「自受用三昧」について

自受用三昧という言葉がある。仏が伝えてきたもの、言ってみれば仏道そのものとも言える。じゃあ、その意味は何なのかといって、いろいろ本などを読んでみても案外はっきりした説明がなかったりする。道元禅師は「弁道話」の中で、自受用三昧に遊化するには端坐参禅(坐禅)を正門とする、と言っている。では坐禅をしてみよう、となる。やり方は簡単だ。足を組んで、上体を伸ばし、手を法界定印に結び……云々。身を調えることで、息が調い、息が調うことで、おのずと心も調う……云々。どこのお寺でもだいたい同じ説明が聞ける。というか、それしか言ってくれない。あとは呼吸がどうの、頭の手放しがどうの……云々。その通りにやってみる。しかし果たしてそれだけで自受用三昧に遊化できるだろうか。道元禅師も「普勧坐禅儀」の中で細かく坐禅の仕方を説明されているが、その中で坐禅の要術(一番の勘どころ)として次の言葉を挙げている。「思量箇不思量底、不思量底如何思量、非思量(箇の不思量底を思量せよ、不思量底如何が思量せん、非思量)」。これは薬山禅師の問答に出てくる言葉の引用だが、つまり自受用三昧に遊化するためには「これをやりなさい」と言っている。ふつう坐禅というと上述したような身体の在り方の説明しかなされないことが多いが、それは準備段階のようなもので、本当の要は「思量箇不思量底、不思量底如何思量、非思量」にある。しかし肝心のこの言葉が何を意味するのか坐禅の指導の中で説明してくれる人に会ったことがない(少なくとも自分の経験上)。実際よく分からないまま坐禅をやっている人も多いのではないかと思う。自分もそうだった。じゃあ、どういう意味なのかといって調べてみても、自受用三昧の場合と同じで、どうもはっきりしない、というか納得できる説明に出会ったことがない(もちろん、ただ自分の勉強不足なだけの可能性は大いにある)。道元禅師も「普勧坐禅儀」ではなぜか説明してくれない。この言葉自体、一種の公案のようだ。ではどうするのか。答えのヒントはもちろん道元禅師の著作から探るしかないが、個人的には、この言葉に言及されている『正法眼蔵』「坐禅箴」の巻ではなく、直接には言及されていない「観音」の巻がヒントになるように思う。というより、この巻では、雲巌禅師と道吾禅師による観音さまに関する問答の引用を通して、まさに自受用三昧とは何かということが読みようによっては割とストレートに示されている。以下、雲巌禅師・道吾禅師の問答と「観音」の巻における道元禅師の解説を踏まえての自分の解釈。

雲巌「大悲菩薩、用許多手眼作麽」(大悲菩薩、許多の手眼を用いて作麽)
道吾「如人夜間背手摸枕子」(人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し)
雲厳「我会也、我会也」(我会せり、我会せり)
道吾「汝作麽生会」(汝作麽生か会せる)
雲厳「遍身是手眼」
道吾「道也太殺道、祇道得八九成」(道ふことははなはだ道へり、ただ道得すること八九成なり)
雲厳「某甲祇如此、師兄作麽生」(それがしはただかくの如し、師兄作麽生)
道吾「通身是手眼」

ざっと意訳すると、

雲巌「大悲菩薩(観世音菩薩)は無限の手眼を用いて何をしているのか」
道吾「人が夜(就寝中)暗闇で手を後ろに回して枕を探しているようなものだ」
雲厳「解った、解った」
道吾「お前はどう解ったのか」
雲厳「遍身(尽十方界=宇宙全体)が観音の手眼だ」
道吾「真理を言葉にすることは、ほとんどできている。ただ、それでも8〜9割の出来だ」
雲厳「自分としては以上だ。兄さんはどうなんだ」
道吾「通身(自己の身心)が観音の手限だ」

まず禅の問答を読むときに注意しなくてはならないのは、問答と言っても質問と答えの単純なキャッチボールではないこと。そうではなく、ある一つの真理を二人の人間が異なる側面から言葉を打ち合うことで(展事投機)、言葉にならない真理を(抽象的なやりとりに陥ることなく)リアルに浮き上がらせているのである。だから、ここでの雲巌禅師の問いはそれだけで真理を表しており、それに対する道吾禅師の返しもそのままで真理を表している。こうした真理の両面性は押さえておく必要があると思う。それは固定的ではなく力動的であり、決して二つに分かれることなく、互いに働き合いながら絶対的に一つであるという点が重要である。つまり、ここでは雲巌禅師の言葉(「大悲菩薩、用許多手眼作麽」「遍身是手眼」)は観音の働き(=法身)を表し、道吾禅師の言葉(「如人夜間背手摸枕子」「通身是手眼」)はそれを受け体現する自己(=色身)を表している。そして、それらは相互に交感することで一つの真理となっているのだ。そう、この観音(法身)と自己(色身)の感応道交こそが、まさに自受用三昧の意味するところだと思う。もう少し具体的に言うと、雲巌禅師の「大悲菩薩、用許多手眼作麽」「遍身是手眼」とは、観音の無限の働き(手眼)が宇宙全体に遍満(偏身)している、いやむしろ宇宙全体が観音の働きそのものだということを表している。そして、それを自受用している自己(私)の在り方を道吾禅師は「如人夜間背手摸枕子」「通身是手眼」という言葉で表現しているのだ。この「如人夜間背手摸枕子」という表現は一見、何だか分かりにくいが、道元禅師も「如人の人は、ひとへに譬喩の言なるべきか」とあえて問いかけているように、「如」を「〜の如し」と読まない方がいい。むしろ文全体を訓み下さず漢文のままで読んで解釈した方がスッキリする。「如人」とは「本来の面目」とか「一無位の真人」とかと同じで、いわば仏(如来)としての自己のこと。「夜間」は昼夜の夜のことではなく、本分の世界(空の世界)を表す。「背手」は「普勧坐禅儀」にも出てくる回光返照の退歩のこと。「摸枕子」は、そうして自己の仏性(観音の手眼の働き)を感得すること(枕を仏性にかける)。それが「通身是手眼」つまり自己の身心(通身)が観音の手眼だということである。こう理解すれば、それはそのまま坐禅の様子を表現していることが分かる。となると結局、道元禅師が坐禅の要術だと言った「思量箇不思量底、不思量底如何思量、非思量」も同じことを別の言葉で表現したものに過ぎないことが分かる。「思量」とはただの思考のことではなく、それも含めたこの身心(五蘊)の働き全体である自己のことであり、「不思量」とはただの思考の否定ではなく、身心(五蘊)の働きを越えた、というかその源である観音(法身)のことだ。だから「思量箇不思量底(箇の不思量底を思量する)」とは観音としての本来の自己に全身心をもって帰命することである。すると観音(法身)の方からの働きがあり、今までの「思量」としての自己は消えていく(というか薄れていく)。それが「不思量底如何思量」の意味するところだろう(ここでは「思量」は「如何思量」に変化している)。そしてこの「思量(自己)」と「不思量(観音)」の相互交感全体を「非思量」と言っているように思う。だから坐禅は「非思量の坐禅」と言われる。「驢が井を見る」「井が驢を見る」という別の問答もあるが、言っていることは同じだ。驢が「思量(自己)」で井が「不思量(観音)」。般若心経で言うなら「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」のことだが、しかし「照見五蘊皆空」つまり身心脱落底のところまで行くのは、言うは易しで、実際は大変なことである(自分はなんかはまだまだ……)。それでも坐禅を続けていくと観音さまの存在を自分の内側(もしくは背後と言った方がいいか)に確かに感じてくる。そして主体は観音さまの方で、自我意識(私)はそれに従うだけという感じになってくるのも事実である。それは坐禅時だけでなく日常生活においても同じで、その分、以前ほど自我に振り回されず、物事がクリアに見えてきたということはある(観音さまとは、観自在、つまり、あるがままに観る(照らす)ことでもある)。
自分はいわゆる信仰というものをなかなか持てなかった人間だが、今では「信」ということがよく分かるようになった。それも坐禅のおかげである。
ちなみに、浄土系の一遍上人は「他力不思議の名号は、自受用の智なり」(『一遍上人語録』)と言っている。「南無阿弥陀仏」という名号になりきって阿弥陀さまの本願力を自受用するか、坐禅の行で観音さまの手眼の働きを自受用するかの違いだけで、念仏も坐禅も(もしくは題目も)本質は変わらないと思う。やはり坐禅にしても、「信」というものが立たないと、ただの身体技法になってしまうおそれは否めない。もちろん、それでも決して悪いことではないのだが、本当に仏道としての坐禅をするなら、自受用三昧ということをよく理解しておく必要があると思う。

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