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「思量」について

「箇の不思量底を思量する」とは


 道元禅師が坐禅の要術(法術)だと言っている言葉があります。
 
 「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」
 
 これについては以前、『正法眼蔵』の「観音」巻を中心にちょっと考察したことがありますが(「『自受用三昧』について」参照)、今回は以前とは違う切り口から自分なり(=独断的)に考えてみたいと思います。ですので、おそらく”正統的な”解釈からはだいぶ外れていると思われます。


「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」

 この言葉は、もともと中国曹洞宗の流れの中でも最も重要な存在の一人である薬山禅師(745〜828年)と弟子との問答から採った言葉です。もとの問答を以下、引用します。

薬山弘道大師坐次(ざするおり)、有僧(あるそう)問、「兀兀地思量什麼」〈兀兀地(ごつごつち)に什麼(なに)をか思量す〉(どっかと坐って、なにを思量する(かんがえる)のですか)。
師云、「思量箇不思量底」〈箇の不思量底を思量す〉(思量しないところを思量するのだ)。
僧云、「不思量底如何思量」〈不思量底、如何(いかん)が思量せん〉(思量しないところをどのように思量するのですか)。
師云、「非思量」〈思量にあらず〉(思量ではない)。

愛知学院大学 禅研究所 「思量・不思量・非思量(著・伊藤秀憲)」より

 坐禅というと「無念無想」というか、何も考えないでただ座るというイメージがありますが、この問答はそういった坐禅のイメージを覆すようなところがあります。
 坐禅している師匠に「坐禅中、いったい何を考えている(思量)のですか」と聞く弟子もすごいですが、それに対して怒るでもなく、逆に「考えないところ(不思量底)を考えている(思量)のだ」と返す薬山禅師もかっこいいなと思います。
 そして「考えないところ(不思量)をどうやって考えるのですか(如何思量)」と問い返す弟子に対して、薬山禅師が返した言葉が「考えにあらず(非思量)」。
 
 整理すると、坐禅とは「考えないところ(不思量底)を考える(思量)のだが、それは考えではないのだ(非思量)」ということになります。が、これだけ聞いても意味不明ですね……。いわゆる”禅問答”というか、結局「坐禅というのは考えごとではないのだ。だから、しのごの言わず、ただ坐れ!」という根性論にすり替えられかねません(実際、そんな感じで説明されてしまっているものが多いような気がします)。
 はたして、本当に道元禅師はそのような意味合いでこの問答を解釈し、「それが坐禅の一番大事な点だ」と言ったのでしょうか?

「思量」=「考える」?

 この問答に出てくるキーワードに「思量」「不思量」「非思量」があります。この3つのキーワードの関係性をしっかり理解しないとこの問答の本当の意味は分かりません。
 その際、「思量」という言葉をどう捉えるかが問題です。「思量」をそのまま「思い量る」=「考える」と訳しただけでは、この問答の意味を履き違えてしまいます。もちろん当然ながら「思量」には「考える」という意味がありますが、道元禅師は(もちろん薬山禅師やその弟子も)「思量」をそのような意味だけでは捉えていないのではないかと思われます。

「唯識」の「思量識」とは

 ここで唯識思想を通して「思量」を考えてみたいと思います。唯識ではこの世のすべてを心(=識)の現れであるとします。その根本の心が「アラヤ識(阿頼耶識)」ですが、アラヤ識とは永遠の過去から衆生が行ってきた業(カルマ)のデータが収められている宇宙的なクラウドのようなものです。
 そのアラヤ識(根本識)が展開されたものとして、唯識は、さらに識を大きく3つに分け、計4つ(細かくは8つ)の識に分類しています。

①アラヤ識・②マナ識・③意識・④前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)

 この中で③「意識」は思考や概念の働きを意味します(いわゆる「眼耳鼻舌身意」の「意」の働きです)。「意識」は一般的な意味での意識(consciousness)とは厳密には違いますが、大きな意味で顕在意識のようなものと考えても良いかと思います。
 それに対して「マナ識」は深層心に潜む自我意識のことを意味します。いわゆる潜在意識です。「アラヤ識」と「意識」の間に居座っているのがやっかいなところです。その「マナ識」は漢訳では「思量識」とも表記されます。
 つまり「思量」とは、思考や顕在意識のレベルだけではなく、潜在意識レベルの自我意識(「我」という意識)の意味を含むものとして捉えることができます。
 もちろん「マナ」とは「マナス」=「思考」という意味からきているので、「思考」の意味にも取れるのですが、「マナ識」はただの思考作用のことではありません。それは業のデータの集合体に過ぎないアラヤ識を実体視し、「我」(私)だと勘違いし続ける、つまり深層レベルで思い込み続ける根深い心の作用です。そのことが「我見」や「我愛」などの煩悩を生み出すことになります。なので、この「マナ識」による勘違いを正さなければ人間は苦しみから逃れることはできません。仏教はそもそも根本的な苦しみからの脱却を目指していますから、当然、坐禅はその技法になります。問題なのは「考えること」(=「意識」)なのではなく(人間だから考えるのは当たり前です)、「意識」に深層レベルで影響を与え続ける「マナ識」の存在です。だから道元禅師は「意根を坐断せよ」と言います(「意根」とは「意」の根ですから、「意識」のことではなく、その根っこに当たる「マナ識」のことです)。「意根」=「マナ識」が間違った活動を続けるかぎり、その影響下にある「意識」は本来の正しい思考(正思惟)をすることができない、つまり世界を正しく認識することができないのです。

 では先の問答における「思量」を自我意識(「我」という意識)の意味を含むものして読み替えるとどうなるのでしょうか? ただ、その際、原文を訓読みにしてしまうと、これまた意味不明なものとなってしまいます。道元禅師も『正法眼蔵』中で必ず漢文のまま引用しています(『普勧坐禅儀』はもともと全文が漢文で書かれたものです)。なので、ここでも訓読みにせず漢文のまま考えていきたいと思います。

「兀兀地思量什麼」

 まず弟子の最初の問いです。この言葉は坐禅の要術としての引用には含まれていませんが、重要な言葉なので考えてみます。
 「兀兀地」は、山のごとく坐定している、つまり「坐禅三昧の時」(サマーディ)という意味です。「什麼」は「何」という意味ですが、この「什麼」というのはただの疑問形ではなく、「什麼」=「何」としか言えない、つまり思考や概念では定義付けできない現実を表しています(禅では、言葉では表しようもない事実を疑問形の言葉を使って表現したりします)。したがって「兀兀地 思量什麼」は「坐禅三昧の時、思量(「我」という意識)は”何もの”とも言えない存在となっている」と読むことができます。
 つまり弟子の問いは最初からかなり真実をついたことを言っていることになります。

「思量箇不思量底」

 それに対する薬山禅師の答えです。
 ここで「不思量」というワードが出てきます。「不思量底」とは、「我」とは言えない、「我」を超えた縁起的世界、つまり実相(=万法)のことです。
 「箇」とは「ただひとつ」という意味なので、「箇不思量底」とは一心(ワンネス)と言ってもいいと思います。「一心一切法、一切法一心」の一心です。「現成公案」巻ではそのことを「万法ともにわれにあらざる時節」と表現されています。
 ちなみに「万法」はよく森羅万象などと訳されることもありますが、決して自分の外側に広がっている空間的な個物の集合などではありません。そうではなく、すべてが縁起によって現れている、無自性(=無我)の活動体のことであり、それは分離できないひとつの存在(一心)です。
 また「箇」とは「今、ここ」という事実も指しています。だから自身の心身の働きそのものを差し置いて外側に世界を措定することはできません。自他を超えた「今、ここ」の働きすべてが無我であり、ひとつであるということです。ですが、日常の意識では、そうは感じられません。それは「マナ識」という自我意識の働きが根底にあるからです。だから自我意識としての「我」を忘じる必要があります。そのために坐禅があります。
 
 「現成公案」巻に有名な一節があります。
 
 「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするる也。自己をわするるといふは、万法に証せらるる也」
 
 この一節に即していうならば、坐禅三昧によって自己(思量)を忘じ、万法(不思量底)に証せられることが、「思量箇不思量底」の意味と取ることができます。
 ただ、自己(思量)を忘じたからといって、自己が万法(不思量底)の中に溶けて消え去ってしまうわけではありません。そのことが次の弟子の問いで示されます。

「不思量底如何思量」

 2つ目の弟子の問いですが、これもただの疑問ではありません。「如何が思量せん」と訓読みしているところは、そのまま「如何思量」と読みます。ここでも「如何」とは先の「什麼」と同じく、言葉や概念を超えた実際を表しています。特に「如」という文字が入っていますから、「如来」や「如是」などと同様に強い言葉です。つまり「如何思量」とは「如何」というしかない自己(思量)ということです。これは単なる自我意識としての我(=思量)ではありません。自我意識としての我(=思量)から、万法に証せられた自己(=如何思量)へと自己が変容していることを意味しています。
 自我意識としての我(=思量)による認識では、「我」と「世界」は必ず対立しています。しかし、万法に証せられた自己(=如何思量)にはもはや対立はありません。自己が万法であり、万法が自己であるからです。
 道元禅師はこう言っています。

「いはゆる思量箇不思量底なり。思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり。」(『正法眼蔵』「坐禅箴」巻)

 「皮肉骨髄」とは達磨さんが4人の弟子に法を伝えるときに、それぞれ自身の「皮肉骨髄」を得たと言ったという逸話から来ている言葉です。ですが、ここでは「達磨さん」とはただの歴史上の人物のことではなく、〈真の自己〉のことを表します。もちろん仏(ブッダ)と言ってもいいのですが、超越的な仏さまのような存在がいるという意味ではありません。〈真の自己〉とは、誰にでも本来備わっているブッダとしての性質、すなわち「仏性」と言ったほうがいいかと思います。つまり「皮肉骨髄」とは仏性の生きたすがたのことと言えます。
 したがって「思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり」というのは、本来、思量(自己)は仏性そのものであるし、不思量(万法)も仏性の生きたすがたそのものということです。「一切衆生悉有仏性」です。

 また「不思量底如何思量」について、こうも言っています。

「まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀兀地に思量なからんや、兀兀地の向上なにによりてか通ぜざる。賤近の愚にあらずは、兀兀地を問著する力量あるべし、思量あるべし。」(同上)

 ちょっと長いですが私訳します。

訳:ほんとうに不思量底ということは昔から言われているとしても、さらにここにあるのは「如何思量」(如何という自己)なのだ。坐禅三昧の時に思量(自己)がないことがあろうか。思量(自己)がないならば、坐禅三昧(サマーディ)のさらなる高みにどうして通じることができようか。そこいらの愚か者でないならば、坐禅三昧それ自体を問う力量があるはずだし、問う思量(自己)があるはずだ。

 問うことは参究すること、つまり仏道を学ぶことそのものです。ですが、問う主体は自我としての古い自己ではなく、万法に証せられた「如何思量」という新たな自己でなければなりません。自我が仏道を学ぶことは原理上できないのです。でもそれは自我を手放すことが仏道なのだから当然といえば当然です。
 そして薬山禅師の最後の答えが来ます。

「非思量」

 ただの「思量」でもなければ「不思量」でもなく「非思量」です。
 ですが、先ほど「思量(自己)は仏性そのものであるし、不思量(万法)も仏性の生きた姿そのものである」と書いたように、「思量」(自己)でもあり「不思量」(万法)でもあるのが「非思量」です。つまり「非思量」は仏性と言っていいと思います。仏性はブッダ(目覚めた者)の性質ですが、ここでは目覚めの意識そのものと捉えておきます。
 道元禅師はこう言っています。

「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりともいへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」(同上)

訳:薬山禅師の言われる「非思量」のはたらきは、透き通る玉のように自然に誰もが本来、親しく使っているものなのだと言えるとしても、不思量底という実相を思量(=参究)するには、必ず「非思量」を用いるのだ。

 続けて重要なことを言っています。

「非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀兀地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀兀地を挙頭するなり。兀兀地たとひ兀兀地なりとも、兀兀地いかでか兀兀地を思量せん。」(同上)

訳:「非思量」には「誰」としか言えない何ものかが在る。その「誰」としか言えない何ものかが私自身を保ち続けている。坐禅三昧のすがたは私自身であるとしても、思量(自己)のことだけではない、それは坐禅三昧それ自体を実現させているのだ。しかし坐禅三昧は坐禅三昧であるとしても、(その「誰」としか言えない自己がなければ)坐禅三昧がどうして坐禅三昧それ自体を思量(=参究)することなどできようか。

 「非思量」には「誰」としか言えない何ものかが在り、それが私自身を保ち続けているといいます。この「誰」という言葉もただの疑問ではなく、言葉や概念では語れない事実を疑問形を用いて表現したものです。
 先ほども言いましたが仏性とはブッダ(目覚めた者)の性質のことです。その目覚めの意識(=非思量)は本来、誰にでもあるはずなのですが、「マナ識」という誤った自我意識のため、それは完全に塞がってしまっています。その自我意識を坐禅により忘じることにより、おのずと「非思量」という「誰」としか言えない何ものか(=本来の面目)が現れてくる、ということでしょう。
 まあ、もちろん実際はとてもそんな簡単なものではないかもしれませんが……理屈の上ではそうなります。それを理屈ではなく実際に行じて証していくのが坐禅であり弁道です。

「非思量」=観音さま?

 ちなみに「般若心経」では観自在菩薩(観音さま)が深い深い般若波羅蜜多(智慧の三昧)に入っていたとき、五蘊(自己)がすべて空である(不思量底)と照見したとあります。これはまさに「思量箇不思量底」のことを言っています。
 ここでは観音さまが主語になっていますが、観音さまという人がどこかに存在しているわけではありません(当たり前ですが)。観音さまなどという実在しない超越的存在を持ち出しているから大乗仏教は本来の仏教ではないと言う人もいるかもしれませんが、それは超越的存在などではなく、われわれの本来の意識を象徴的に表現したものです。
 つまり、「誰」としか言えない何ものか、つまり〈本来の自己〉としての意識(=非思量)のことを「自在に観ずる菩薩」(観自在菩薩)と表現しているのです。ということは、観音さまはやはり存在するということです。
 
ですが、それはどこかのお寺のお堂や経典の中にではなく、自己の中にしか存在しません。そしてそれを感得するのは、全身心をかけた弁道(行住座臥)を通じてだということです。
 だから自己を置いて外にたのめるものなどありません。お釈迦さまが自己をよりどころとせよ、とおっしゃっているとおりです。
 どこまでも自己(思量)の問題なのだということです。

※参考文献:多川俊映著『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』(角川ソフィア文庫)

【追記】
 上記のように書きましたが、「思量箇不思量底」の解釈が一面的なのと、「如何思量」と「非思量」とが別のものであるかのような誤解が生じる書き方だったので補足したいと思います。
 あらためて「思量箇不思量底」は二通りの読み方ができます(①「箇の不思量底を思量する」②「思量は箇の不思量底である」)。
 ①が普通の意味ですが、この読み方だけだと、やはり字義上の矛盾に惑わされて、「禅は考え事ではない。ただ座れ」という思考に陥ってしまいます。ですので、まずは②の意味で考える必要があります。
 ②の「思量は箇の不思量底である」とは自己が不思量底(無常・無我)であるということですが、それには自我としての思量を忘じる必要があります。自我は身心(五蘊)を実体化された我だと錯覚する迷いの意識です。したがって、坐禅により身心脱落し、身心(五蘊)が皆空であることを自ら証することによって自我の錯覚を解かなければなりません。それが自己(思量)を忘じて万法(不思量底)に証される、つまり思量が不思量底であるということです。その不思量底である思量(自己)が「不思量底如何思量」ですが、そのときに生じた目覚めの意識が「非思量」です。なので「如何思量」と「非思量」は別のものではありません。
 その「非思量」(目覚めの意識)を用いて、不思量底(無常・無我)である自己の真相をさらに思量(=参究)していくことが①の「箇の不思量底を思量する」という意味です。「非思量」でなければ不思量底を思量することはできません。つまり、この「非思量」が道元禅師のいう「坐禅の要術」であり、薬山禅師が弟子に伝えたことだと思われます。
 坐禅とは「非思量」による自己の無窮の参究です。自分のような凡愚には想像もつかない世界ではありますが、少なくとも「胸襟無事の禅」や「本来ホトケなんだから何も考えずにただ坐れ」というようなものとは根本的に異なるということは言えると思います。

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