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「全機」について①

道元禅師の『正法眼蔵』に「全機」という巻があります。
以前、「現成公案」巻に出てくる「前後際断」という言葉について書きました。(↓もしご興味ありましたら参照いただけましたら幸いです)

以前の記事の中で、「前後際断」は仏法における生と死について述べる過程で使われた言葉だということを書きました。
その仏法における生と死について「全機」という巻ではさらに詳しく論じられています。

そこで、同巻は比較的、短いものなので、できるだけ逐一訳しつつ、何回かに分けて考察していきたいと思います。


「全機」とは

題名の「全機」についてですが、「機」とは「働き」のことをいいます。何の働きなのかといえば、〈いのち〉の働きです。つまり「全機」とは万物(自己)を生かしている全き〈いのち〉の働きのことです。

冒頭はこの一文で始まります。

諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

諸仏の大道とは、もちろん仏道のことですが、その究め尽くされたところを言うならば、「透脱」であり、「現成」である、と言っています。

「透脱」と「現成」

「透脱」というのは「脱落」ともいいますが、万物(自己)がすべて「空」であるということです(『般若心経』で言うならば「色即是空」です)。

「現成」というのは「如是」(あるがまま)ともいいますが、すべてが「空」という実相のあらわれであるということです(『般若心経』で言うならば「空即是色」です)。

ですが、道元禅師はあまり「空」という言葉を使いません。おそらく「空」という言葉のもつイメージが、観念的な「何もなさ」「空っぽ」という意味を想起させてしまうため、〈いのち〉の躍動を殺してしまうからだと思われます。

それに対して「透脱」という言葉は、すべての存在をつねに今、まっさらに刷新している〈いのち〉の働きを表わしています。ですから、とても動的な響きがあります。「現成」という言葉にも、すべての存在はそうした〈いのち〉の全きあらわれであるという力強さを感じます。

万物は、即今、即今、「空」なる実相である〈いのち〉によって空じられ、また新たな存在として創造されています。それは無窮の運動です。万物が刻々と透き通るように姿を新たにしている、そうした様子を表現しているのが「透脱」であり、「現成」という言葉です。そしてそれが本来の自己のあり方です。

続いて本文を見てみます。

その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆゑに、出生死あり、入生死あり。ともに究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり。ともに究尽の大道なり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(その「透脱」というのは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するのである。それゆえに生死から出ることもあり、生死へ入ることもある。どちらも究め尽くされた仏の大道である。迷いとしての生死を捨てることもあり、本当の生死に目覚めることもある。どちらも究め尽くされた仏の大道である。)

「生も生を透脱し、死も死を透脱する」

ここで言われる生と死は生老病死という時間的な現象としての生と死ではなく、法(ダルマ)としての生と死です。法(ダルマ)としての生と死はどちらも〈いのち〉の働きとして対等なあり方です。ですから、対立関係にはなく、時間的な前後関係にもありません。

法(ダルマ)としての生と死に目覚めるとき、生は、死に対立するような古い生を脱け出し、本当の「生」になります。それが「不生」です。死も、生に対立する古い死を脱け出し、本当の「死」になります。それが「不滅」です。「生も生を透脱し、死も死を透脱する」とはそういうことです。

ゆえに迷いとしての生死流転から脱け出し(=出生死)、新たに本当の「生死」に入ります(=入生死)。それは迷いの生死を捨て(=捨生死)、本当の「生死」に目覚めること(=度生死)です。そのどちらも「究尽の大道」だといいます。

ちなみに、「不生」や「不滅」の「不」とは否定の意味ではなく「一如」という意味です。つまり本来の生(=不生)と本来の死(=不滅)が一如(=不生不滅)であることを「空」といいます。この不生不滅の「空」こそが〈いのち〉そのものです。そして、この〈いのち〉が働いている場が「今・ここ」であり、自己です。

現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(「現成」とはまさにこの「生」であり、「生」はまさにこの「現成」である。その「現成」のとき、「生」が〈いのち〉の全きあらわれでないということはなく、「死」が〈いのち〉の全きあらわれでないということはない。)

〈いのち〉とは不生不滅の「空」であり、その全きあらわれ(現成)が今のこの「生」です。それがわかれば、「生」が〈いのち〉の全きあらわれであるだけでなく、「死」も〈いのち〉の全きあらわれであることがわかります。

ここでの「死」は命の終わりのことをいうのではなく、本当の意味での〈いのち〉の全現成です。〈いのち〉それ自体は不生不滅、つまり永遠なるものです。それに終わりなどありません。ですから本当の意味での「死」は、何かが滅するという意味での死ではなく、「不滅」という〈いのち〉のひとつのあり方です。

生と死は、昼と夜のように、同じ〈いのち〉の両側面であり、一如なる働きです。

この機関、よく生ならしめよく死ならしむ。この機関の現成する正当恁麼時、かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず。遍界にあらず、局量にあらず。長遠にあらず、短促にあらず。いまの生はこの機関にあり、この機関はいまの生にあり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(この〈いのち〉の働きの仕組みが、生を本当の「生」ならしめ、死を本当の「死」ならしめている。この〈いのち〉の働きの仕組みが現成するまさにそのとき、それは必ずしも大きいのではなく、必ずしも小さいのでもない。空間的に無限に広がっているのでもなく、空間的に限られているのでもない。長くて遠いのでもなく、短くて近いのでもない。今の「生」はこの〈いのち〉の働きの仕組みとしてあるのであり、この〈いのち〉の働きの仕組みが今の「生」としてある(働いている)のだ。)

「機関」(「透脱」と「現成」)

「機関」とは〈いのち〉の働きの仕組みのことですが、それは先ほどから言っている「透脱」と「現成」のことです。〈いのち〉の働きである「透脱」と「現成」という仕組みが、生を本当の「生」ならしめ、死を本当の「死」ならしめているといいます。

それは大小長短などの人間的な判断によっては捉えられるものではありません。なぜなら、それは人間の頭が行う判断以前の事実として働いているものだからです。

人間の頭が行う判断はどうしても時間と空間の二元的な形式(=自我の形式)によって条件づけられているため、それ自体が迷いです。したがって、その迷いの判断で思考しようとすることは迷いに迷いを重ねることになります。

ですが、だからといって不立文字だといって思考停止しても永遠にわかりません。もちろん日々の坐禅によって自我の条件付けを解いていくことが前提にはなりますが、しかし同時に、自我の思考形式それ自体に疑問を呈することが何より大事だと思われます。

自我の思考形式それ自体を本気で疑うとき、自我の思考を超えた思考(=非思量)に気づきます。それは誰にでも本来あるものです。道元禅師の書かれたもの、提唱されたものは、すべてその自我の思考を超えた思考である「非思量」によって書かれたものです。ですから、その書かれた言葉を参究することは自らの非思量を使うことでもあり、それをさらにハッキリさせることでもあります。道元禅師はその誰にも本来ある非思量を目覚めさせるために言葉を用いています。なので、一般的に流布されている、禅とは不立文字であり、言葉や思考は不要なものだとするような考えは、道元禅師の教えとは何の関係もありません。

先ほど「不」はただの否定ではないと書きましたが、「非」も同じです。「非思量」は思考の否定ではありません。それは肯定や否定などの二元性を超えた意識であり、したがって、そこで行われる思考(=参究)は、自我の二元性による思考ではないのです。そこを混同してはならないと思います。

道元禅師は「不思量底を思量せよ」と言います。「不思量底」とは一如である〈いのち〉のことです。不生不滅の「空」、すなわち「全機」です。それを思量(=参究)するには必ず「非思量」を用いるのだと言っています(「坐禅箴」巻)。(※「思量」「不思量」「非思量」については以前の記事でも書きました↓)

不思量底という〈いのち〉は生と死を一如として生きている真の自己です。対して自我は生と死を分断し、時間と空間の形式によって現実を鋳型にはめてしまいます。つまり真の自己を殺しているのです。そして自我の形式で思考することはますます自己から遠ざかることにほかなりません。ですから自我を手放さなければなりません。

信心=南無(帰命)

自我を手放すことを「信心」といいます。「心」とは不思量底である〈いのち〉のことであり、それに信を置く、つまり自己の実存を自我ではなく〈いのち〉に置くことが「信心」です。そして「信心」とは「南無」(帰命)ともいいます。〈いのち〉に帰することです。それが坐禅であり称名です。

そして手放すことは同時に〈いのち〉への参究でもあります。そこで生まれてくるのが「非思量」です。それは直接、不思量底である〈いのち〉から来ているものです。ですから仏道とは自己が自己を参究していることになります。

先ほどの「透脱」「現成」でいうならば、手放すことは「透脱」(脱落)であり、参究は「現成」(公案)です。それは同時に起こっており、かつ無窮のものです。「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり」です。

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