスの筆頭が、「転職ビジネス」であると主張したい。

以降では、転職ビジネスが、どのようにして旧来の社会における「伝統的な信頼関係」を解体して収益を上げているのかを説明していく。


日本型雇用システム

ここで言う、転職ビジネスによって切り崩されようとしている「伝統的な信頼関係」が何なのかというと、それは、「日本型雇用システム」と呼ばれているものだ。

新卒一括採用、年功序列、企業別労働組合などの、多くの日本企業に見られる制度や慣習は、「日本型雇用(メンバーシップ型雇用)」と呼ばれることが多い。

ざっくり言うと、「一度入った会社を辞めにくい」のが「日本型雇用」だ。

労働者は好きなときに会社を辞めることができるが、辞めると「年功序列」がリセットされて待遇が大きく悪化しやすいので、実質的に労働者が企業を辞めにくいのが「日本型雇用」というシステムだ。

このように言うと「日本型雇用」が良くない制度に思えるかもしれないが、これも「集団」の協力関係を成立させる「伝統的な信頼関係」だった。

例えば、会社が社員の教育や研修をしっかりやるとか、先輩に仕事をちゃんと教えてもらえる、みたいなことは、当たり前に成り立つものではない。同じ会社の仲間として長期的に一緒にいることが前提だからこそ、指導や親切が成り立つのであって、すぐにいなくなる者同士とか、限られたパイを争う者同士になるほど、「仕事を教え合う」とか「困ったときに助け合う」みたいなことが起こりにくくなる。

会社を辞めたら不利になる(つまり長期的な人間関係が前提だから)こそ、会社が社員の面倒を見て、社員は会社のために頑張る……といった、御恩と奉公のような、ある種の「伝統的な信頼関係」が成り立っていたのだ。

また、「会社を移動しにくい」というのは、「自由競争の否定」になるのだが、それゆえに、各々がプロフィールを「盛る」などして自己PR合戦を繰り広げるような「不毛な自由競争」が抑制されて、社会を豊かにするためのメインの業務にリソースを注ぎやすかった、という側面もあった。

つまり、「日本型雇用」は、「伝統的な社会」と似たようなもので、個人の自由を制限するという点では理不尽で抑圧的な部分を持ちながらも、長期的な信頼関係を成立させやすく、競争が抑えられるので楽になりやすい、というものだった。

なお、「日本型雇用」自体は、戦後から高度経済成長期にかけて形作られていった仕組みで、そういう意味ではわりと新しいのだが、伝統的な社会と市場原理との折衷案みたいなところがあるように思う。

そして、その日本型雇用における伝統的な部分(不自由な部分)を解体していくほど、貨幣が発生しやすく、それをやろうとするのが転職ビジネスなのだ。


なぜ転職ビジネスが儲かるのか?

人をただ会社から会社に動かしているだけの転職ビジネスがこれほど栄えている理由は、「日本型雇用」という形の「伝統的な信頼関係」を切り崩しているから、とここでは考える。

日本型雇用において、企業は、新人の選別と教育に少なくないリソースを使う。

それなりの規模の日本企業は、新卒の採用に多くの人手と時間をかけているし、雇ったあとも、最初の数年は社会人として戦力にならないのに対して、実務経験を積ませながら社員教育をする。

「日本型雇用」の場合は長期雇用が前提なので、長く見て採算が取れれば良いという考え方で、育成に時間をかけるような働かせ方になりやすい。

このような慣行は、労働者の側にとって恩恵の大きなものであったりもする。

それに対して、転職ビジネスは、選別と教育が終わったあとの社員を、別の会社に転職させることで手数料をもらうビジネスモデルだ。

転職サービスを利用して人を雇用する側の企業からすれば、すでに選別と教育が終わった人材を引き抜ける、というメリットがあって、転職仲介の手数料は決して安いものではないけれど、それでも一から社員を選別したり教育したりするコストよりは安くなるから、サービスを使う合理性がある。

そして、転職ビジネスも、転職させればさせるほど手数料が入って金が儲かる。

この場合、ババを引かされた形になるのは、選別と教育のコストをかけた社員を引き抜かれた側の企業だ。

転職ビジネス側は、とにかく人を動かせば手数料が入るので、企業に対する不満やキャリアに対する不安、ステップアップを目指す向上心などを煽って、転職を促そうとする。そのようにして、転職の広告が至るところで見られる現状のようになっている。

転職が煽られて社員を引き抜かれるというのは、古い枠組みのなかで真っ当に人を育てようとしている企業からすれば、かなり無法なことをされているように感じるだろう。しかしだからといって、個人が企業を選択する自由は重要な権利なので、転職を阻止していいわけではない。

例えば、プロスポーツなどは、選手を引き抜かれた側のクラブにも移籍金が入る。ゆえに弱小や中堅のクラブにも選手をちゃんと育成するインセンティブがある。一方で、日本の雇用に関してはそのようなルールがなく、育てた社員を引き抜かれた側は一方的に損を被ることになる。

というより、「一度入った会社を辞めると不利になりやすい」という慣習・慣行のような形で日本型雇用のルールが機能していたのだが、そういうものを解体することで利益を得ているのが転職ビジネスであるということだ。

そして、転職ビジネスが栄えると、長期的には、良心的な形で社員をしっかり教育しようとするような企業が少なくなっていく。

せっかく丁寧に育てても引き抜かれていってしまうのなら、自分たちで育てることは放棄して、即戦力を引き抜く側に回ったり、使い捨てるような運用にせざるをえなくなっていくのだ。


「不自由だけど楽(豊かさ)」か、「自由だけど苦しい(正しさ)」か

ここまで説明してきたように、転職ビジネスは、なかなかえげつないやり方で儲けようとしているのだが、しかし、社会的な正当性はむしろ転職ビジネスの側にある。

「個人の自由や権利の尊重」という観点からすれば、不自由で理不尽な側面を持っている「日本型雇用」よりも、転職ビジネスが煽るような、誰もが自由に転職できる社会のほうが「正しい」からだ。

このような事情に関して、過去の記事などでは、「豊かさと正しさが相反する」という形で説明をしてきた。

「日本型雇用」のような不自由なものが「豊かさ」を担保していて、それと対立するのが、個人の自由を重視する「正しさ」、であるという見方だ。これについて詳しくは、関連する当noteの過去記事を参考にしてほしい。

一般的に、「伝統的な枠組みが解体されて各々が自由になるほど、より最適なマッチングが行われるようになり、生産性が向上して社会全体が豊かになっていく」みたいな考え方がされているかもしれないが、当noteの過去動画などではそれを否定していて、実際には、「自由化」というのがかなり不毛な性質を持っていることを指摘している。

例えば、恋愛の自由化が進み、マッチングアプリなどで各々が理想の相手を探すような状況になるほど、最適なマッチング(相性の良い者同士の幸せな結婚など)が起こりやすくなるかというと、むしろ逆で、美容や婚活などのために必死に努力しながらも、いつまで経っても結婚できずに理想の相手を求めて彷徨っているような人たちが大量発生する。

それに対して、周囲の圧力で手近な相手と結婚させられたような不自由な社会においては、多くの人が結婚して子供を作ることができていた。そのような「結婚しなければならない」という圧力がある社会は「正しさ」に反するものだが、不自由であるかわりに楽だったし、社会が発展していきやすかった。

「雇用」においても同じように、手近な職場に就職して、「自分にとっての理想の仕事は何か」みたいなことを考えずに、不満を持ちながらも目の前の仕事(素朴に社会の役に立つような仕事)に取り組んでいたような不自由だった社会のほうが、多くの人にとって楽だったし、余剰も生産されやすかった、ということだ。

転職が煽られ、人が企業間を頻繁に移動するようになったとして、そのためにかかる自己PR、選考、交渉、契約、人事評価などの仕事や、労務などの事務負担は、それがどれだけ増えたところで、物質的な余剰が生み出されるわけではない。

自由競争が起こるゆえに余剰の生産とは関係のない仕事が増え続けていくならば、ある程度は自由を否定して、もっと直接的に社会を豊かにするような仕事にリソースを注いだほうが、社会全体としては楽になりやすいのだが、しかし現代の価値観においては、個人の自由を否定するのも難しい。

つまり、「自由の代償として、無駄な負担が増えている」のだ。

なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?」という記事で言及しているが、ここでは、いわゆる「ブルシットジョブ」と言われているようなものも、単純にどうでもいい仕事というわけではなく、自由を認めるがゆえに発生してしまうコストであると考えている。

そして、ビジネスのルール自体が、「不自由だけど楽」といった「伝統的な信頼関係」を切り崩して「自由化」を進めるふるまいに恩恵が与えられるというものなので、市場競争が激化するほど、どんどん「自由化」が進み、競争の過剰によって生活が苦しくなっていく。


「ジョブ型雇用システム」も「伝統的な信頼関係」

ちなみに、旧来の枠組みが解体されて自由化が進むというのは、日本だけではなく、グローバルに起こっている現象だ。

よく、日本の労働や雇用に関する議論において、「日本型雇用(メンバーシップ型雇用)」を廃止して、欧米に見られるような「ジョブ型雇用」への転換を行うべきだ、ということが言われる。

つまり、日本社会の硬直的な雇用システムを打ち破るものとして「ジョブ型」が提唱されがちなのだが、このような主張においては、「ジョブ型雇用」が誤解されていることが多い。

「ジョブ型雇用」については、濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』を参考にしている。

ここで何が言いたいかというと、「ジョブ型雇用」というのも、「日本型雇用(メンバーシップ型雇用)」と同じく、「伝統的な信頼関係」として機能しているものだったということだ。

「メンバーシップ型雇用」では、「いちど入った会社を辞めにくい」という形で「不自由」が機能していたのに対して、欧米の「ジョブ型雇用」では、「いちど選んだ職種を辞めにくい」という形で「不自由」が機能していた。

「メンバーシップ型」は会社間を移動しにくく、「ジョブ型」は職種間を移動しにくいというもので、どちらも「不自由」なシステムだ。

「メンバーシップ型」が当たり前の日本人から見れば、会社間の移動がしやすい「ジョブ型」が自由なものに思えるかもしれないが、実は「ジョブ型」も非常に硬直的な仕組みで、「一度選んだ職種を辞めにくい」という不自由さがある。

「ジョブ型」の極端な例を言うと、ドイツでは中学生くらいまでのうちに、大学に行くルートと職人になるルートがはっきり別れたりして、これはこれで「不自由だけど楽」という側面もあるのだが、身分制の社会のようなものに近く、現代人の感覚からすれば理不尽に感じやすい。

そのため、日本で「メンバーシップ型雇用」が成り立たなくなってきているのと同様に、欧米でも「ジョブ型雇用」は、疑問視され、解体に向かっている。

例えば、「ジョブ型」における「同一労働同一賃金」というのは、日本では自由化を重視する文脈で提唱されることが多いが、実は「年功序列」と似たような硬直的な仕組みだ。

日本では、「同じ入社年数の社員なら同じような報酬」という「年功序列」という形で自由競争が抑制され、欧米では、「同じ職業カテゴリの仕事なら同じような報酬」という「同一労働同一賃金」という形で自由競争が抑制されていた、という話で、欧米における現代の個人の感覚からすれば、「同一労働同一賃金」は、「人によって能力差があるんだから、誰がやっても同じ報酬なんておかしい」となりやすい。

そのため、自由化・メリトクラシーが進むほど、「年功序列(メンバーシップ型)」も「同一労働同一賃金(ジョブ型)」も、どちらも否定されやすくなる。

また、「産業構造の変化などによって、昔はたくさんあった仕事が減ってしまった」みたいな状況にも「ジョブ型」は対応しづらく、日本の「メンバーシップ型雇用」と同様に、欧米の「ジョブ型雇用」も、だんだんと維持するのが難しくなっている。

つまり、日本国内の議論においては、「メンバーシップ型」が不自由なもので、それを解体する近代的なものとして「ジョブ型」が対置されることがあるが、これは間違っているということだ。

実際には、「メンバーシップ型」も「ジョブ型」も、どちらも「不自由」な「伝統的な信頼関係」であり、「自由化」や「メリトクラシーの浸透」が進む現代において、両方とも成立しにくくなっている。


「集団(親・企業)」を維持することの負担が増え続けている

詳しくは、先に紹介した当noteの過去記事を参考にしてほしいが、「豊かさと正しさの相反」の図式において、「豊かさ」の側に「集団」、「正しさ」の側に「個人」、また、「豊かさ」の側に「不自由」、「正しさ」の側に「自由」、を置いてきた。

さらに、ここで説明すると長くなりすぎるので、詳細については「メリトクラシーの問題点とは何か?」や「弱さを競う競争」などの過去記事を参考にしてほしいのだが、ビジネスやメリトクラシーのような「強さを競う競争(プラスの競争)」と、社会保障やポリコレのような「弱さを競う競争(マイナスの競争)」は、一見して対立しているものに見えて、実はどちらも「正しさ」の側になる。

つまり、「豊かさと正しさ」の図式において、いわゆる「強者」と「弱者」は、どちらも「正しさ」の側になる。

詳しくは過去の投稿などを見てほしいのだが、相対的な「強者」も「弱者」も、どちらも「個人」であり、「集団」と対立する、という見方をしている。

このような見方をなぜここで持ち出したのかというと、労働問題などに関して、メディアやSNSなどでよく見られる言説は、「強者」対「弱者」の対立軸において、弱者の側から強者を批判する、という構図になりがちだからだ。

例えば、政治家や経営者や高所得者を「強者」の側に置いて、「政治家や経営者はもっとしっかりやれ」とか「弱者を蔑ろにするな」みたいに、「弱者」の側から批判したり要求をしたりする形で、雇用や労働の問題が提起されやすい。

ただ、そのような「弱者」の側からの批判や要求も、「正しさ(自由化)」を強める作用であり、「集団」を成り立たせていた「伝統的な信頼関係」を解体していくものになる。

つまりここでは、「生活が苦しい」といったような問題に対して、「一部の人間が富を独占しているから」とか「強者が弱者を蔑ろにしているから」が原因である、といった考え方はしていない。

生活が苦しいのは、「集団(豊かさ)」が解体されているからで、特定の誰かが富を独占しているからではなく、自由化・個人化に伴う過剰な競争によって、分配するもとの余剰そのものが少なくなっている、という見方をしている。

そして、「弱者」の側からの批判や要求というのも、「集団(豊かさ)」を解体するように働くものであると考えるのだ。

今の社会でよくある、何らかの問題提起や批判や要求は、政治家や経営者や親など、「集団」のパターナルな関係における責任者の側の負担を増やしていくように働きやすい。そしてそれは、「集団の責任者になりたがらない人を増やす」という形で、実質的に「集団」を解体していく。

例えば、「親」に対して、今はどんどん要求が増えている。

昔はもっと子供を雑に育てていたのに、現在は、やるべきこと、理解すべきこと、配慮すべきことなどが増やされ続けていて、高い基準を満たせなければ批判されやすい世の中になっている。

そのような中で、たしかに一部に着目すれば、ちゃんとできている親もいて、だんだん良くなっているように思えるかもしれない。しかし、社会全体(マクロ)で見れば、そもそも親になれない人が増えている。

これは「企業」にも同じことが言えて、現在は企業や経営者を批判する言説がメディアやSNSに溢れていて、様々な形で企業であること(会社として人を雇用すること)の負担が増やされ続けているのだが、そうやって批判や要求を強めれば強めるほどちゃんとやるようになるかというと、そんなわけはなく、人を雇用できない企業が増える。

「批判を強めるほどちゃんとやるようになるわけではない」のだ。

非正規雇用や派遣社員というのも、「ちゃんと雇用しない企業が悪い」みたいに批判されがちだが、そのようにして企業への批判が強まって責任が追求されるような社会だからこそ、企業が人を雇えなくなっている側面がある。

人を雇用するにあたって増やされすぎた労務や管理などのコストを負うのが難しくなっているから、バイトでしか雇えなかったり、「高いマージンを取るけど、面倒な手続きをやってくれる」ような人材派遣会社を使わざるをえなくなっているのだ。

企業側も、普通に社員として雇いたくても、正規雇用したときに課せられる負担や責任が重すぎるから、非正規や派遣という形にせざるをえない。

メディアやSNS上では、「悪質な企業・経営者に労働者が苦しめられている」といった意見が賛同されやすいがが、そのようなイメージに反して、契約上・ルール上は、「労働者」のほうが「企業」よりも有利だ。

持っている資産など諸々を考えたなら、経営者個人と労働者個人とでは、経営者側が強者であることが多いが(もちろん経営者側もピンキリだが)、契約上の立場に関して言えば、「企業」と「労働者」とで、実は企業側のほうがだいぶ立場が弱い。

例えば、企業側は労働者を簡単に解雇できないのに対して、労働者は基本的に自由に会社を辞めることができる。

また、企業は労働者に必ず給料を支払わなければならないのに対して、労働者側は、特に芳しい結果を出せなくても、一定の給料をもらい続けることができる。

実際には、様々なところで労働者側が有利で、それゆえに企業側はモラルや常識を持ち出して対抗しようとすることも多く、そういうのがSNS上で共有されて、「企業が横暴を奮い、労働者がそれに苦しめられている」というイメージを強める人も多い。ただ、そうやって醸成されている実感に反して、ルール上は企業側のほうがだいぶ不利なのだ。

また、単純な人数比で言うと、経営者よりも労働者が圧倒的に多数派で、特にSNSのような誰もが自由に発言できる場においては、労働者側の意見が強くなりやすい事情もあり、「経営者や企業が悪い!」というイメージが過剰に肯定されやすくなっている。

ここで何が言いたかったのかというと、「企業側が有利だから労働者が搾取されていて、そのせいで市民の生活が苦しくなっている」のではなく、企業側に課せられる負担が増えすぎていて、「集団」が成り立たなくなり、それによって「豊かさ」が失われている、という見方をしているということだ。


相対的上位の「集団(企業)」だけが生き残れるデスマッチ

ここで指摘したかったのは、「金を稼ごうとするビジネス(プラスの競争)」と「個人を尊重しようとする政治的意見(マイナスの競争)」が、結託して「集団」を解体しようとしている構造だ。

(この、「プラスの競争」と「マイナスの競争」が結託しているという論点については、詳しくは「メリトクラシーの問題点とは何か?」や「弱さを競う競争」の記事を参考にしてほしい。)

ビジネスは、「貨幣」を獲得するために集団を解体しようとする。そして、そのようなビジネスと結託して、「集団に対して批判や要求を強め、集団の維持を難しくして、実質的に集団を解体しようとする言説」が影響力を持つようになる。

具体的には、日本型雇用のような「伝統的な信頼関係」を解体することで利益を上げている転職ビジネスが、メディアのスポンサーになったりアフィリエイト広告などを出し、それを受けて、ビジネス系メディアやインフルエンサーは、「もっと個人の多様性を尊重してアップデートされた働き方を目指すべきだ」とか「日本企業は変わらなければだめだ」といった、自由化を促進したり、集団の維持を難しくする発言をするようになる。

このようにして、メディアやSNSに接している人たちの多くも、「集団を解体して個人になるべき」というような意見を支持するようになっていき、企業側の負担がどんどん増やされていって、人を雇えない企業が増える。

この構造において、市場競争のルール自体が「集団を解体すると貨幣を得やすい」というものなのだが、そのような市場競争において、高い成果を出している(金を儲けている)企業は、集団を維持することができる。

例えば、他の企業に対する批判や要求を増やすようなふるまいをして高い収益を上げているような転職ビジネスは、自分たちの会社は、自分たちで釣り上げた基準を満たせている場合が多い。儲かっていて余裕があるのならば、多様性の配慮とかアップデートされた働き方、みたいなものも、自社内ではクリアしやすいからだ。

また、成功している大企業であるほど、増やされていく負担に対応する余裕を持ちやすいだろう。トップ企業ほど、他に良い転職先がないから長期雇用をしやすく、なんなら旧来の日本型雇用をしっかり維持しながら、アップデートされた働き方を実現することができる。

ただ、一部の成功した企業が「集団」を維持できる一方で起こっているのは、「中堅以下がガタガタになっていく」という現象だ。

「集団を解体するほど勝者になりやすいルールにおいて、勝者はまだしばらくは集団を維持できる」というのが市場競争の特徴なのだが、これはデスマッチみたいなものになる。

雇用は、労働の前提になるものなので、どんな企業も無視できないが、転職ビジネスによってそこに過剰な競争原理がもたらされ、自己PRや労務などの負担が増やされ続けていけば、小規模だけど実直に社会を支えているような会社が、本来の業務とは関係のない仕事の過剰によって、疲弊して潰れていく。

そして、自由競争が激化していくほど、多くの人が、競争に勝っているゆえに「集団」を維持できている(労働者が満足する待遇を与えられている)企業を望ましいものと思い、自分の所属先に不満を抱きやすくなる。日常的に触れるメディアやSNSが、広告主の意向に沿って、労働者が今いる企業に不満を抱きやすくなるような言説を発信しようとするからだ。

そして、転職によるキャリアアップを目指す人が増えるが、当然ながら、社会の全員が競争の上位の企業に入れるわけではない。多くの人が自分の待遇を良くするため(優良企業に入るため)の競争に必死になる一方で、中堅や小規模の企業にとっては、本来の業務とは関係のない負担が増え続けていき、マクロでは社会全体が衰退していく。

注意してほしいのは、ここでは、「転職ビジネスはクソだ」とか「転職を禁止することが必要だ」と主張したいわけではないことだ。

「個人の自由や権利の尊重」という観点からすれば、転職ビジネスはむしろ「正しい」側で、日本型雇用のような、不自由を強制するような仕組みのほうが「正しさ」に反する

このような事情を説明するために、当noteの過去動画などでは、「豊かさと正しさが相反する」と置いた上で、「正しさ」が重視されるからこそ「豊かさ」が失われていく、という見方を提示してきた。

では、転職ビジネスによって自由化が進められて、社会全体が疲弊していくという問題に対して、どうすればいいのかというと、「ビジネス」とは別の生産のあり方を追求する必要があると考えている。

市場において貨幣を稼ごうとする「ビジネス」自体が、集団を解体して個人にしていこうとする性質を持つものであり、そのため、「貨幣を稼ごうとする」のではなく、「貨幣を否定して生産活動をする」ような枠組みが必要だと考えている。

これについては、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトに詳しく書いているので、よければ読んでみてほしい。


まとめ

  • 恋愛や雇用などにおいて各々が自由にマッチングできるようになること(自由化・流動化)は、単純に望ましいことばかりではなく、ライバルと競い合うなかでプロフィールを「盛る」ようなPR合戦を実質的に強制されるようになるなど、実は「自由」には不毛な部分が多い。

  • 伝統的な集団は、「不自由だけど楽」という性質を持っていた。「集団」を成り立たせていた「伝統的な信頼関係」は、それを解体するほど「貨幣」が発生しやすくなるので、ビジネスには、「伝統的な信頼関係(不自由だけど楽)」を切り崩そうとする性質がある。

  • 「集団」を成り立たせていた「伝統的な信頼関係」をダイナミックに切り崩す行いほど、市場において収益性の高いビジネスになりやすく、転職ビジネスは、「日本型雇用」という「伝統的な信頼関係」を切り崩すゆえに、今の社会において大きく成功している事業になっている。

  • 「日本型雇用(メンバーシップ型雇用)」は、「いちど入った会社を辞めにくい」というシステムだが、それゆえに自由競争が否定されて長期的な関係になりやすく、「不自由だけど楽」な枠組みとして機能している側面があった。

  • 日本型雇用の慣行において、企業は、新人の選別と教育に大きくコストをかける。転職ビジネスは、そうやってコストをかけられた人材が他の企業に転職することを仲介して手数料を得る。転職を受け入れる側の企業からすれば、選別と教育のコストがかけられた人材を引き抜けるので、高額な手数料を支払っても、転職サービスを使う合理性がある。

  • 転職が増えるほど手数料によって潤う転職ビジネスは、転職を勧める広告を打ち、それは性質上、労働者に転職をしたいと思わせ、転職を促すものになる。一方、大きく損をするのは、選別と教育をかけた人材に転職されてしまう企業だが、しかし、個人が自由に会社を選べることは重要な権利であり、転職を禁止することはできない。

  • 多くの人が自由に転職をするような社会になっていくほど、「日本型雇用」という「伝統的な信頼関係」が解体されていき、長期ではなく短期で人を使おうとする(使わざるをえなくなる)企業が増えていく。

  • 個人の自由が尊重される社会は「正しい」ものだが、雇用における自由競争で発生する、自己PR、選考、交渉、契約、人事、労務、事務などのコストは、それがどれだけ増えたところで物質的な余剰が生み出されるわけではない。そして、雇用において増える負担は、素朴に社会に必要な仕事をしている企業も無視することはできず、コストの増加によって社会全体が疲弊していく。ゆえに、「自由化」による過剰競争は、むしろ「豊かさ」から遠ざかるものになる。

  • 日本においては誤解されがちだが、「ジョブ型雇用」は、近代的なものではなく、「日本型雇用(メンバーシップ型雇用)」と同じような伝統的なものである。日本型雇用においては「会社を移動しにくい」、ジョブ型雇用においては「職種を移動しにくい」という形で、どちらも「不自由だけど楽」なものとして機能してきた。そして、自由化とメリトクラシーが影響力を持つ現代において、どちらも維持するのが難しくなっている。

  • メディアやSNSでよく言われる、経営者や企業に対する批判や要求は、実は「集団」を解体する作用として働く。「批判や要求を強めるほどちゃんとやるようになる」わけではなく、責任や負担が大きくなりすぎて、労働者を正規雇用できない企業が増えていく。

  • 転職ビジネスが広告を出し、メディアやSNSは、スポンサーの意向に沿って、「集団を解体するような言説」を発信する。このようにして、「金を稼ごうとするビジネス」と「個人を尊重しようとする政治的意見」は、結託して「集団」を解体しようとする。

  • 自由競争が激化すると、「集団」を維持するための負担が増え続けていき、一部の勝っている(儲かっている)トップ企業は、増やされていく負担に耐えることができるが、中堅以下が苦しくなっていく。多くの労働者が、所属先に不満を持ってトップ企業を目指そうとするが、社会の全員が競争の上位の企業に入れるわけではなく、各々が自身の待遇を良くしようとする競争によって、マクロでは社会全体が衰退していく。


今回は以上になります。

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