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「時」について③(経歴する「有時」)

 「時」が存在であり、自己が「時」である。

 しかし、このことを頭で理解しただけでは、現代の実存哲学とあまり変わりがない。道元禅師の言う「有時」の世界は、そのような哲学的思弁によって静的にとらえられるものではなく、自らの身心による修行を通して動的に体得されていくものである。つまり「時」である自己の修行によって具体的に現成していく世界が「有時」である。したがって、それは水平性(二元的な時間・空間)の世界の話ではなく、垂直的な運動(=「時」)の世界である。

 道元禅師の言う仏道とは、二元的な時間・空間のマインドをもって行われるものではない。つまり迷いの中にいる現在の「私」が修行を積むことによって(直線的な時間軸「過去ー現在ー未来」における)未来において仏になるというようなものではない。修行の「時」も〈今〉であり、成仏の「時」も〈今〉である、すなわち、どちらも〈今〉という真実の自己の様子であるから、修行する「私」が仏である「私」に変化するというような前後の関係ではない(そのような「私」という自我は存在しない)。
 逆に言うと、現在、本当の自己に目覚めたという場合でも、修行中の自己が過去に消えてしまったわけではない。

 「三頭八臂はきのふの時なり、丈六八尺はけふの時なり。しかあれども、その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂もすなはちわが有時にて一経す、彼方にあるににたれども而今なり。丈六八尺もすなはちわが有時にて一経す、彼処にあるににたれども而今なり」(『正法眼蔵』「有時」の巻)

 七転八倒しながら修行していたのは昨日の「時」であり、真実の自己に目覚めたのは今日の「時」である。そうだとしても、その「昨日」「今日」の道理(本当の意味)は、山(「時」である真実の自己)の中に直入して、千峰万峰(「時」である真実の自己が修行という形でさまざまに現れている様子)を見渡している時節であり、修行の「時」が過ぎ去ってしまったわけではない。七転八倒しながら修行している「時」も、すなわち自身の「有時」として現成しているものであり、それは(目覚めた今日からすると)あちら側(過去)にあるようだけれども、まさしく〈今〉の事実である。真実の自己に目覚める「時」も、すなわち自身の「有時」として現成しているものであり、それは(修行中の自己からすると)向こう岸(未来)にあるようだが、まさしく〈今〉の事実である。

 なかなかややこしい話になってくるが、修行の「時」も成仏の「時」も、垂直性の世界からすると、どちらも〈今〉の事実が「有時」として現成している自己の様子なのである。したがって、お悟りになったお釈迦さまや道元禅師も〈今〉も修行中なのだと言える。だがそれは、「時」である自己(私)がまさに〈今〉修行する「時」において、お釈迦さまや道元禅師の修行(=「時」)も〈今〉現成するという意味である。それが感応道交ということである。
 このような、修行という形で無数の「時」が連なりながら躍動していく仏道の運動性を道元禅師は「経歴(きょうりゃく)」と言っている。

 「有時に経歴の功徳あり。いはゆる今日より明日へ経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日へ経歴す。今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるゆえに」(同上)

 「有時」には経歴(「時」が連なっていく)という功徳がある。言うなれば、今日の得道は明日への修行に連なり、それは同時に今日の得道が昨日の修行へと連なっていることでもあり、それは昨日の修行が今日の得道へ連なっているということである。今日という「時」は今日という「時」に連なっており、明日という「時」は明日という「時」に連なっている。経歴(連なっていく)ということはすべて「時」の功徳であるからだ、という。

 「古今の時、かさなれるにあらず、ならびつもれるにあらざれども、青原も時なり、黄檗も時なり、江西も石頭も時なり。自他すでに時なるがゆえに、修証は諸時なり。入泥入水おなじく時なり」(同上)

 古今の「時」は、重なるわけではなく、並び積もるわけでもないが、青原禅師も「時」であり、黄檗禅師も「時」であり、馬祖禅師も石頭禅師も「時」である。自他すでに「時」であるがゆえに、修証はもろもろの「時」である。入泥入水(迷える衆生のために泥水にまみれて法を伝えること)も同じく「時」である。
 
 古今の「古」とは直線的時間における過去のことではなく、垂直的世界における〈永遠〉のことであり、古今の「今」も現在という意味ではなく垂直性の〈今〉である。そこでの「時」はしたがって直線的時間や歴史のように出来事が重なったり、並び積もったりするものではない。垂直性の世界の中で、歴代の祖師たちは修証し、法を伝えてきたという。修行する自己も弟子を悟りに導く師匠も、ともに同じく「時」であり、修行も「時」であり、実証(悟り)も「時」である。それが無限の運動として連なっているのが仏道という世界である。だから歴代の祖師たちといっても、それを(直線的時間における)過去の偉人のように崇めたりするのはナンセンスだろう(そのことは、お釈迦さんは言うまでもなく、どんな宗派の祖師にも言えることだと思う)。

 「経歴といふは、風雨の東西するがごとく学しきたるべからず。尽界は不動転なるにあらず、不進退なるにあらず、経歴なり。経歴は、たとへば春のごとし。春に許多般の様子あり、これを経歴といふ」(同上)

 経歴(「時」が連なっていく)というのは、風雨が東へ移動し西へ移動するといった運動のようなものとして学んではならない。(だからといって)世界は動かないわけではなく、進んだり退いたりといったことがないわけではない。それは「時」の連なりとしての運動(=経歴)である。経歴は、たとえば春のようである。春にはさまざまな草花や生物が活動する様子があるが、これを経歴という。

 経歴という運動を時間・空間における二元的な運動(ニュートン的な物理運動)と混同してはならない。ここでの世界は垂直性の運動である。それは歴史的にものごとが動いていく水平的世界の話ではないが、決して静止的なものではなく、「時」の連なりとして躍動している世界である。
 それは春のようである、という。仏教では、春は「悟りの世界」をあらわす言葉として使われる。したがって春とは菩提心のことだと言える。つまり菩提心が衆生の中に芽生え、春に活動しだすさまざまな草花や生物のように、おのおのの在り方で成長していく様子を「春に許多般の様子あり」と言っている。そして、その春(菩提心)の様子が四季のように深まり、巡っていくのが「発心・修行・菩提・涅槃」という仏道の運動である。
 それは道元禅師の有名な歌によくあらわれている。

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」

 春の時節(発心)とはまさしく菩提心が衆生の心の中に芽生え花咲く「時」であり、夏の時節(修行)とは菩提心としての真実の自己を深めていくことにより、夏鳥のホトトギスが自由に鳴き自在に空を飛ぶように自由自在の人になっていく「時」である。そして秋の時節(菩提)とは修行により深まった菩提心が秋の月のように澄んだ光として衆生に注がれる「時」である。冬の時節(涅槃)とは一面真っ白で何もない「空」そのものの世界であるが、それは、そこからまた新たな菩提心が生まれ出る永遠の母体である。そうして春がやってくる。それは文字どおり〈永遠の仏〉の運動である。
 このような垂直性の運動が仏道(発心・修行・菩提・涅槃)であり、凡夫の生老病死する水平性の世界とは全く次元の異なるものである。
 そして誰もが本当は、その垂直性の世界を生きていることも事実である。だがそれは、その次元を自覚し身心を挙げて実践していかなければ決して現成しない世界である。


 

 

 


 


 

 
 その運動をあらわす言葉が「経歴(きょうりゃく)」である。

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