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「家」について

 今年亡くなった音楽家バート・バカラックとハル・デイヴィッドによる作品に「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム( A House is Not a Home)」という曲(ルーサー・ヴァンドロスやディオンヌ・ワーウィックが歌ったことでも有名です)があります。
 内容は「愛する人のいない家は”House”ではあっても、”Home”ではない」といった、感傷を誘うものではありますが、「”House”は”Home”ではない」という一見さりげない言葉には、世俗的な意味を超えた何とも深いものを感じてしまいます。

 仏教では「出家」といって、仏道を歩むことを「家を出ること」と表現しています。一般的に日本では「出家」というと、お坊さんになる、つまりどこかの宗派の門に入るというふうに解されます。しかし、そもそも「出る」と言いながら「入る」というのは矛盾を感じますし、お釈迦さんは別にどこかの組織のお坊さんになったわけではありません。
 お釈迦さんは確かに城から出ました。でも、それだけのことならただの家出です。では本当は「何」から出たのでしょうか。「世俗」の世界からでしょうか。でもそれではただの世捨て人にすぎません。
 そもそも仏教における「家」とはどういう意味なのでしょうか?

 仏教における「家」について述べたもので法華経の「三界火宅」という有名な譬喩があります。この中で、この世界(三界)は「火に包まれた家」であると表現されています。ざっと内容を要約すると以下のようです。

 ある日、主人の留守中、家が火事になった。しかし、家の中の子供たちは、家が火に包まれていることに気づかず、遊びに夢中になっている。それを知った主人は何とか子供たちを外に出そうと思案して、三種の車(羊車、鹿車、牛車)を与えると言う。子供たちはそれぞれお目当ての車をもらうため、喜んで家の外に出る。すると主人は、三種の車よりはるかに上等な白牛の車を皆に平等に与えた、という。

 「火」とは煩悩であり、もしくは無常という事実そのもののことです。つまり、この世界は煩悩の火に焼かれた家であり、つねに朽ちていく無常の世界だということです。そのことに気づかず遊びに夢中になっている子供たちがわれわれ(衆生)であり、家の外から子供たちに呼びかけて家から出させようとする主人が仏(本来の自己)です。
 この中に出てくる車は仏の教え(真理)を表したものです。主人が最初に与えようとした三種の車とは、声聞乗(羊車)、縁覚乗(鹿車)、菩薩乗(牛車)という三乗のことですが、実際に主人が与えた白牛の車は、一仏乗、すなわち「衆生は皆、本来は仏である」という真理だったということです。本来、仏なのだから、修行すれば誰でも成仏できる、だがそう言っても誰も信じない、だから三乗を説いて、まずは衆生を仏道に入らせるが、三乗は実は方便であり、実際はすべてが一仏乗に帰する、というのがこの譬喩の趣旨です。
 ただ、一仏乗についてはさておいて、ここで強調したいのは、主人である仏が「家」の外から呼びかけているという点です。仏は「家」の中にはいません。外にいます。「家」が火に包まれているという事実を如実に見ているので中にいないのは当然ですが、逆に言うと外にいるからこそ如実に火事が見えるとも言えます。中にいる子供たち(衆生)には実際それが見えないのです。
 
 ゴータマ・シッダールタは城を出たのち、二人の瞑想マスターの弟子になりますが、それに満足できず、仲間とともに厳しい苦行に入ります。ですが、それすらも見切って、仲間たちとも離れ、完全に独りになります。このときゴータマは何者でもなくなります。釈迦族の王子でもなければ修行者(苦行者)でもありません(親鸞的に言うならば「非僧非俗」です)。
 その後、スジャータという村娘から乳粥をもらい、体力を回復し、身を清めたゴータマは、菩提樹の下で坐禅に入ります。そして、とある明け方、悟りを開きます。そのときの言葉が以下です。

 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、ーー家屋の作者(つくりて)をさがしもとめてーー。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
 家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳(岩波文庫)


 ここで言っている「家屋」とは「三界火宅」における火に包まれた家のことであり、その「作り手」とは無明=自我のことです。自我がこの火に包まれた家(=三界)をつくり出していた張本人であったわけですが、その正体は見られてしまいました(「汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう」)。
 ではなぜ正体を見られた作り手は、もはや家屋を作ることはないのでしょうか。その正体は、そもそも存在しないものだったからです。もともと自我というのは思考がつくり出した概念にすぎないのですが、それが実体として存在するもの(「私」という個別的存在が時間・空間的に実在するもの)であるという思い込み、人類が背負い込んでしまったその根源的な錯覚が無明であり、無常の世界(火宅である三界)をつくり出した原因でした。原因である自我が実在しないということは、結果であるこの無常なる世界も実在しません。実在しないというのは、世界は衆縁和合により仮に成り立っている現象であり、有るとも無いとも言えない「空」なる存在だということですが、それは決して個別に分離できない〈ひとつ〉の活動体です。だから個別の自我など存在できません。
 
もちろん、そのことを洞察したからといって煩悩の火はなかなか消えません。その点、「心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした」と言っているお釈迦さんの悟りは、本当に徹底したものだったのだと思いますし、その境地はわれわれ凡人には想像だにできません。ただ、自我および世界の非実在性に気づくことは誰にでもできます。気づくということは「家」の外にいったん出ることであり、そのとき初めて「家」が火に包まれていることを知ります。冒頭に挙げた曲に即して言うなら、この「家」はあくまで仮の家=「House」であって、本当の「Home」ではないと実感させられます。まさに「三界は安きことなく猶お火宅の如し」(法華経「譬喩品」)です。
 
 では帰るべき「Home」はどこにあるのでしょうか? それはもちろん仮の家である「House」(火宅)の外です。ですが、それは空間的な意味での外ではありません。空間性は自我による分離=二元性に基づいています。なので、火を避けようと空間的な意味での「どこか」に逃げても、それは依然として「House」(火宅)の中なので、火はどこまでも追ってきます。また、何か立派なことをしたり、立派な何かになることで火を消そうとしても無駄です。そうした時間性に基づく行為も自我の二元性によるものなので、何をやっても「House」(火宅)の中で新たに火を起こすようなものです。

 「House」(火宅)は自我がつくった二元性の世界であり、帰るべき「Home」は非二元性の世界です。仏(真の自己)は非二元性の世界(Home)から火宅の中にいる衆生につねに呼びかけています。その呼びかけに応じ火宅を出るということは、お坊さん(聖職者)になることでも世俗を離れたユートピアを夢想することでもありません。何かになること、何かをすること、それらは時間・空間に規定された二元的行為なので、それでは一向に「Home」には帰れません。

 じゃあどうすればいいのか!? 途方に暮れます。自我のつくった火宅の中に救いはありません。自我はその存在の根拠からして最初から詰んでいます。その自我が何をやっても火宅から出られません。万策尽きました。まさに万事休す、です。もうすべてを明け渡すしかありません(どこに?)。

 本当にもうこの世界(火宅)は構造的にどうしようもないということが心の底からわかったとき、本当に(どこへだか分からないが)自我を明け渡すしかなくなったとき、そして実際、明け渡したそのとき、ようやく本当の外が見えます。
 それは、どこでもない、〈今、ここ〉です。〈今、ここ〉、それが「Home」であり、仏(真の自己)がつねに呼びかけていた場所です。よって、〈今、ここ〉は時間・空間のことではありません。〈今〉には時間が存在せず、〈ここ〉には空間はありません。なぜなら時間と空間とは、主体と客体の分離、つまり「私」と「世界」の分離を前提にしなければ成り立たない概念だからです。時間と空間がない、それが〈永遠〉であり〈ひとつ〉であり、〈今、ここ〉ということです。

 先ほど「世界とは決して個別に分離できない〈ひとつ〉の活動体である」と言いましたが、実はその分離できない〈ひとつ〉の活動の全体が、本当の自己であったということが分かります。そのことが分かると、「House」(火宅)は幻影となり、世界は「Home」となります。世界が自己だからです。分離された「私」という幻想=自我も、本来の姿であるただの概念に戻ります。もちろん幻影としての「House」(火宅)、概念としての自我は残りますが、幻影や概念にすぎないそれらが自己を苦しめることはありません。
 ただ、当然それまでのカルマによる習気は簡単には消えません(むしろ、よりはっきりしてきます)。それを浄化していくことが人生において本来やるべき唯一の仕事です。そのために幻影としての「House」(火宅)も利用されなくてはなりません(だからそれは否定されるものではありません)。必要であればその中で社会的な仕事もするし、普通に人々と交流もします(それなくして浄化も何もありえません)。そのために概念としての自我は必要です。でも、ただ、それだけのことです。



 


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