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意味の有無では語り切れないこと

毎年6~7月になると、生活の合間に梅仕事が入ってくる。体調不良などよほどの事情がない限り、自宅で梅干しを作っているのだ。

正直、梅干しは自分で作るより買った方が安いし、早いし、だいいちおいしいと思う。自分で作るとおいしくないわけではなく、できあがった直後は塩が馴染んでおらずしょっぱいのだ。違和感なく食べられるようになるまで、1~2年もかかる。

「じゃあなんでわざわざ梅干しを作っているのか」と自分に問いたくなる。

いやほんと、なんで私は梅干しを作っているのだろう。

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梅干しを作るとき、まずは「どこ産の梅をどこで買おうかな」と悩むところから始まる。

今年は梅が数年に一度の不作だったようで、ニュースにもなっていた。気候変動によって、受粉がうまくいかないことが原因の一つらしい。梅にまで地球環境問題の影響が及んでいる。

「梅がなくなったら困るなあ」と思いつつ、フリマサイトでなんとか無農薬の南高梅を10キロ購入できた。今年は例年の倍量を作ってみようと、多めに仕入れた。

届いた梅はとてもきれいだった。しかし、すぐ使うにはまだ青く、追熟といって数日空気に晒して実が黄色くなるのを待つ必要がある。その間、梅のジューシーな香りがどんどん室内に充満していって、ここはハチミツの王国かな?と錯覚するほどに。

ああ、いい香り。

梅の実が黄色くなると、いよいよ梅漬けを仕込んでいく。

まずは一粒一粒の小さなヘタを竹串で取っていく。これがチマチマした作業で、地べたに座ってうつむいて作業するものだから、はたから見たら完全に病んでいる人だ。本当はヘタを取っているだけなのに。たまにブスっと梅の実に竹串が刺さってしまったりして、とにかく細かい作業。

ヘタを取り終われば、梅を一粒一粒水洗いして、乾かして、ホワイトリカーの入ったボウルに漬け、ころころ回して消毒だ。そして最後に塩をまぶしながら、樽に入れていく。梅漬けを作るときは、とにかく道具や樽をアルコール消毒してカビが生えないように注意する。最初はアルコールで手先がつるんとするが、徐々にガサついてきて、終わるころには手をいたわりたくなる。

梅干しづくりって大変だ。

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梅漬けを仕込んでから数週間後、梅干しの綺麗な色を出すために「赤シソ」を投入する。

この赤シソ投入は大掛かりな作業だ。表と裏の両面がきれいな紫色の葉を見つける必要があり、手間がかかる。今年は直売所の赤シソを使ったが、一枚ずつ葉をちぎっている最中に、イモムシが二匹ほど出てきた。

「ぎゃーっ」

イモムシ単体で見れば怖くないが、突然ムニっとした触り心地のものが手に触れるとびっくりする。ああ、心臓に悪い。わりと大きなイモムシが付いていたから、赤シソの葉の間から数ミリ程度のフンもぽろぽろ落ちてきた。

「こりゃ葉をよく洗わなきゃ」

そういえば、以前赤シソを購入して電車に乗り、気が付いたら自分が虫まみれになっていたことがある。赤シソには小さなノミのような虫が大量に付いていることがあって、私の服や荷物に移動してきたのだ。そんなことを思い出しながら作業していたら、今年もいた。例の小さな虫。やっぱりよく洗おう。

状態のよくない葉や余った分は、赤シソジュースにした。クエン酸とてんさい糖を使ってヘルシーに仕上げる——と涼しく書いたが、実態は汗だく。赤シソジュースを作るには大量の湯に大量の葉を入れて混ぜる必要があり、汗がとめどなく出てくる。

できあがった鮮やかな色の赤シソジュースを見て、少しだけ救われた気持ちになった。しかしいざ飲んでみると、想像より酸味が強く出ていた。夫は「夏だしこれくらいでいいんじゃない」と言うが、難しいなあ。

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炭酸水で割った赤シソジュース。梅干し作りで余った赤シソを使った。梅雨どきで蒸し暑く、作りながら汗だらだら。

改めてなんで私は梅干しを作っているんだろう。こんなに時間とお金をかけて、汗をかいて、たくさん悩んで。トラブルがあれば気持ちが下がって。ちなみに今年は5つの梅に小さなカビを生やしてしまって、ショックだった。

梅干し作りは失敗も大いにあり得るし、繊細で難しい作業だから心が折れることもある。かといって、梅干し作りを辞めたいか?と訊かれればそんなことはない。

昔はあたりまえに庭先に梅が実って、同じ時期に防腐作用が強い赤シソが生えてきて「梅干しは何も考えずに作るもの」だったんだろう。日本人の主食が米であるのと同じくらい、あたりまえのことだったのではないか。実際、おにぎりの具の代名詞は梅だし。

そう考えると、私が梅干しを作る明確な理由は「ない」と表現するのがいちばん近い。

理由なんてないけど、日本には梅が実る環境があって、昔から受け継いできた知恵と技術があって、ただただそれだけ。大げさにいえば文化の継承と呼ぶのかもしれないけれど、もっとシンプルに「当然のように暮らしに馴染んだ手仕事」だと思うのだ。

生きていればつい「なんの意味があるの」と考えがちだ。

しかし、意味の有無では語り切れないことはたくさんあるんじゃないか。そういうものに限って、消えたときに重要性が問われたりして。梅干しだって、いつか誰も作らなくなってしまったら「すごい食材だったんだなあ」と思うに違いない。

大きな理由がなくても、大変だったとしても「やるんだからやるんだよなあ」で進んでいくことはきっとある。理由が判然とせずもやもやしても、取り組んだ時間と事実だけは、体にちゃんとしみついていて。これって実は人生を象徴する一面でもあるのかな。

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最近は庭にたくさんヘビイチゴが生えている。

梅雨が明けたら梅漬けを天日干しして、いよいよ梅干しの完成だ。これがまた一個ずつの粒を地道に並べる作業で、細やかさと器用さが必要になる。

私はきっとこれからも「てえへんだー」と言いながらも、梅干しを作っていくだろう。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。