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あるソフトウェアエンジニアのベルリンでの 4 年間

(2020 年末に書き出したまま放置していたのを見つけた。2016 年に東京からドイツのベルリンに引っ越して 4 年間暮らした記録。現地での暮らしや自分の感じた(会社の)文化の違いなど他にも書きたいことは色々あるけど、そう言っていると塩漬けになってしまうので少し書き足して公開。)

2016 年

以前から一度海外で暮らしてみたいと思っており準備をしていた。OS の言語設定を英語にしたり、Meetup に定期的に参加して英語の練習をしたり、GitHub 一日一草や英語のブログなどを通じて海外からも活動を見えるようにすることに注力した。

2016 年の夏、試しに Honeypotというヨーロッパの逆求人サービスに登録してみたら、結構親身に相談に乗ってくれて助かった。フルスタックエンジニアとして登録しようとしたら、フロントエンドかバックエンドに絞った方が待遇が良くなると言われ、フロントエンドで行くことにした。もともと日本人の労働ビザが出やすかったオランダを狙っていたが、ドイツの会社から面接しないかとお声がかかり、5 回の Skype 面接の結果シニアフロントエンドエンジニアとして採用ということになった。

会社は Zalando という靴や洋服の EC サイトをヨーロッパ中に展開するドイツ有数のメガベンチャー(上場済)で、ゾゾタウンのヨーロッパ版というような感じ。調べてみたところマイクロフロントエンドやら React やら新しめの技術を普通に使っているし、面接官達の感じも良かったので、他の会社も受けずに行ってみることにした。後から考えるとこの直感は当たりで、Zalando では良い人に沢山出会えたし、他の同僚や元同僚もそう言っている。

当時はヨーロッパでテロ事件があったりと、夫婦でベルリンの治安を心配していた。知り合いのつてで何人かベルリンに住んでいる人たちを紹介してもらい、様子を聞いた。その後も時折日本人同士で集まったりと、色々お世話になった。

東京のアパートを引き払い、妻と一緒にベルリンに到着したのは 9 月末で、日がだいぶ短くなった頃。アレクサンダープラッツの北側にある会社の近くを歩き、暗くて物寂しいところに来てしまったと思った。

当時 Zalando はもの凄い勢いで採用しており、10 月に入社した月間同期が全職種合わせて 200 人、技術系だけの研修は 70-80 人もいた。その前に働いていたエムスリーでは本社社員が 200 人台だったので、規模とコスト感覚の違いに度肝を抜かれた。研修は比較的楽なもので、役所の手続きをしたり家を探す余裕を意図的に作ってあるようだった。

入社時には入るチームは決まっておらず、研修後に 3 つの部署を提示され、そこから選ぶ形式だった。偉めの人が直々に勧誘してくれた部署もあり少し迷ったが、よく考えてみるとフロントエンドエンジニア としては EC サイト本体(Fashion Store と呼ばれていた)一択だった。社内ツールの開発とはトラフィックやインパクトが段違いである。Fashion Store の中でもさらに 3 チームが募集していた。マネージャーが激推ししてくるがちょっと暗めなチーム、強そうなフロントエンドエンジニアが 3 人揃っているチーム、雰囲気が良いがフロントエンドの技術的には弱めなチーム。貢献し甲斐がありそうだし楽しいのが一番だし、もういい年だから自分が引っ張る側にならないとなと思って三つ目のチームに決めた。後から考えるとこれは大正解で、仕事の成果にも繋がったし、チームの面々とは今でも仲が良い。

最初の仕事はブラックフライデーの準備だった。ブラックフライデーというのはアメリカの感謝祭の後のセール。ドイツには感謝祭はないが、近年セールだけ取り入れたようだ。瞬間的にサイトのアクセス数が増え、サイトが落ちると大きな損失になるので EC サイト運営側としては準備が必要である。耐障害性の観点からコードを見直したり、チームの担当するサービスが落ちてもなんとかなるようフォールバックを用意したりした。

チームに入って一ヶ月くらいのころ、技術的な問題に取り組んでいて夜そろそろ家に帰ろうかなと思ったときに「言葉や場所は変われど、今もこうして技術的な問題でああだこうだ考えていて、これは日本にいた時と一緒だな。どこにいても同じなんだ。」と思ったのをよく覚えている。これでやれると思った。

ブラックフライデー当日は war room と呼ばれる専用コーナーにモニターが複数設置され、各チームの代表者が成り行きを見守ることになっていた。しかし当日起こったことは、ただの飲み会だった。ビールやらシャンプーのような容器に入ったリキュールを飲み、瞬間最大注文数に賭けたりした(ここまでだったのはこの年だけで、後は年々真面目になっていった)。

12 月は一週間の全社ハッカソンがあったのだが、特に良いネタを思いつかず、チームでシステム移行のプロトタイプを作った。そのシステム移行は難しいプロジェクトでなかなか決行されなかったと聞いていたが、ハッカソンの一週間でそれなりに動くものができた上に、イースターエッグも組み込んだ。クリスマスの前だったので、商品一覧のモデルの写真に顔認識をかけて頭の上にサンタクロースの帽子を載せて音楽を流したりした。

住んでいたのは、ベルリンに来た最初の一週間は会社の用意してくれたホテル、次の二ヶ月は会社の用意してくれた借り上げのアパート。その間に長期で住める家を探すのだが、結局いいところが見つからず Wunderflats という家具付き短期貸しのところで見つけたアパートに引っ越した。Schöneberg と Wilmersdorf の間あたりの落ち着いた住宅地。老人が多いところだった。居間はガラス張りで裏庭の木々がよく見えた。時折ベランダにリスが遊びに来て楽しかった。

会社のクリスマスパーティーではイベント会場のようなところを借り切っており、千人規模の朝までダンスパーティーに度肝を抜かれた。そういうものに行ったことがなかったので新鮮だった。

クリスマス前後は休みをとってスペインのバルセロナに旅行した。

2017 年

2016 年のハッカソンで作ったものを継続することになり、7-8 チームが関わるプロジェクトとなった。5 月ごろ、概ね計画通りに完了。これは会社としても珍しいことらしかった。新しいシステムを各国に順次展開しつつ、秋のブラックフライデーに向けてシステムの安定化を図った。

この年は一瞬だけ家探しをしようと思ったが面倒になり、短期貸しのアパートをそのまま延長した。大家さんはスイスに住んでいるのだが、そのお母さんが一つ下の階に住んでおり困ったことがあったら助けてくれた。いちど風呂場の排水管がつまってしまったのを助けてくれた時は、ポンプを凄い勢いで上下したら髪の毛が出てきて Haare, Haare(髪の毛)! と言っていたのが印象に残っている。すぐ近くにスーパーなどはあったが、休日に遊びに行くようなカフェや店がないので、電車でよくミッテやクロイツベルクなどに行った。

オフィスがミッテからフリードリヒスハインに引っ越した。昼休みに Schlesisches Tor まで歩いていくようになり、ランチどころがだいぶ改善した。

その他では BRLO というベルリンのブリュワリーであったハッカソンの賞品でビール一年分をもらった。まず半年分のクラフトビール 180 本が会社に届き、ちょっとした富豪気分。自分たちを含め社内で見つけたビールを勝手に飲む beer pirates が横行していたので、ロッカーに鍵をかけて保管しながら飲んだ。残り半年分は結局届かなかった。

2018 年

この年はついに引っ越しをした。夏頃に更新しない旨を大家に伝え、本格的に家探しをすることに。

ベルリンは需要に比べて家賃が低めに抑えられているので、家探しはなかなかのもの。就職活動のような感じだ。内覧会には何十人も集まる。申込書類一式(身分証明書、給与明細のコピーなどなど)を持って内覧に行き、良いと思ったら即座に応募する。一回一回で決まる確率は低いので、内覧会にどんどん行き、どんどん応募する。ドイツ語を話せるにこしたことはないが、安定した収入があればそれでいいというところも多いようだった。個人ではなく会社から借りるところの方がその傾向があるように思った。

友人の紹介で一旦いい物件が決まりかけたのだが、契約書にすぐにサインせずにオクトーバーフェストに行ったり、弁護士に契約書を見てもらう予約をしたりともたもたしていたら、大家になかったことにされてしまった。そしてオクトーバーフェストで左腕を負傷(オクトーバーフェストで上腕三頭筋が切れて前歯が折れた話)。アパートの内覧に行くのも難しいという状況になってしまったが、また別の友人の紹介で運良く家を見つけることができた。

仕事の面では細々とした機能追加の他に、ウェブのパフォーマンス改善と Node.js サーバーの安定性の向上に取り組んだ。それぞれ良い成果を上げることができ、社内でエキスパートとして認知されるようになったように思う。

2019 年

2018 年の末に友人から YNAB というアプリを聞き、使ってみたところ思いの他よかった。旅行しながらお金を貯めることができるようになった。

左腕が回復してきたし、二年以上ヨーロッパにいる割には思ったほど旅行ができていないと思い、毎月旅行用の予算を確保して意識的に旅行をした。毎月予算を割り振るので、半ば強制的に次の場所を考えて予約することになる。日本へ帰省した他、ハンガリー、ギリシャ、ポーランド、チェコ、ベルギー、ドイツのミュンヘン、クロアチアと、二ヶ月に一回以上のペース。

仕事の面では、社内政治がからんだシステム移行の話でごたごたしてモチベーションが低く、あまり良い成果を出すことができなかったように思う。気がついたらいつの間にか自分が古株になっており、よく知っている人が辞めることも多かった。自分もそろそろ辞めようと思い、元同僚の多いベルリンの会社を受けてオファーをもらったが、提示されたチームの仕事内容に興味が湧かず、提示額も現職と同じくらいだったので(昇給前だったので実質マイナス)お断りした。

アルコールをあまり飲まなくなり、かわりにタピオカミルクティーをよく飲むようになった。会社の近くのショッピングモールに COMEBUY という店が入っており、昼食後によく買って飲んだ。

自転車を買って乗り回したり旅行をしているうちに年が暮れた。

2020 年

1 月にスペインのグラナダに行った後は、主に転職活動をしていた。途中からコロナウイルスの影響で在宅勤務になり、さらに転職活動(というか LeetCode)に集中した。運良く転職活動はうまくいったものの、あまりに根を詰めすぎたため落ち着いた頃には少し燃え尽き気味になり、その後はのんびり過ごした。

2020 年の初めに Mozilla のレイオフがあり、Twitter で Google の Chrome 開発者用ツール(ミュンヘン)のチームが募集していた。そのスレッドでは応募したという人がたくさんリプライしており、こんなに気軽に応募する人もいるんだったら自分もと思い応募してみた。この時は結局返事がなかったのだが、Google の応募自体は非常に簡単であることがわかった。その後東京オフィスに応募してみたところ、今度はリクルーターから返事が来て受けることになった。他に数社一緒に受け、だめだったところもあればうまくいったところもあった。途中コロナウイルスが流行したこともあり、Google は面接準備と面接で三ヶ月、結果待ちとチーム探しで三ヶ月の合計半年かかった。東京にちょうどいいポジションがなくなってしまい、ドイツの隣国スイスのチューリッヒオフィスに採用された。ということでベルリンを離れることにした。

転職活動中、会社でシニアエンジニアからプリンシパルエンジニアに昇進が決まった。上司にはそろそろ辞めると言っていたのだが、部署の上層部が今後の予定に関わらず昇進させるべき人は昇進させると言ってくれたため。会社の中で昇進して行くとエンジニアはエンジニアリングマネージャーになる道と IC としてやっていく道がある。昔何かで読んだのだがマネージャーは会社の必要に応じて昇進させるが、IC は特に必要がないのでなかなか難しいらしい。辞める予定だったので複雑な気持ちだが、人生初めての昇進でもあり嬉しかった。

秋にコロナが落ち着いていた時には国内旅行に行った。ゴスラーとクワトリンブルクというドイツ中部の歴史ある街の観光と、デュッセルドルフで日本食。特に松竹という日系スーパーでハマチと鯛の刺身を買って食べたのが最高だった。

仕事としては別チームの機能の手伝いや、前年からあるシステム移行プロジェクト仕切り直しの自部署側の技術リードなどをした。システム移行プロジェクトは前年まで部署間でそれなりに揉めていたが、エンジニア間の人間関係をダメにしていなかったのが良かったと思う。Don't burn bridges だ。

もともと 11 月末にチューリッヒに引っ越す予定だったが、スイスでコロナの感染が広がるのを見て延期。ドイツから新しい仕事を始めることにした。

Zalando を退職した 11 月末にはオンラインで送別会を開いてくれ、ちょっと泣いてしまった。ギフトの一つとしてクラフトビールのアドベントカレンダーを貰い、12 月は毎日ビールを飲んだ。


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