見出し画像

ブータン旅行。幸せの秘訣を知りたくて

2017年10月。幸せについて考えた4泊7日のブータンひとり旅の話。

なんでブータン?

「次の休みはどこに行こう?」いつもそんなことを考えながら働いていたパンデミック前。行き先は、一人でも安全そうで、観たことがない景色が見られるところ、という基準で選ぶことが多かった。
キリスト教やイスラム教やヒンズー教の国を旅したことはあるけど、チベット仏教の国に訪れたことがなく、チベット仏教の国の景色が見てみたいなと思っていた。特に私が惹かれたのは、カラフルなチベット仏教の旗が山の上で靡いている景色だった。

行き先の第一候補、チベット仏教の総本山であるラサは、富士山並みの標高で、高山病になったとか、だどり着くまでの他人と相部屋の寝台列車が苦痛だったとか、ハードルが高そうで諦めた。
ブータンは次の候補地だった。ブータンは旅行者にガイドとドライバーが必ず同行するのが規則だから安全そうだったし、何より、GDP(国内総生産)よりもGNH(国民総幸福量)を目指し、国民の幸福度が高いと言われるブータンがどんな国なのか気になっていた。

当時、朝起きた瞬間から、「早く家に帰って寝たい。」「会社に行きたくない。」と思いながら、苛々しながら満員電車に乗って、働く毎日だった。甘いと言われるかもしれないが、仕事で大きなプレッシャーがあるわけでも、残業がすごく多いわけでもないのに、疲れていた。
周りは結婚したり出産して、独身の友達は減っていった。周りと同じように出来てない自分に対する焦りはあったが、本当に結婚がしたいのか、子供が欲しいのかも分からないし、そもそもどんな人と一緒にいると私は幸せなのかも分からなくなっていた。結婚や出産=幸せとは思わないし、お金があれば幸せというのも違う。
東京で普通の事務職のOLとして働く私は、何不自由のない暮らしをしていても、幸せを上手く実感できていないのに、日本での暮らしに比べたら、質素な暮らしをしているであろうブータンの人々の多くが幸せを感じているなら、その秘訣が知りたかった。

成田〜バンコク〜インド〜パロ

バンコクで乗り継ぎ、インド経由でパロへ。乗り継ぎではなく、インドで機内待機だった。ブータンにはインド人労働者が多いと聞いていたが、インドからパロまで、私はインドから搭乗してきた人たちに前後左右を囲まれ、彼らは私が見えないかのように私越しに大声で喋り続けていた。長時間移動のラストにキツかった。外国に行くと、本当に日本って、日本人て静かだと思う。

世界一離着陸が難しいと言われているヒマラヤの山々に囲まれたパロ空港
首都のティンプーへ向かう道沿いにあった吊り橋

首都ティンプー観光

3代目国王を記念して建てられたメモリアル・チョルテン

最初に訪れた寺院に続々とお祈りにくる人がいた。平日の午後だったからかもしれないが、祈っている人の年齢層が高いように見えて、
「信仰深いのはお年寄りの方が多いの?」とガイドさんに聞くと、
「いつ死ぬか分からないから、若いとか年取ってるとか関係ない。」

と言われた。
28歳の若いガイドのお兄さんが、こんな死生観をサラッと言えるのがすごい。もう根本から考え方が違うんだ、と衝撃を受けた。
チベット仏教がどこまでも考え方や生活に根付いているのだ、と感じた最初の言葉だった。

首都ティンプーのビッグブッダポイント。座っている仏像の中で世界一の大きさらしい。
チャンガンカ・ラカン

寺院の中だけ限らず、いたるところにあるマニ車は、回転させた数だけ、経を唱えたのと同じ徳があるとされているもの。
マニ車の説明をするガイドさんが、
「ブータン人は、自分の為に祈ることはない。必ず、家族とか友人とか大切な周囲の人の幸せを祈りながら、マニ車を回す。」と言っていた。
私だって初詣で、家族や周りの人の健康や幸せを祈ったりするが、自分のことだっていつも一緒に願っている。ブータンの人々はただ大切な人の幸せを願いマニ車を回し、そうすることで自分の心にも安らぎを得て、それが幸せに繋がっていく、という感覚なのだろう。

タシチョ・ゾン
中央政庁、国王の執務室、国会議事堂などがある政治と信仰の中心

峠を越えてプナカへ

2日目はキラという民族衣装の着付け体験から始まった。硬い生地を着物のようにぐるぐる巻きにされ、そのまま観光に連れ出された。まず、子宝御利益で有名なチミラカン寺院へ。子宝に興味がないのに、強い日差しの中、田んぼの畦道のようなところをひたすら歩いたのは苦行だったが、緑の山々は美しく、日本の田舎のような景色で、あまりにも長閑だった。

チミラカン寺院への道。

山に囲まれたブータン。移動するには毎回峠を越える。

ティンプーからプナカへ向かう途中の標高3150mのドチュラ峠。
108基の仏塔(チョルテン)
ブータンで一番美しいと言われているプナカ・ゾン

祈りを風にのせて

3日目は峠を越えてパロへ移動。この日、峠を越えている時に、
「今、4代目国王の車とすれ違ったよ」と、さらりとガイドさんが事後報告。(ちなみに今が5代目なので前国王)
カジュアルすぎる、元国王との遭遇。すれ違うときに教えてよ、と思ったが、一瞬の出来事だったのもあるし、彼らにとっては元国王とすれ違うことはそんなに珍しがることではなかったのかもしれない。どうなんだろう。

チェレラ峠で無数のルンタ(5色の旗)やダルシン(長い棒に白い旗)が風に靡く景色は圧巻だった。この景色が見たくて、ここまで来たんだ、と思った。風に靡く無数の祈りの旗は、人々の祈りを遠く、ヒマラヤ山脈や天にまで風が運ぶように建てられている。祈りの強さを感じる聖なる峠だ。そしてこの祈りもまた、自分のためのものではない。旗に込められた祈りは、誰かが誰かのために捧げた祈りだ。

ブータンの中で車で行ける最高到達点3988mのチェレラ峠

峠を降り、映画「リトル・ブッダ」のロケ地となったパロ・ゾンへ。
旅行前に観たが、チベット仏教の宗教観を知る入門として面白い作品。
ガイドさんが言った「みんないつ死ぬか分からないから」という言葉も、仏教の「諸行無常」の考え方から来ているはずだ。全てのものは移り変わる。みんないつかは死ぬ。変化しないものはないのだから、何かに執着しないで生きることが大切だとされている。

映画「リトルブッダ」のロケ地、パロゾン。
そこら中に犬が落ちていた(寝てる)

映画の他に、旅行前に読んでとても参考になったし面白かった本。

民家を訪問して、焼き石風呂(ドツォ)に入ったり、しょっぱいミルクティーを飲んだ。収納とテーブルと硬そうなベッドと椅子、ボロボロの壁。最低限のものしかない家だが、仏壇だけはカラフルで大きかった。

移動中に、日本から持ってきていたお菓子をガイドさんやドライバーさんに食べますか?と聞くと、「いらない」と言われたことがあった。日本のお菓子美味しいよ、せっかくだから食べてみたらいいのに、と思ったし、ブータンの食べ物より美味しいと思うけどな…と思って少し不思議だった。彼らにとっては、「せっかくなら食べた方がお得」とか、「今食べておかなきゃ損」とか、そんな損得感情はないのかもしれない。単純に興味がないし、単純に甘いものの気分じゃなかったのかもしれない。

「ブータンのお菓子食べるか?」と聞かれ、私がもらったのはこれだ。
味の薄いのポテチのようなもの。これに負けたの?

ブータンのお菓子

1度だけ日本語の勉強とガイドの研修で日本に行ったことがあるというガイドさんは、「日本は信号がたくさんあって、車がよく止まる」という話を、「ブータンは信号がないから、渋滞がなくて良いよ」というニュアンスで話していた。お菓子の時と同じように、彼らは卑下しないし、媚びないし、堂々としている。そして、これもきっと幸せに生きる秘訣の1つなのだと思う。私たちは、周りと比較し落ち込み幸せだと思えなくなることがあるが、ブータンの人々はありのままを受け入れる力があって、周りと比較して幸せかどうかを判断したりしないのかもしれない。

タクツァン僧院へ登山

4日目。旅のハイライトでもある断崖絶壁に建てられたタクツァン僧院まで半日かけてのトレッキング。観光客の中には、馬に乗って登山する人もいるのだが、ガイドさんによると、馬に乗るのはチベット仏教的にはNG。輪廻転生を信じるチベット仏教徒は、虫も殺さない。馬に人間が乗って、馬に苦しい思いをさせることは良いとされていないそうだ。自分の足で辿り着いたことに、尚更意味があるように感じられて嬉しかった。

登山口で待機する馬
最終日のホテル。手入れされた庭が綺麗だった。

ブータンは専用ガイドとドライバー付きじゃないと観光できないと思っていたが、最終日に突然パロの街に放たれ、お土産屋さんや市場があるストリートを街ぶらした。

欲深すぎて幸せを感じられない

たった4泊で何かが分かったとは言えないが、旅行者でありながら、そこで暮らす人々の生活にここまで宗教が根付いている感覚は初めてだった。彼らにとって宗教も祈りも特別なことではなく、食べたり寝たりお喋りしたりするのと同じような日常だ。

東京で、周りの結婚や出産に心をざわつかせ疲れていた私は、ブータンでもガイドさんにこんなことを聞いた。
「ブータンではどういう風に出会って、恋愛するの?どんな人が人気とかあるの?」

「心が合うことが一番大事。今日生きれるだけの衣食住があれば十分幸せだから。」
「デートは森か林だね。」

なんてシンプルに生きているのだろうか。
幸福度の高さは、多くを欲しがったりしないことだと思った。
私はきっと多くを欲しがりすぎている。私には、森か林以外の選択肢がありすぎるからだろうか。シンプルに考えることが出来ずにいるし、幸せを感じることも下手だ。
彼らは本当に大切なものが何かを分かっているからこそ、幸せを感じるのが上手だし、ありのままを受け入れるしなやかさがある。それはつまり強さだと思った。硬いとポキッと折れるけれど、柔軟であれば曲がるように。

新しい資本主義のヒント

最近ますます資本主義の限界や脱成長を提唱する声を聞くようになり、私はこのブータンで過ごした日々のことをよく思い出す。当時は漠然としていた「なんで私たちはこんなに恵まれているのに、幸せだと胸を張って言えないのだろう」という想いは、「資本主義社会への疑問や不安」だったのだと思う。

利益だけを追求し、環境を破壊しながら、GDPの成長だけを目指す社会で幸せを実感できずにいるのだから、国家の政策として、GNHを取り入れているブータンにはきっと幸せに生きるヒントがあるはずだ。新しい資本主義もブータンのGNHも経済的成長や発展を否定しているわけではないし、持続可能な社会と人々の幸せを増大させようとしている点で同じだからだ。

生まれた時から資本主義の恩恵にあやかっていて、そうじゃない世界を上手く想像できないが、本当に大切なものの価値を理解し、シンプルに生きる人々の生活を肌で感じ、資本主義社会を加速させる以外の方法で幸せになれたらいいなと思う。

ブータンを旅して、あの長閑な景色と、独自の宗教観を大切に生きる人々の生活が他の国に倣って近代化をしないで欲しいという気持ちと、彼らが近代化を望んでいるなら、これは外野のエゴなのかな、という気持ちがあった。しかし、この旅から数年経ち、むしろ資本主義が行き過ぎた私たちこそ、ブータンから沢山のことが学べるのかもしれない。私たちも、ブータンも、どちらもが上手くバランスを見つけられる未来が来ますように。

2022/12/08


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?