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オクトーバーフェストで上腕三頭筋が切れて前歯が折れた話

去年の秋、ミュンヘンのオクトーバーフェストに行った。

日本でもオクトーバーフェストと名の付くものに行ったことはあった。東京では日比谷公園のものが有名だろう。その他にも各地で十月祭りという既成概念に捉われないオクトーバーフェストが開催されている。一年のうちいつでもドイツのビールを飲めばオクトーバーフェストなのだ。

本場ミュンヘンのオクトーバーフェストも九月後半から十月の頭にかけて行われる。職場の同僚 G も九月のオクトーバーフェスト初日に行こうという話を持ちかけてきた。たしか夏のことだった。彼と元同僚 V はその前の年のオクトーバーフェストに初参加し、翌年も再訪すると心に決めたという。僕もビール好きと公言している以上、ドイツに住んでいるうちに一度は行かねばと思い、別の同僚 A と共に参加を決めた。妻は酔っ払いが嫌いだからという理由で参加せず。とにかくみんな着て来るというので、迷った末にチェックのシャツ、レーダーホーゼン(革の半ズボン)、ちょっとモコモコしたハイソックスを Amazon で用意した。勤め先でも従業員割引で買えるのだが、そもそもの定価が高いものしか売っておらず、Amazon の方が安かったのだ。

ちょうどその時住んでいたアパートが十月末までの契約で、オクトーバーフェストの頃には家探しで忙しい可能性が大いにあった。ベルリンの住宅難はなかなかのもの。アパートの内覧会に何十人も参加者がいるのも珍しいことではない。そういう訳で不安だったのだが、オクトーバーフェストの直前になってみると、友人の友人がロンドンに引っ越すのでそのアパートに代わりに入居できそうということになった。これで後顧の憂いなくビールを楽しめるというものである。

前日入りするため会社を休んで金曜の早朝ベルリンを出発し、電車でミュンヘンへ。昼すぎにはミュンヘン中央駅に到着した。同僚 A と合流し、宿へ向かう。着いてみるとそこはキャンプ場だった。元々泊まるのがテントだということは聞いていた。オクトーバーフェストの時期はミュンヘンのホテルの値段は高騰し、そもそも半年、一年前から予約されているのである。一方でオクトーバーフェストの会場もテントだ。醸造所ごとのテントは、一つ一つが数千人を収容できる。僕は会場のテントと宿泊するテントをごっちゃにし、泊まる場所も大きなテントだと思っていた。ところがやってきたのはキャンプ場である。これはしまったと思った。 二十代の他の同行者と違い、こちらは三十代後半に差し掛かったところである。これから二日連続で飲み続けるというのに、果たして生き延びられるだろうか...。

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詳しいことはよく分からないが、オーストラリア人たちがその時期キャンプ場を借り受けオクトーバーフェスト客たちを泊まらせているようだ。オクトーバーフェストはまだ始まっていないのもお構いなしに昼からビールを飲みながら受付している。テントに案内してもらい、荷物を置いてから市中へ観光に出かけた。夜キャンプ場に帰ってきてみると、併設されているクラブのようなところで爆音が鳴り響き、若者たちが踊ったり酒を飲んだりしている。この人たちは明日オクトーバーフェストに行くんだろうか?考えても仕方がないので寝ることにした。

早朝起きると同僚 G の母国の友人 J がテントに到着していた。前日の夜中に到着し、G と一緒にそのクラブ的な場所に行ったそうだ。早朝から冗談を連発し、隣のテントのくしゃみや物音に反応して話しかけている。これまで見知らぬ人に話しかける人には出会ったことがあったが、見えもしない人に話しかけていく人には初めて会った。

テントの外に出てキャンプ場の隣の区画を見ると、ツアーの号令のもと何十人もの若い男女が小さなテントから出てきてレーダーホーゼンやディアンドルに着替えている。そして彼らは朝七時にツアーバスに乗り込みどこかに旅立って行った。恐らくイギリスかどこかの若者と思われる。オクトーバーフェストの開始は昼からなのに、どこに行ったのだろうか。

僕らもシャワーを浴びた後レーダーホーゼンに着替え、会場方面へ向かう。会場近くの街中で初日のパレードを見学した。醸造所のオーナー家族や従業員が馬車や牛車に乗ってパレードする。なかなかの見ものだった。

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そして会場へ移動。ホフブロイハウスのテントに到着。ちょうど市長(?)による乾杯のタイミングで前方の人混みから歓声が聞こえてきた。午前中から立ち飲みテーブルに陣取っていた元同僚 V 夫婦と合流。会場は立錐の余地もない。満員電車の中で飲んでいるかのようだ。すし詰め状態のところに、手首にプロテクターを付けたディアンドル姿のウェイトレスがビールを運んでくる。ビールジョッキは一リットル入り。それ自体も頑丈な作りなので、ビール入りで二キロ以上の重さ(米国ジョッキ持ち協会のホームページによれば 2.25 kg らしい)。それを八杯くらい持ってきてテーブルの上にドスンと置く。あとは奪い合いである。ウェイトレスに代金を押し付けジョッキを掴む。

周囲はアメリカ人ばかりだった。ウーバーのソフトウェアエンジニア。ニューヨークの若者たち。ドイツ人はどのくらいいるのか定かではない。会場ではところどころでテーブルの上に立ち一気飲みを始める猛者がいる。飲むのが遅いと周囲はプレッツェルを投げつける。オクトーバーフェスト的な音楽が流れる。一番有名なやつのサビだけ覚えて来ていた。アインプロージット、アインプロージット、デアゲミュートリッヒカイト!

あまり身動きも取れない中、とにかく持ってこられたビールを買っては飲む。雰囲気のせいか、普段飲むドイツのビールよりも美味く感じられた。J がテーブルの上に立ち一気飲み。案の定プレッツェルを投げつけられていたが、めげずに踊ったりしていた。さらに同僚 G のもう一人の母国の友人 N も到着。飲んだ。

ジョッキを三、四杯飲んだあたりで、何かの拍子に床に転倒。左肘と顔を打ったのでテントの外に出て休憩することにした。同僚 G がビールジョッキを持ってきてくれた。礼を言いジョッキを口に運ぶ。ガンと音がなり、何かが芝生の上に落ちた。ジョッキをぶつけた前歯が取れたのである。以前折れた歯だったのでまた歯医者で付けてもらえば良かったのだが、意気消沈。その日のうちにベルリンへ帰ることにした。一旦キャンプ場に荷物を取りに行く。かなり泥酔していたのでよく覚えていないが、道中地下鉄の駅でまた転倒して左肘のあたりを打った。かなり痛かったような気がする。這々の体でテントに帰って荷造りをし、ミュンヘンの中央駅へ。ベルリン行きの最終列車は逃していたため、数時間待った後、夜行列車に乗り込んだ。

列車の中でも左肘がだいぶ痛んだので、朝ベルリンに着き家で仮眠をとった後、日曜日もやっているシャリテの救急外来へ。北里柴三郎や森鴎外も学んだ歴史ある大学病院だが、後に聞いたところ経験の浅い研修医にばかり診察させるためあまり評判が良くないらしい。ともあれ割合待たずに診てもらうことができた。肘の打撲。レントゲンの結果、ひとまず骨は大丈夫とのこと。オクトーバーフェストで酔っ払って転んだと正直に言ったら、若い先生は笑っていた。後でもらった診断書にもそのまま書いてあった。ピアスと刺青をしたパンクな感じの看護師さんにギプスをつけてもらう。その後ほかの病院にも行ったが、この人が最もギプスの固定が上手かった。帰りに病院の近くのタクミナインというラーメン屋で味噌ラーメンを食す。ここがベルリンで一番旨いと思う。

ギプスをつけたので左肘がろくに動かない。次の日には左手の指が曲げることもできないくらい腫れていた。以前行ったことのある整形外科に行くと、その日は前に診てもらった B 先生はいなかったので、他の先生に診てもらったところ、二週間会社を休める診断書を出してくれた。ドイツは有給休暇と別に傷病休暇が取れるのである。一度会社に行ってみたものの、指の腫れがひどくなった気がしたので会社を休んで数日過ごしたが、腫れが一向に引かない上に左の親指に少し痺れがある。もう一回同じ整形外科に行って B 先生に受診した。ギプスは不要とのことで取ってもらい、とにかく左腕を心臓より高い位置に保つように言われた。そうしていると少しずつ腫れが引いてきたのだが、ギプスがなくても左肘が曲がらないのに驚いた。その後 MRI を撮ってもらったところ、上腕三頭筋の断裂と軽度の骨挫傷とのこと。神経も少し傷ついてはいるが切れはしなかったそうで、運が良かったと言われた。結局理学療法の診療所に通ったりしながら、肘が普通に曲がるようになるまで数ヶ月かかった。

そうこうしているうちに、もう決まったと思っていたアパートに住めなくなったと連絡をもらう。アパートの管理会社と話をしていたのだが、大家が他の入居者に決めたらしい。泣きっ面に蜂である。契約書をもらってからサインする前に借家人協会の弁護士に見てもらうからちょっと待ってくれないか、などと悠長に構えていたのがいけなかったのかもれない。後悔したが、後の祭りである。アパートの内覧会通いを再開した。怪我で会社を休んでいる手前気兼ねするが、住む場所がなくなっては仕事どころではない。左腕以外は元気なのだが、歩くと振動で肘が痛む。さらに、できるだけ左腕を心臓よりも高い位置に保たなければならない。かなり不審である。不審ながらも、以前ベルリンにいた H さんの友人で不動産仲介をしている人と出会って良くしてもらい、良いアパートに住めることになった。感謝。

さて家が決まれば引っ越しである。自力で引っ越すのは無理なので引っ越し屋を頼んだ。当日男二人が来たのだが、一人は社長で普段自分では引っ越しをやっていないらしく、重いダンボール箱に閉口していた。僕の荷物はほとんどが本なのだ。新居に行くトラックの中で片言のドイツ語で会話したところによるとモルドバ出身らしく、職場にも一人モルドバ人がいると言ったら驚いていた。そんなにレアなのか。

そんな感じで移動したのだが、左腕を使えないので新居の準備に苦労した。ベルリンの家にはいろいろなものが含まれていない。台所がついていない家も多いし、電灯はなく天井から電線が出ているだけである。イケアで電灯を買ってきて、妻につけてもらった。電灯を吊るすためのフックをつけるため、天井にドリルで穴を空ける必要がある。浴室の天井は、穴を空けようとしたところ何か硬いものに当たったらしく、ドリルの歯が折れてしまった。イケアの説明書にも浴室は専門の業者にやってもらった方がいいと書いてあったので、ちょうど別件で来ていた電気屋に頼んだ。天井の中の構造を調べて硬いところを迂回するのかなと思ったが、同じところに強力なドリルで穴を空けるだけだった。そんなこんなで新居も落ち着き、何とか 2019 年を迎えることができた。

ちなみにオクトーバフェストの日にミュンヘンに置いてきた同行者たちは、オクトーバーフェストで夜まで飲んだ後クラブに繰り出す、ということを二日連続で敢行したらしい。年の違いというよりも、違う星の下に生まれたとしか思えない。同じ北半球出身ではあるのだが。

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