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2023→2024 偶然の産物

2023年総括

振り返ったら、うっすらと道ができてた

 もう2023年の総括を書かなあかん時期?!
 というのが、本音である。疾風怒濤、あっという間の1年だった。これを書くにあたって、自身の2022総括を読んでみて驚いた。1年前は現在の運営状況になる前の状態で、フリースクールは午後からで、同志スタッフは4人で、フリースクールの生徒は5人くらいだった。

 「みんなの学び舎ことのは」が「地域教育の拠点/シン・フリースクール」としてどのように成長しているのか、それをつぶさに観察し、その進捗を明確に捉えられないほど、毎日はめまぐるしく、楽しくて、苦しかった。先月28日に仕事を納め、ふと振り返ってみると、一応「成長の軌跡」のようなものがあってほっとした。
 今は市内に本当に多くの「同志」と呼ぶべき方がいて、同志スタッフがいてくれるおかげで午前中からフリースクールが活動できて、そうした直接的な関わりをもってことのはを支えてくれる同志スタッフが8人もいて、児童生徒は来れる子だけ数えても15人だ。
 どの数字を見ても、おおよそ2倍になっている。数字で測れないものを提供している場所だから、あまり気にしていなかったけど、いざ言葉にしてみるとこれは嬉しい。

児童生徒数の急増で次のステージへ

 児童生徒の数が増えたことは、事業としては嬉しいことだ。ただ、増えた理由が何なのか、まだしっかりとつかめていない。不登校児童生徒は、全国的な傾向と同様にこの街でもどんどん増えている。母数が増えてそれに伴って増えたのか、色々な媒体(ラジオとか)に関わって当方の認知が上がったのか。何にせよ「フリースクールで主体的に活動する子ども」と「それを認める保護者」がこれだけいることに感動する。

 生徒数はじわじわと増えてきたわけではなく、実は急増したタイミングがあった。10月だ。市内学校には短い秋休みが設定されており、その前後での動きがとても大きかった。「毎日複数人子どもが来る」場所になったことで、実現できる活動の質や量、そして「みんなの学び舎ことのは」の場としての底力のようなものがぐっと引き上げられたように思う。

 11月の遠足、12月のクリスマス会は大きな手応えを感じる時間だった。子どもの中で「必然的な活動の場や状況」「人との関わり」「活動内における自由を保証すること」によって、こんなにも力を引き出せるものかと驚いた。
 いつも子どもは、こちらの予想を超える。他者の持ち合わせている能力、人としての力を正確につかめると思うのがおこがましいのだろう。
 だから「信じて待つ」のがいいし、「本人に決定させる」べきだし、「選択の幅を広く提示する」方がいいのだ。それが「子どもを一人の人として尊重する」ことだし、真に子どもの権利や心を守ることだと思えたし、それができてこそのフリースクールなんだと、諸々の迷いがなくなった。
 自身が大切にしている教育的な信条に、100%の自信があるわけではなかったが、いつも子どもたちが姿でそれに自信を与えてくれたと思う。

2024年を「市内不登校ゼロ」元年にする

大人が総出で取り組むべきこと

 2023年はこれまで以上にたくさんの会議に呼んでいただいた。行政もフリースクールの存在を肯定的に受け止めて、積極的に意見交換に応じてくださる姿勢がありがたい。
 たくさん出席した会議の中で特に印象に残っているのは、年末に行われた県のフリースクール連携協議会だ。全県に発信する情報を担うだけあって、その議論に的外れなものはなく、各々の先生方の提言も非常に勉強になるものばかりで有意義な時間を過ごすことができる。
 その中で、不登校特例校(学びの多様化学校という名前になるのかな)の理事長の先生が話されたことが、次に私が進む道を示した。

 「子どもの育つ空間に、画一的に押し付けるようなもの、同調圧力は必要ありません。これはね、未来を生きる子どもたちのために、大人が総出になって取り組まなきゃいけないことですよ」

新時代のマジョリティ創生

 「不登校の苦しみ」そのものが同調圧力によるものだというのが、一般にはなかなか認知されづらい。「学校は行くとか行かないとかじゃなくて、行くべきもの」というのは一つの価値観として定着し、その価値観をもっている人がまだまだ圧倒的に多数であり、質が悪いことにマジョリティの側にいる人間は、それこそが同調圧力だなんて露ほども感じないものだ。

 学校から足が遠のいた子どもは、同調圧力のうちに苦しむ。誰が何を言わなくても「きっと親は怒っている」「世間も自分のことを変だと思っている」「大多数が行っている場所に自分が行けないのはおかしいんじゃないか」と勝手に思い出すのだ。
 「そんなことないよ」と伝えても、信じられる材料に乏しいのが現在だ。だったら、信じられる材料だらけの街づくりをしたい。それが2024年現在、考えていることだ。勝手に「羽島市内不登校ゼロ元年」を発表する。

 何度でも、いくらでも繰り返して言おう。
 学び続ける必要はあるが、学校に行かなければいけないのではない。
 学べる場所ならば、学校でなくてもいい。
 学ぶ場所が学校だけであるわけがない。
 それが新時代の価値観として、マジョリティとして定着させていくことを、これからの私の仕事としたい。これからしばらくこのことに集中していいくらい、重要な仕事になると思っている。
 私はずっとこの土地に住んでいるからこそ、ものすごく保守的なこの土地を変えていく難しさも理解しているつもりだ。だからこそ、この場所から変わっていくのは本当にすごいこととして世の中に伝わり、全国的にマジョリティが入れ替わるムーヴメントになるかもしれないとも思っている。

不登校ゼロは実現する

 現在の不登校の定義は、「年間30日以上の欠席」という指標で数えられており、その数はいよいよ30万人目前である。
 欠席というのは、「学校に来ていない」というだけの意味であり、「学んでいない」という意味ではない。もし、その子が学校には行かないが家で自分でできる勉強をしているのだとしたら、そんなに大きな問題ではないはずだ。さっき言ったばかりだが、何度でも言うが、「学校に行かない」は全く問題ではなく、「全く学んでいない」が大問題なのだ。

 私が実現したいのは、「全員が学校に行っているわけではないが、全員がどこかで何かしら学んでいる」という状況である。先述の定義の意味では不登校ゼロの実現は難しいが、もう「学校における不登校ゼロ」にこだわる理由がないと思う。
 「学ぶ場所の多様化」「関わる大人の多様化」「学び方の多様化」を繰り返し模索していけば、全ての子どもが学びにつながることはできると思っているし、実現に向けて本腰を入れていく価値があることだと思う。簡単に書いてしまったが、ものすごく難しいことだ。これが実現してしまったら、もう不登校ゼロってことでいいんじゃないでしょうか、文科省の方。

教育の成功が「偶然の産物」ではいけない

 公立学校は「公平性」を担保しようと必死になるところがある。
 学校に通う側からすれば、同じ学年なのに、同じ学校なのに、同じ市内なのに、教育活動の内容が違っていたりその結果別の子が楽しそうでうちの子がつまらなそうだったりと「差」がはっきりしてしまうのは、あまり面白いことではないのは分かる。
 でも、本当に完璧な「公平性」が保てると信じている人がいるとしたら、その人は冷静に物事を考える力が欠如していると思う。関わる先生も違う、住んでいる地域も違うのに、全く同じように学びが用意できるわけがない。

 だから、現在の画一的な在り方の中で「成功事例」のようなものを探すのは、意味がないことのように思うのだ。もちろんスキルのある先生やよい実践を積み重ねている地域があるのも分かるが、そういう出会いに恵まれるかどうかは偶然で、教育の成功に見えているものもある意味では「偶然の産物」なのではないか。その先生だからできた。その地域だからできた。そこにたまたまうちの子が通ってたから成功に見えるだけだ。「公平性」を求める人はたいていその場にいない。そして「何で同じようにできないんだ」とか言って怒り出す。そんなんでいいのだろうか。

 私はそこにも、不登校の苦しみを生む同調圧力と同じように、価値観の大転換が必要だと思っている。その先生だからできる、その地域だからできる学びを、その「偶発性」をもっと楽しんでみるべきではないだろうか。
 全く同じになんか絶対にできないのだから、その地域の中に偶然揃っていた最高の素材で、その時たまたまいた大人と一緒に、それぞれの子どもが感じるままに学んでいけばいいのではないだろうか。
 「偶発性を楽しむ教育活動を、市内のいくつもの場所に用意して、それを子どもたちが主体的に選び取って学ぶ」という状況を作ることは、必然性をもってできることだ。その状況をどの子もが選べることこそが、真の公平性を担保していることになるのではないだろうか。

 「必然的に教育を成功させる」この実現には、先述のような価値観の大転換を呼び起こしていく活動を継続していくしかないと考えている。時間も手間もかかるし、すぐには結果が出なさそうだ。しかし、自分でも捉え切れていない壮大なテーマだからこそ、人生をかけて挑戦していく価値があると思う。
 今日が2024年の仕事初め。今日は探究型学習塾の生徒とだけだが、やはり子どもとも学びの時間は楽しい。それぞれの子が、それぞれの発想や考えをもって過ごしていく時間を共にするのは尊い。多くの大人にもこの楽しさや尊さを知ってほしいし、そこに価値を感じる子どもが大人になってほしい。

 毎年決意をもって書いている書き初め、今年は「謹厳実直」とした。
 今年を不登校ゼロ元年にするべく、その足場を確たるものにするために、慎み深く実直に真面目に、一日一日を大切に過ごしたいと考えている。

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