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魅惑の葡萄

人は怠惰なもので、今ある状況にすぐに馴染み、染まってしまうところがある。適応能力が高いといえばそうだけど、基本的にはラクする方向に進んでいくものなんじゃないかな。

染まりたくない習慣や考え方があるならば、意識的に暮らしのなかで実践していく必要がある。よっぽど強く染まっていない限り、とてもパワーが要るものだ。

新たに染まって、かつてを思い出して。

人生の最後にどうなっていたいか、いろんな意見があるんだろうけれど、最終的にはこんなふうにオリジナルな層を重ねながら過ごしてきたものの集大成となるんだろう。

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この頃はすっかり秋めいて、目にする果物も秋に変わった。

特にぶどうが実りの最盛期だ。近所に有名なぶどう農家さんがいて、わざわざ県外から買いに来る人もいる。この時期、果樹園の脇にある販売スペースには人だかりが出来て、珍しい風景となる。

ただ、今年は雨が多かったせいで、実りのペースが良くないそう。ご主人の顔がかげっていて、胸が痛くなる。天候と向き合い続ける農家さんの苦労は計り知れない。

とはいえ、みずみずしい粒が弾けるぶどうはやっぱり美味しい。

この湖畔の町へやってくるまで、正直ぶどうとはそこまでご縁がなかった。強いて言うなら、レーズン(干しぶどう)との思い出はある。

私は生まれてから4歳半までロサンゼルスに住んでいて、おやつによくレーズンを食べてた。「SUN・MAID RAISINS」とデカデカと書かれた赤い箱にレーズンが直接入ってて、親によると空箱になっても握っていたらしい。

自分史の中でぶどうと言えば、「干し」だったはずが「生」へとイメージが変わり始めている。

逆に今の暮らしを始めて「生」から「干し」へとイメージが変わった食材もある。

ひじきだ。

実家は海の近くで、ひじきなんて魚屋やスーパーに行けば近くの漁港で水揚げされたものがいつだって売っていた。ぷりぷりで、黒くて、新鮮で。母が作るひじきの煮つけが大好物だった。

それが、今は「生」ひじきにお目にかかることは滅多になくなってしまった。あってもせいぜい韓国産で気が乗らない。乾物コーナーへ行くと「干し」ひじきなるものが売っていて、ひじきの概念が変わってしまいそう。少し悲しい。

それでも生活は続いていく。

収穫したてのぶどうが食べられるようになった分、水揚げしたてのひじきは食べられなくなった。

それでも今はこの場所に染まるときだから、「生」のぶどうを楽しもう。ぶどうの皮を剥いてチュッと吸う。

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久しぶりにひじきのことを思い出し、このまま忘れてしまうか、たまにでも「干し」ひじきを買って煮付けを作るかは全然違うと思った。

忘れ去ってしまうのは簡単なこと。

心の片隅にでもひじきを置いておくことはとても大切なこと。

そうすることで人生終盤に差し掛かったとき、何かいい光景が見られるんじゃないかなと勝手に考えている(何が見られるかは分からない)。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。