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「前後際断」について

 禅ではよく「今、ここ」が大事だと言われます。人間の思考はすぐ過去や未来をさまよってしまいますから、そういった妄念をスッパリ断じて「今、ここ」に集中せよ、あるのは今だけだ、前後際断だ……そんなふうに「前後際断」という言葉が使われたりするのを耳にします。
 「前後際断」という言葉は『正法眼蔵』「現成公案」巻の中に出てきますが、はたして本当にそのような意味で使われているのでしょうか。


現成公案とは

 「現成公案」巻の冒頭は「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり」という一節から始まります。

 「諸法の仏法なる時節」とは諸法(五蘊)が仏法である時、つまり悟りの眼(正法の眼)から自己の真相を見た時、という意味です。
(そのあたりのことは以前の記事にも書きましたのでお時間ありましたらご参照いただければ幸いです)

 その正法の眼から見た時、絶対平等なる事実(=公案)は現前(今ここ)に成就しているというのが「現成公案」という意味です。それは「諸法実相」(法華経)と言っても同じです。

 「現成公案」巻は、その冒頭の一節にある「迷悟」「修行」「生と死」「諸仏と衆生」をそれぞれ仏法による正しい見方から詳しく説いていくという形で論が展開していきます。
 「前後際断」という言葉は、冒頭の一節の中の「生あり死あり」の部分を詳しく解説するところで出てきます。
 したがって「前後際断」は「生と死」についての仏法による見方を説く際に使われた言葉であるということを押さえておく必要があります。

薪と灰

 該当箇所を見てみます。

「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。」

訳:薪が燃えて灰となるが、さらに戻って元の薪になることは決してない。そうではあるが、灰が後、薪が先(前)と見るべきではない。知るべきである、薪は薪としての法(ダルマ)という絶対不変のあり方として、先(前)があり後があるのだ。前後があるとはいえ、前後の際(きわ)は断たれている。同じように、灰は灰としての法(ダルマ)という絶対不変のあり方として、後があり先(前)があるのだ。

 「薪が燃えて灰となるが、さらに戻って元の薪になることは決してない」というのは、生老病死のことです(物理学的にはエントロピー、つまり「時間の矢」です)。
 ここでの「薪」や「灰」はただの物質のことではありません。燃えている薪とは「生」のことであり、燃え尽きた灰とは「死」のことです。火は煩悩や無常という事実を表しますが、燃えている薪とは生きている「私」のことです。その燃えている命が尽きたときが「死」である、というのが一般的な見方です。ですが、道元禅師は生と死をそのように前後関係(時間軸)として繋いではならないと言っています。自我は三次元空間と直線的な時間を実体視しています。だから実体のある何かが死んでいくように見えますが、これは錯覚です。死んでいく「何か」などという実体はありません。

法(ダルマ)としての「生」と「死」

 「生」は法(ダルマ)という絶対不変のあり方(=法位)としてあるので、それだけで完結したものであり、同じく「死」も絶対不変のあり方(=法位)として完結しています。
 地球そのものから見れば、昼は夜にはならず、夜は昼にはなりません。昼は昼であり、夜は夜ですが、お互いがお互いを邪魔することなくひとつとなって動いています。生と死も同じです。どちらも平等に〈いのち〉の絶対的なあり方(=法位)です。
 したがって「先あり後あり」というのは生老病死という直線的時間のことではなく、〈いのち〉のあり方(=法位)として、過去の「生」もあれば、未来の「生」もあり、同じく過去の「死」もあれば、未来の「死」もあるということです。この世界(自己)には始まりも終わりもありません。〈いのち〉とは永遠の運動です。それが「前後際断」ということです。

 続いて後半部分を見ていきます。

「かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」

訳:あの時の薪が燃えて灰となったのちに、さらに今の薪とはならないように、人が死んだのちに、さらに生とはならない。そうではあるが、生が死になるとは言はないのが仏法の定められた決まりである。このゆえに「不生」という。死が生にはならない、それが仏の説いた教えである。このゆえに「不滅」という。生も一時の位であり、死も一時の位である。たとえるなら、冬と春のようだ。冬が春になると思わず、春が夏になるとは言わないのだ。

生死一如

 「生」とは”生まれること”ではなく「生」という絶対的なあり方として生きている自己の事実です。それと同じく「死」とは”死ぬこと”ではなく「死」という絶対的なあり方として生きている自己の事実です
 物質的な肉体が機能を停止し、四大(地水火風)が飛散していく現象は「死」ではありません。それはただの物質現象です。「死」は昼にとっての夜のように「生」にとって不可欠な〈いのち〉の絶対的なあり方です。
 このように、法としての生を「不生」といい、法としての死を「不滅」といいます。ここでの「不」とは否定の意味ではなく絶対という意味です。絶対とは二元相対ではない、一如だということです。つまり本来の生と死は時間的な前後関係にはないし、対立関係にもない、一如だということです。生(=不生)と死(=不滅)が一如なるあり方としてあることを「不生不滅」すなわち「空」といいます。それが〈いのち〉であり、その不生不滅なる〈いのち〉が、ある時は「生」となり、ある時は「死」となり運動しています。生も死も、ともに一時の位だというのはそういう意味です。ちなみに「一時」とは直線的な時間における「ひと時」という意味ではありません。一時の「一」は絶対の「一」です。そして「時」とは法としての存在(「有時」巻)ということです。「生」も永遠の時であり「死」も永遠の時です。その全体が自己です。〈いのち〉のあり方として、「生」という自己もあり、「死」という自己もあるということです。

春夏秋冬(発心・修行・菩提・涅槃)

 道元禅師は四季にたとえています。春夏秋冬は「発心・修行・菩提・涅槃」に対応しています(「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」)。
 「発心・修行・菩提・涅槃」という仏道の運動は「生老病死」のような直線運動ではありません。春夏秋冬(発心・修行・菩提・涅槃)のそれぞれが絶対のあり方です。つまり大いなる〈いのち〉が、ある時は春(発心)というあり方をし、ある時は夏(修行)というあり方をし、ある時は秋(菩提)というあり方をし、ある時は冬(涅槃)というあり方をします。春の時節は春のみですが、その春(発心)に他のすべて(修行・菩提・涅槃)がたたみ込まれています。同じく夏の時節は夏のみですが、その夏(修行)に他のすべて(発心・菩提・涅槃)がたたみ込まれています。秋(菩提)も同様です。
 冬(涅槃)は仏の境涯ですが、そこには当然「発心・修行・菩提」のすべてがたたみ込まれています。だから衆生も目覚め、修行し、悟ることができるのです。仏の証の上で衆生の修が成り立つのもそういう意味です。だからといって、冬(涅槃)がすべての起点であるというわけではなく、春夏秋冬(発心・修行・菩提・涅槃)のそれぞれがそれぞれを包み込みながら展開しています。それは、ある意味ではすべてが同時に起こっているとも言えます。だから春が夏になるわけではなく、冬が春になるわけではない、つまり仏法から見た世界は直線的な時間の世界ではないのです。

〈いのち〉による修証

 したがって、道元禅師の言う修証は「私」という直線的時間を生きる自我が主体となるのではなく、法としての生(春・夏=発心・修行)と法としての死(秋・冬=菩提・涅槃)を巻き込んだ〈いのち〉そのものが主体となり、行っているものです。ですから涅槃が起点でもなければ終点でもありません。〈いのち〉の運動に始まりも終わりもありません。四季のような円環的な運動、それが〈いのち〉の運動です。しかしそれはニーチェの言う永遠回帰のような同じものの反復ではなく、つねに古いものを超脱していくものです。ですから伝統化されてしまったものは〈いのち〉の抜け殻です。対して燃える薪とは〈いのち〉を燃やして生きている自己のすがたです。
 
 ところで、物理に詳しくないので勝手なことは言えませんが、エントロピー的な物理運動は生命の一部ではあるものの本当の生命の運動とは言えないと思います。それは〈いのち〉の”影”のようなものであり、本当の生きる力は逆方向にあるのではないでしょうか。われわれは当たり前のように”影”を実在だと錯覚し、その方向にみずからの人生を設定してしまっていますが、ある意味それは〈いのち〉に対する冒涜かもしれません。

生死すなわち涅槃なり

 法としての死は「不滅」といいますが、それは「寂滅」ともいいます。寂滅は涅槃です。それは同時に法としての生、すなわち「不生」そのものでもあります。生死は一如だからです。
 生死は一般には生き死にを繰り返す輪廻としての苦しみ、もしくは輪廻を引き起こす迷いそのものを意味しますが、迷いや苦しみとしての生死を嫌って、それとは対立した”涅槃なるもの”を願っても、さらなる迷いや苦しみの因になるだけだと道元禅師は言います。

 だからこう言います。

「ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。」(『正法眼蔵』「生死」巻)

 まず生と死の概念を根本的に変えなければなりません。そして生死がそのまま涅槃だと分かり、生死を嫌うのでもなく、涅槃を願うのでもなくなれば、そのとき初めて迷いや苦しみとしての生死を離れることができるといいます。つまり本当の意味での「生死」に目覚めるということです。

「この生死はすなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。」(同上)

 「仏の御いのち」とは本当の自己としての〈いのち〉のことです。その〈いのち〉が「生」となり「死」となって永遠の今を生きているのだから、生死を嫌い、捨てようとするなら、自己そのものを失うことになります。それは、なんとも恐ろしいことです。

 ちなみに「現成公案」巻の「生と死」を扱った内容をより深く掘り下げている巻に「全機」という巻があります。また機会を見て取り上げてみたいと思います。


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