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「ゲームは人生に効く」に関するいくつかの考察

不登校の子どもとゲームの関わり

 ここで言う「ゲーム」とは、対人的なボードゲーム・カードゲームではなく、いわゆる「テレビゲーム」の類を指している。
 不登校児童生徒は、本当によくゲームをしている。「YouTube漬け」もしばしばあるが、これは一定期間を過ぎると飽きてくるのか、知らないうちに視聴時間が減るケースが多く、「ゲーム漬け」はその持続性において驚異的なものがあると思っている。

 不登校児童生徒がゲームをしている場合、これまでに出会った子どもの様子からパターンをいくつか考えてみる。まずは「①元々ゲームが好きだった子どもが学校に行かなくなってできた時間をゲームにつぎ込み始める」というパターン。そして、「②そんなにゲームする方じゃなかったのに、学校に行かなくなって突然ゲーム時間が増大する」というパターン。
 ゲームのやり方においてもパターンがある。「③特定のゲームタイトルに固執する」「④オンラインでしか知らない相手と盛んに交流したがる」などなど。
 どのパターンも、保護者の心配が膨らむという点において同様に思えるが、私はそうとも言えないと考えている。大人が適切に導けば、そこから「人生に効く」ような学びにつながる場合もある。
 今時あまり聞かないがごく少数そういう方もいるのであえて明言するが、「ゲームだから禁止・制限する」はナンセンスだ。「テストの点数が芳しくなく、スマホやゲーム機を取りあげられた」中学生の愚痴をよく聞く(大げさではなく本当によく聞くのだ)が、その制限の先に、子どもの成長も学びもない。なぜか親になると「ゲームを取りあげたからといって、ゲームしていた時間がそのまま勉強時間に置き換わるわけがない」という至極当然なことに気付けなくなるらしい。

 とはいえ、今ゲームしかしていない子どもの様子が心配だというのは、もっともなご意見である。今回示す私の考えの大枠は「ゲームが人生に効く子とそうでもない子がいる」というものである。となると、「うちの子は好き放題ゲームさせといて大丈夫なのか」の指針がほしいというのが、この記事にたどり着いた保護者の気もちなのではないか。
 そんな内なるニーズに応えるべく、何の科学的根拠もない持論ながら、一定の説得力をもたせられるよう努めて筆を進めていこうと思う。

私の人生に効いてきたゲームたち

 まず、自身のゲーム遍歴から(書き出したら楽しくなっちゃって、どうでもいいところがなのに長い…興味ない方は読み飛ばし推奨)。

 私のゲームとの接点は、思い返すと何と幼稚園時代、母方の実家にあった叔父のファミリーコンピュータから始まる。初代の「マリオブラザーズ」を父と一緒になって真剣にやった。マリオのジャンプと一緒に大きく動いてしまう父のコントローラーを持つ手の動きばかり覚えている。
 叔父の持っていたソフトラインナップはやや特殊で、その中で一番印象深いのは、「水戸黄門」である。あの国民的時代劇のゲームは、道行く悪漢を殴殺し、蕎麦屋で回復し、情報を仕入れてゲージがたまった状態で悪代官の屋敷に乗り込んでいくというもの。攻略サイトはおろか、攻略本もない(あったかもしれないが、そんなにやり込んでいたのは岐阜県内で私くらいだったかもしれない)時代に、ものすごい数のトライ&エラーを繰り返して、ようやく最初の町の悪代官を成敗した時、私はもう小学生になっていた。

 小学1年生の時、我が家にスーパーファミコンと「スーパーマリオワールド」が届いた。ノコノコの甲羅を上向きに投げる練習にかなりの時間を費やし、ようやくクッパを撃破した時の感動は忘れがたい。「マリオコレクション」では「3」と「USA」を全クリ。「2」の難易度は悪魔的だった。
 「ストリートファイター2」ではダルシムの遠距離攻撃でちまちまゲージを削り、友だちが持ってきた「マリオカート」ではレインボーロードでショートカットを試みて落下した。

 高学年~中学生になると、数々の名作RPGが私の心を鷲掴みにした。
 小学5年生の時に初代「ポケットモンスター」発売。リザードンとウツボットとオムスターをめちゃくちゃ育てた。図鑑登録150匹目はニドキング。月の石で進化するって知らなくてレベル80くらいまでニドリーノを育てた。
 ニンテンドー64では、「ゼルダの伝説時のオカリナ」をやり込む。当時実家で使っていたテレビがものすごく古くて画面全体が暗く、元々薄暗い「闇の神殿」の内部に入ると何も見えなくて詰んだ(攻略本を買ってきて地獄巡りの感覚で暗闇を進んでクリア)。ガノンドロフ強すぎて注目ボタンを押す指を痛めた。
 「ドラゴンクエスト」シリーズは「6」が思い出深い。「6」をやり込んでドラクエにハマり、現在発売しているタイトルでは10以外全てクリアした。モンスターズもめちゃくちゃやった。手書きの配合表、まだ実家のどこかにあるかも。

 もうこの辺でやめておかないと、この文章の本来の趣旨から離れすぎる。とにかく、私の人生の傍らにいつも何かしらのゲームがあり、かなりのプレイ時間になることは間違いない。
 まず、今心配を抱えている保護者の方に分かってほしいのは、このくらいゲームしていても、それなりに社会に適合して仕事をして生活している私は形成されていること。
 そして、私は今はっきりと「ゲームが人生にもたらした良きもの」を言語化できること。それは「トライ&エラーを繰り返す忍耐力」であり「勝つために必要なことを考える分析力」であり「家族や友達と共有できる思い出」であり「ストーリーに感動できる情操」であり「自分で考えて乗り越える問題解決能力」である。挙げればまだあるに違いない。

 ここで一つ、指針になる考え方が立ち上がる。それは「子ども自身がゲームをする理由」や「ゲームをして得られるものの価値」を感じているかどうか、またそれについて言語化できるほど意識的であるかどうかだ。

 「ゲームをする理由」として、中学生ならともかく、小学生の子どもが言語化できることなど限られている。だから「とにかく楽しいから」「心から大好きだから」で全く構わない。先述したような「問題解決能力などの身についたスキル」は、だいぶ後から振り返って初めて気づくものである。熱中できるものがある今が大切だ。
 問題なのは、不登校児童生徒には一定数「他にすることがないから何となく」と答える子がいる点だ。
 昨今のゲーム市場は、「いかに長くプレイしてもらえるか」「いかに毎日ログインさせるか」が勝負であることが多く、小さな「成功」「勝利」「当たり」をちりばめてある。
 不登校などにより自信を失い、著しく承認欲求が高まっていたり自己肯定感が低下していたりすると、別に好きでもないのにそうした安直に手にできる「成功」に身を寄せて自分を保とうとする。この場合、ゲームのプレイそのものに対する情熱は欠如しており、そこから何か経験的な意味で価値のあるものをつかみ取る可能性は極めて低い。早めにゲームではない別のもので、自信を回復させる方向を模索するべきだ。もちろん急に取りあげるのではなく、本人と相談して一緒に別のものを探してあげられる大人の存在が必要である。

効かせ方を一緒に考える存在

 上記により、私は「②そんなにゲームする方じゃなかったのに、学校に行かなくなって突然ゲーム時間が増大する」パターンの子については、しっかり個別に話し、少しずつ着実にゲームから引き離すべきだと思っている。もちろんやり込むうちに、本当にやりたいことになればいいのだが、なかなかそういう例には出会わない。
 では、「①元々ゲームが好きだった子どもが学校に行かなくなってできた時間をゲームにつぎ込み始める」パターンの子には、好き放題させておけばいいかというと、一概に言えないとも思う。まず、生活リズムが乱れるような場合は推奨できない。そして、保護者の方には、①の子の中にも自信を失ったことで知らず知らずのうちにゲームに対する姿勢が②のようになってしまう子がいることを知っていてもらいたい。
 不登校児童生徒から「あんなに好きだったゲームを、最近は楽しいと思わなくなった」というセリフを、これまでに複数回聞いた。大好きだった趣味は、いつの間にか承認欲求を満たすための装置に成り下がってしまう。そんなこともあるのだ。

 だから、私は「ゲームを人生に効かせる方法を一緒に考える」存在が重要だと思う。思い切りゲームに向かう気持ちを応援するのか、それともしっかり話し合って距離を置くべきと伝えるのか、本人と話して、「この付き合い方が一番いいよね」と納得感のある決定を促したい。また、「③特定のゲームタイトルに固執する」「④オンラインでしか知らない相手と盛んに交流したがる」についても、なぜ③のようになるのかその心情をしっかり聞き取ったり④で安全にオンラインコミュニケーションをしていく方法を伝えたり、ゲームに向かう気持ちを否定せずに、ゲームによるプラスの影響を残さず拾い上げられるようにする、支援者の存在はものすごく大きいと思う。
 子どもにとって、保護者がそういう存在ならば幸せなことだが、その子の親だからこそそうならない場合がほとんどだ。
 だから、親としてそういうことができないからといって、悲観的になることはない。もしお困りなら、教育のプロに外注したらいい。日本にずっと蔓延る「子育ては家庭の問題」という考えは間違いである。一人二人で抱え込めるほど、子どもの存在は小さくはない。希望と可能性でしかない子どもという存在だからこそ、抱え込まず地域全体で育てるべきだ。

 お察しの通り、これはゲームに限らない話だ。野球が好きな子どもがいる。その素振りが「ただの動作」なのか「意味のある練習」なのかを一目で見抜いて伝えられるのが、優秀なコーチではなかろうか。
 あらゆる活動について、一緒に考え、意味や意義を言語化して伝え、気付きか成長を促すことができるなら、もうそれは「人生の師」たる存在だろう。
 もちろん、私はそういうものを目指している。

我が家のゲーム観

 多様かつ多量のゲーム遍歴をもつ私とは全く逆で、妻はというと「基本的にゲーム禁止」の家庭で育った。学校での話題についていけず寂しい思いをしたことがあったという。
 言うまでもなく、ゲームもまたあらゆる楽しい活動と同様に、素晴らしいコミュニケーションツールでもある。今の10代はテレビを観ない。YouTubeでお気に入りのチャンネルがあることや、好きなゲームタイトルがあることの、同世代間コミュニケーションにおける重要度が高い。

 そんなわけで、我が家の方針は「ゲームはたしなみとして必須」というものだ。やったことがない、有名タイトルについて何も知らない、では子どもたちは子どもたちの社交界で生きていけない。
 それに子どもたちがゲームの経験から、私と同じように将来「あの時家族でハマったあれが面白かった」や「あの時めちゃくちゃやりこんだゲームからこんなことを学んだ」と、素敵な思い出や何らかの学びをつかみとるだろうという親バカな希望的観測もある。
 そして、この方針は、妻が子どもたちと積極的に共有していることに、ものすごく大きな意味があると思う。子どもたちはゲームが好きだが、ゲームの世界が全てだとも思っていない。経験すべきたくさんの楽しいことの一つとして、うまくたしなんでいると思う。そのように妻が伝えているからだ。
 子どもとの対話に消極的である必要はない。子どもも人間である。話せば分かる。話さなければ何も分からない。妻の対話力のおかげで、我が家は保たれているといつも感謝している。

「プロゲーマーになる!」と言い張る子どもに一言

 最後に、親であるがゆえに対応できないことの一つ、「自分がうかがい知らない世界に子どもが飛び込んでいくのが心配」という点に触れたい。「YouTuberになりたい」などにも言えることだが、「自分がイメージできない稼ぎ方に対しての抵抗感」は親として当然抱くものだろうと思う。

 私がゲームに熱中し始めた幼少期に、ゲームそのもので生計を立てていた人はほとんどいないと思う。高橋名人とか?
 それが昨今はゲームのプロとして大会に出場し、賞金やスポンサー料が発生する時代となった。プロゲーマーという職業は、もはや黎明期ではない。既に中学生、高校生でもそうしたお金を手にする子が現れている。
 ここでも見守る大人の手腕が試されるだろう。とにかくゲームが好きだという情熱があれば応援したい。そう感じなければ、やはり否定することなく対話しなければならない。

 私がこれまで出会った「プロゲーマーになる!」と言った子どもで、実際にそこにたどり着いた子はまだいない。正直言うと、どの子にもあまり可能性を感じなかった。なぜなら、「本当にゲームしかしていない」子ばかりだったからである。
 以前に別の記事で書いたかもしれないが、「何かのプロである」人の技量は、「その何かだけをひたすらやってきた」人よりも「多種多様な経験をその何かに昇華してきた」人の方が総じてレベルが高い。
 「賢さ」とは突き詰めると「関連付ける力」だと、私は思っている。生活の一つ一つの場面を、自分が勝負したい何かに置き換えて考え、その中でできることを実践しようとする知性がなければ、プロとしての大成はないのではないかと思う。

 だから「プロゲーマーになる!」と言った子どもには、必ず「じゃあゲーム以外で、ゲームが強くなるために頑張ることを考えてみたら」と言うのだが、それを考えて実践する子どもにまだ出会えていない。
 ほとんどの子が「何でゲーム以外のことを頑張らなきゃいけないか」を理解することをめんどくさがる。対話の舞台から降りていく。
 粘り強くその場に残り、自分の頭で考え、人生に効く方向性を決めていく、その手伝いをさせてくれたら楽しいだろうと思う。我が子の「プロゲーマーになる!」宣言があったなら、狼狽することなく「ならば」とすぐに切り返して対話してみてはどうだろうか。


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