一人で浸る幸せ
いま自分が住み慣れない田舎町で暮らしていけているのは夫のおかげ。
理由は、自分一人では大変なことが楽しいとは思えず辛いことになっていたと思うからだ。二人でやるから大変なことも乗り切れる。そして大変さは楽しさへと変化する。
一人だったらただ辛いだけだったかもしれない。これは将来に向けても言えることで、きっと二人で成果を分かち合うから喜びが増えるんだろう。
だからこそ不安に思うことがある。
「もし今夫が死んだらどうしたらいいんだろう」
心配性な性格で、大切な人が突然死んだときのことを考えてしまう。これは今に始まったことではなくて昔からそうだった。
怖い。大切な人が突然死んでしまったとき、自分はどうすればいいんだろう。
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こんなこと考えるのは変かもしれないけれど、自分にとっては重大な検討事項。そして最近解決策を見つけたような気がしている。
もしかすると、夫の存在が自分の中で大きくなりすぎているのかもしれない。子供にとっての宝物みたいに。
そういえば自分にしか分からない宝物を親に突然捨てられたことがあった。布切れみたいなボロボロな枕カバーだった。親からすれば汚くなった何でもない枕カバーで、でも子供の頃の自分にとっては大事な宝物だった。しばらく枕カバーがないショックがすごかった。
「宝物を作らなければ良かったのかもしれない」
一点に愛情を込めて大事にするから無くなった時の喪失感がすごいんだ。身の回りの物や大切な人に愛情を込めて生きるのはもちろん大切だと思う。でももっと愛情を込めて接しないといけない人物がいる。
自分自身だ。
私たちはお母さんのお腹から出てきて初めて光を浴びる。その時私は一人だった。お母さんとへその緒で繋がっていたけど一人だった。
きっと死ぬときも一人。同じタイミングで、せーのって死ぬことは事故じゃない限りないと思う。本物のおしどり夫婦は死期が近いかほぼ同じ、という話は有名だけど一分一秒も乱れず同時で死ぬということはあまり無さそう。
人生を通して大切な人や宝物ができるのはとても嬉しいことだ。
でも忘れちゃいけないのは、人生そのものは自分自身のものだってこと。大切な人に溺れて、その対象が無くなった時に初めて気が付くのでは遅い。
だからこそ大切な人に流されず、日々自分の幸せも大事にする必要があるなって。
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古民家での暮らしは自然が豊かで小さな寂しさが紛れていい。
季節によって鳥の鳴き声が変わる。最近はホトトギスが鳴くようになった。カエルの合唱はまだ当分続きそう。
夫と分かち合う喜びだけでなく、自分一人で浸る幸せも悪くない。わざわざ共有しなくたっていい。そうやって自分自身の人生を歩めているかどうかを定期的に確認する。
今日は夫が留守だったから庭にハーブを4種植えた。一人胸がほくほくした。あしたは今日植えたハーブ、どうなっているかな。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。