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【帝王は孤独の罰を受ける】

まず始めに、帝王学とは、この世は、思い通りにならない。という前提に生まれている。この世が思い通りにならないならば、どうしたら思い通りになるのか。

乱暴に言うなら、思い通りにならない苦しみがあるならば、どうしたら苦しみから離れ、この世を思い通りに生きることができるのか。ということを考察し続けている学問である。

これは、この学問が、人間が自分ではどうにもならない(と捉えている)事象…例えば、病に罹ること、年を取り老いていくこと、死を迎えること、愛するものとの別離などに、苦しみを感じる常から来ると言える。

そして、帝王とは、事象に付随する苦しみという概念が、自分から作り出されたものだと知っている立場のことを言う。

つまり、他の誰でもない「私」がどう在り、どう捉えるのか、価値を産む覚悟が決まりさえすれば、苦しみも悲しみも価値となることを知っている。という前提で帝王学は進む。

故に、この捉え方という一点においては、この世界には、まるで私しかいない。かのような、孤独の中にいることになる。

それは、自分を正しく知ることを求められる生き方である。苦しみの原因である過去の記憶による、執着や、自分の正しさ、という妄想から自由になる覚悟の道である。

この、自分ではどうしようもないことだらけの苦しみしかない人生において、その苦しみを手放す覚悟の提案を、釈迦は、四諦と八正道という言葉で残している。

『四諦』
・苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦であるという真実。
・集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
・滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
・道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。

『八正道』
正見
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」。

以下続くがそれらはすべて、正見のための道義である。

生きている限り、必ず死は訪れ、出会ったら必ず別れる。この世は思い通りにならないことばかりであり、苦しみは決してなくならない。

ならば、思い通りにしたいと思う気持ちや、その原因である、過去の記憶からくる執着を正しく知ることで、その苦しみという概念は、過去の記憶による解釈に過ぎないと知れば、そもそも、苦しむ必要がなくなったり、苦しむことに苦しみを感じることがなくなる。と、言っている。

事象にも、事象に付随する感情にも、良いも悪いもなく。
ただ味わうことが人生だと、受け取れる。

自らを正しく観察することで、全ては平安へと叶う。これが、さとり。だと。
自分を正しく観察することで、陰陽(事実と解釈)の区別が可能になり、陰陽(理想と現実)の差を取ることで、結果自然と欲を手放すことができるのだ。

とはいえ、この世は思い通りにならないことだらけなのだから、苦しみはなくならない。

だから、どのようなことがらにも、価値を見出す帝王の生きる道は、死ぬまで、もしくは解脱まで、ずっと苦しみと共にあることになる。

そこで、「帝王とは孤独の罰を受ける」この言葉になる。

帝王として生きるとは、価値を外ではなく自らの内に見つけること。

「どう生きるのか」日々思い通りにならない日常を通して問われ続け、自らに問い続ける生き方であり、問い続けることでのみ、苦しみの原因である執着や解釈を疑い手放すことが可能となる。

苦しいのは執着するからだ。
自分を正しく知るとは、執着に気づくこと。執着である「自分の正しさ」を手放し、価値を生む腹を決めれば、その一瞬、苦しみは消える。


言葉を返せば、苦しみは自分の正しさから来る。


常に自分を観察し、過去の記憶による自分の正しさ(欲)から、執着して苦しみの中に浸っている自分を知り続け、手放す腹を決め続ければ、苦しみは、瞬間瞬間で終わる。


これが、さとり と、呼ばれる。
さとり とは、カルマの浄化。
カルマとは繰り返してしまうパターン。つまり、さとりとは、繰り返してしまうパターンから離れること。


常に新しい自分、常に新しいあなた。常に新しい世界として、価値を生み続けること。

人間の持つ最大の能力は、自分を正しく知る観察する力だと、釈迦やソクラテスを始めたとする、幸せを求めて探求してきた先人の言葉に思う。

苦しみは妄想であり、妄想だと知ると腹が決まる。
そもそも苦しみは、自分もしくは他者を貶めている時であり、その解釈は過去の記憶から来ている。

いかに自分の正しさを手放せるか。自分の拠り所である正しさを手放すことは、勇気が要り、既存のルールではない新たな価値を作る挑戦でもある。

それでも、問い続ける。

それは本当なのか?

・できない
・私が正しい
・明日死ぬ
・一生一緒

それは、本当?
事実は、ただ、そう捉えた私がいただけ。

・できない?やるか、やらないか。私しだい。
・私が正しい?新しい価値を知る時かもしれない。
・明日死ぬ?今、生きている。これが全てだ。
・一生一緒?今、一緒にいる。これが全てだ。

いつも疑い、自分の中にある迷いにアクセスし、事実と解釈を分け、腹を決め続ける。
これが、帝王と言う生き方。

孤独だ、、でも、豊かだ

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