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「花」について

 仏教では仏の悟りを花で表現したりします。
 中でもやはり水面に咲く蓮の花が有名です。泥の水は煩悩うずまく衆生世界を意味しますが、そこに根を張りながらも水面に真白な花を咲かせる白蓮が象徴的です。水面に咲いた花は泥ひとつ付かない、まったく清浄そのものですが、同時に泥の世界とも離れていません。煩悩即菩提をよく表していると思います。


「春は花」

  道元禅師に有名な歌があります。

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」

 これは自然の風物を歌ったものではありません。道元禅師はよく仏道を「発心・修行・菩提・涅槃」という四つのワードで表現しますが、その仏道の全体を四季になぞらえて歌にしたものです。
 (以前の記事↓でもこの歌に関して触れましたので、ご参照いただけましたら幸いです)

 上記の歌と「発心・修行・菩提・涅槃」との関連について書いた箇所を以前の記事から引用します。

 春の時節(発心)とはまさしく菩提心が衆生の心の中に芽生え花咲く「時」であり、夏の時節(修行)とは菩提心としての真実の自己を深めていくことにより、夏鳥のホトトギスが自由に鳴き自在に空を飛ぶように自由自在の人になっていく「時」である。そして秋の時節(菩提)とは修行により深まった菩提心が秋の月のように澄んだ光として衆生に注がれる「時」である。冬の時節(涅槃)とは一面真っ白で何もない「空」そのものの世界であるが、それは、そこからまた新たな菩提心が生まれ出る永遠の母体である。そうして春がやってくる。それは文字どおり〈永遠の仏〉の運動である。

 「花」とは菩提心のことであり、菩提心が衆生の心の中で花開くこと、つまり仏道に目覚めることが「発心」(=発菩提心)です。そして菩提心が花開いていく仏道の世界を「春」と表現しています(ちなみに、宮沢賢治の詩集に『春と修羅』がありますが、彼も仏教者ですので、その「春」という言葉には同じ意味合いがあると思います)。
 
 その菩提心である「花」は、”冬の時節”、すなわち仏の完全なる寂滅(=涅槃)の世界から生まれ出たものです。

雪裏の梅花

 道元禅師の師匠である如浄禅師は、菩提心を、蓮の花よりもより身近な「梅の花」に喩えています。
 ご存じのように、梅の花はいち早く春の訪れを告げる花として日本や中国でも親しまれていますが、一面真っ白な雪景色のなか、雪の被った枝から梅の花が咲き、春がやってくる様子を、仏の悟りを表現するものとして如浄禅師は歌にしています。

「瞿曇眼睛を打失する時、雪裏の梅花只一枝なり。而今到る処荊棘と成す。却って笑う春風の繚乱として吹くことを」
(『正法眼蔵』「梅花」巻より)

 「瞿曇」とはお釈迦さんのことです。「眼睛」は目玉の意味ですが、ここでは「自己」のことを言います。つまりお釈迦さんが自己を完全に失い切った時、その完全なる寂滅(=涅槃)の中に菩提心という花が咲いたということを歌っています。「只一枝」とあるのは、そのとき世界は一枝の梅花(=ただひとつの菩提心)のみで、それ以外には何も存在していないということです。そこから世界が新たに起こり、春の風が吹き荒れます。つまり仏法が広まったということです。

「空」の花

 道元禅師は『正法眼蔵』「空華」巻で、仏法の世界を「空」という実相が花開いた世界であるという趣旨のことを述べています。
 同巻の中で、張拙秀才(石霜禅師の俗弟子)の悟道の頌を紹介しながら、頌の最後の部分(「涅槃生死是空花」)に対して次のようなコメントをしています。

「涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖弟子の所住これなり。生死は真実人体なり。この涅槃生死は、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎枝葉、花果光色、ともに空花の花開なり。空花かならず空果むすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。」(『正法眼蔵』「空華」巻)

訳:涅槃というのは、無上なる悟りのことである。そこは仏祖および仏祖の弟子が住む所である。(悟りから見たならば)生死は真実の人体(=法身)である。この涅槃・生死は、涅槃は涅槃、生死は生死の法として、それぞれ絶対のありようであるが、どちらも「空」(=実相)という花の表れである。「空」を華やかに彩る根茎枝葉、花果光色、すべてが「空」が花開いたものである。であるから、空花は必ず空果(=仏果)を結ぶし、空種(=仏種)を下ろすのだ。今、われわれが見たり聞いたりしている三界は、空花の五葉が開いたものであるから、法華経「寿量品」で「不如三界、見於三界」(三界の本当の姿は凡夫が見ているようなものではない。如来だけが実相を見ている)と説かれているとおりである。この諸法(世界)は実相である、つまりこの諸法(世界)は華相(「空」という実相の花開いた姿)なのだ。

 凡夫は世界を世法からしか見ていませんので二元性や個別性に縛られています。一方、仏法から見ると世界はすべてが「空」という絶対性・平等性の表れであるということです。ですが、それは修行という実際を離れては現れない世界であることも事実ではあります。

「地」の花

 道元禅師は「空花」を言うならば「地花」(「地華」)もあるはずだと言います。
 「『空花』という言葉は経師・論師(仏典などの研究者)でも聞いたことはあるだろうけれども、『地華』の命脈は仏祖でないならば見聞きする因縁もないだろう」と言って、石門山の慧徹禅師の問答を紹介しています。

僧が来て問う。「如何ならんか是れ山中の宝」(本当の仏道とはいったい何ですか)
師いわく「空花地より発(ひら)け、蓋国買うに門無し」(空花は地より開かれ、全大地を買うのに出入りするような門などない)

 「蓋国買うに門無し」とは、結局、本来の自己は世界(全大地)そのものであるから、迷ったり悟ったり、出たり入ったりするような門なんかは本来どこにもない、という意味だろうと思われます。それは自己のすべてが「空」であったということですが、しかし空花はあくまで「地」という具体的な自己の生きる現場(=修行)から開かれる世界なのであって、抽象観念的に「空」を捉えてはダメだということでしょう。
 空花が開かれるとき(「正当恁麼のとき」)は「従尽大地発なり、従尽大地開なり」(尽大地である自己によって発心し、尽大地である自己によって実相は開かれる)と道元禅師は言っています。つまり「空華」(=実相)は「地華」(=自己)でもあるということです。

 優婆毬多尊者の言葉らしいですが、こういう言葉があります。

「地によって倒れるものは、必ず地によって起きる。地によらずして起きることを求めては、真理を得ることはできない」

 「倒れる」とは迷うこと、「起きる」とは目覚めることですが、ただ、迷うことも目覚めることも同じ「地」(=自己)の上で行われている事実です。つまり〈今、ここ〉を具体的に生きている自己を離れては真理を得ることはできないということです。

 それを道元禅師はさらにこう言い換えています。

「地によって倒れるものは、必ず空によって起き、空によって倒れるものは、必ず地によって起きるのだ」(『正法眼蔵』「恁麼」巻)

 これは「空華」と「地華」の関係を示していると思います。

法華が法華を転ず

 最後に、法華経の「法華」についてです。
 六祖慧能禅師の言葉に「心迷法華転、心悟転法華」(心が迷えば法華に転ぜられ、心が悟るとき法華を転ず)があります。
 これは、法華経を頑張って理解しようとして苦戦していた法達さんという方が、どうしても真意がつかめないので、慧能禅師に教えを請うたときに言われた言葉です。
 慧能禅師いわく、法華経は仏知見(仏の智慧)を示すものだが、その仏知見とは法達さん、あなた自身の心のことを言っているんだよ。その心が迷えば法華経に転ぜられてしまうが、心が悟れば法華経を転じるのだ、と。「転じる」とは法輪を回すこと、つまり法(真理)を説くことですが、要するに自身の心が法華経そのものであったということです。

 道元禅師は「心迷」と「心悟」に優劣はなく、どちらも「法華」という実相の上での真実のあり方だということを言っています(『正法眼蔵』「法華転法華」巻)。
 自己が「心迷」のときは「法華」という実相に転ぜられて、つまり真の自己に促されて必死に弁道しているわけですが、自己が「心悟」のときは今度は仏祖として「法華」を転じる、つまり法を説いていく。その無窮の運動が仏道であるということを言っています。だから仏道は「法華」が「法華」を転じている世界なのだと言っています。「修証一等」や「証上の修」という言葉も、そういう意味で捉えるべきだと思います。

 衆生も仏も、ともに「法」の花の上で生きていると言えます。



 

 

 

 
 

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