見出し画像

何も生まないこと

最近、いろいろなことを頑張りすぎるのをやめたいと思うようになった。

自分は昔から根詰めがちで、気が付けば目の前のことを完璧にやろうやろうとするクセがある。頑張り屋さんなのは良いことだけれども、良くないこともある。そんな性分に以前から嫌気がさしていた。

何事に対しても意味を求め、行動するときに何かしらの生産性のある理由があると落ち着いた。でもこれって資本主義にすっかり染まった典型的なツマラナイ考え方なのでは、と最近は感じる。そして自分を嫌悪する。

以前読んだ『修業論』という本があって、このなかでは修業とは「初めは意味が分からなくても分からないなりにやり続けて、しばらく経った時に体感として意味がスッと理解できるようになること」と綴られていた。

こういう流れるような生き方、いいよねえ。

***

なぜ意味を求めて頑張ることをやめたいと思うようになったのか。

実は今年の3月からずっと病院に通っている。大体ひと月に5,6回行くことがほとんどだけど、多いときで7回は行く。なんで病院に行っているかは特に明記しないけれども、こんなに長い間病院に通うのは初めてで、正直しんどい。

しんどい理由は2つ。

1つが時間の奪われ方が尋常ではないこと。田舎の病院だけれども、やっぱり病院は混雑している。予約時間が過ぎてもなかなか順番が回ってこないこともしばしば。病院に費やす時間のために、やるべきことが進まないと悲しくなる。

そして2つめ。病院に通ったところで体が良くなるか、結果が出るか、など効果が未知数だからだ。こんなに長い間通っていて意味があるのだろうか?って、ついつい一人でいると塞ぐことが多い。

そして、こうやって何事にも意味を求めている自分がいて、それもまた嫌になってしまう。病院を信じて、先生を信じて、意味があるかないかなんて運命に任せて、気楽に生きていればいいのに。それができない。

「どれもこれも頑張り癖がついているからしんどくなるんだ」

こうして頑張ることをやめたいと考えるようになった。頑張ったってしょうがないことはたくさんあるのだから、全てに明快な意味を求めるのをやめようって。

***

写真 2020-09-07 9 13 16

人間は意味を求めて動きがちだけれども、自然界はそんなこともないように思える。

庭で草をはむヤギ達はただ今日も生きているだけで幸せであり、何かを頑張ることもない(強いて言えば、美味しい草を見つけることを頑張っている)。

何も生まないことに慣れたい。何も生まないことを悪だと思いたくない。何も生まないことは素朴でも美しいものであって欲しい。


そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。