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【小説】朝、出かける準備をするだけでも。

※ウツと診断された登場人物が出てきます。症状に関する描写があるので、気になる方は読むのをお控えください。


朝、今日は出社できるかも、とヨウコは枕元のスマホを開く。目覚ましより、少し早い。

目覚ましを少し過ぎただけで、起きる気力が無くなった日もあった。今日はまだマシだ。

ひんやりした空気。

上着をひっかけ、洗面所に向かう。いつからか、顔を洗う時、手で水をすくうのではなく、両方の手のひらを濡らして、顔をスッキリするまでなでるようになった。

また少し手を濡らして、顔をなでて。
水をすくうと洗面所の床がびしゃびしゃになるので、嫌なのだ。


ほんのり、頭がスースーする。貧血だ。血圧を上げる薬を飲む。

心療内科に通うようになってから、ますます、ペットボトルや水筒を部屋に置いておくことが増えた。

薬を飲みたくても、水が手元にないと、(まあいいや…)と後回しにして、しんどくなってしまうことが時々あった。そういうことは、避けたかった。


貧血気味ではあるけれど、気分はまだいい。絡まった髪をとかして、のろのろと化粧をし、日焼け対策のスプレーをふって、着がえる。

テンションが上がる服じゃないと、出かける気にならなくなったのは、社会人になってからだろうか。

最低限の清潔さを保ちつつ、ちょこっとフリルが付いていたりなど、遊び心のある服が好きだ。

薄手の長袖ニットとマーメイドスカートを合わせ、軽めの、けれど温かいアウターを羽織る。

朝は冷えていても、退社時は日差しで暑かったりするから、体温調節がしやすい服じゃないと。

以前から、暑がりで寒がりだったけれど、余計敏感になってきたのは、やはり病気になってきてからだよな。


朝は肌寒い。キッチンに移動して冷蔵庫を開ける。母が夜なべして作った弁当が、冷やされている。

家族は寝静まっていて、遠くで母のアラームが3周くらい鳴っているのが聞こえてくる。

ヤカンでお湯を沸かしている間に、ミニバックの方に箸や保冷剤を詰めていく。水筒にお湯をいれ、猫舌でも飲める程度に水を足す。

玄関の戸棚に閉まってある、マスクとカイロをカバンにいれてスニーカーを履く。

ヨウコは軽く深呼吸して、玄関のドアを開けた。


チラリとスマホで時間を確認する。少し余裕はあるけれど、走らないと、間に合わないかも。そんな労力は使いたくない。

自転車のカゴに荷物を入れる。早くしなきゃ、など考える必要がないのはいい。徒歩なら10分はかからないところを、さらにサクサク進んでいく。

目の前を横切る、白と黒のまだらの猫。電柱の上で鳴くカラス。スポーツウェアを着てランニングしているおじさん。小走りで駅に向かうサラリーマン。

そんな景色を眺めているうちに駅に着く。自転車置き場の機械に自転車をセットしていると、海苔の佃煮のビンが、自転車置き場に転がっているのが目に付いた。なぜ。

屋根もないところだし、周りは住宅に囲まれている。どこからか転がってきたのかしら。深く考えている暇はない。


改札を抜けて、ベンチに腰かける。ここは限りなく田舎な郊外だが、最近ヨーロッパ系の男性とホームで一緒になることが増えた。

いつも知らない言葉で、大きな声で電話をしているが、たった一つ分かることといえば、それが本当は独り言だということだけだ。

声の調子が独り言のソレだ。電話の向こう側の相手が、何か話しているような間が、全くない。


自販機に目をやる。ホットの飲料が増えてきた。もう、100円の飲み物は無く、水でさえ120円もする。鶏ガラとショウガのスープが気になるが、電車がもう来たので諦めた。

一番安い水を買う人と、自販機で水を買うなんてなんか腹が立つ、っていう二種類の人間がいる気がする。

三種目は、(いや、弊社はフリードリンクなんで、基本自販機使いませんね。)とか言っちゃう腹立つビジネスパーソンだろうか。

この時間は、座れる確率が高い。座席に腰かけ、スマホで英語のラジオを聞く。何言ってるか分かんねえ。けれど何回か聞くと少しずつ聞き取れるから、不思議だ。

ワイヤレスのイヤホンは絶対失くす自信しかないから、未だに有線をつかっている。…有線って表現で合っているのだろうか。


いつの間にかヨーロッパのニュースからアジアの話題に切り替わったころ、ふと、嫌な予感がした。

貧血が、酷くなってきている。

はあ?マジかよ、いみふ。などと思っているヒマはない。

聞いてて疲れるニュースから、頭を使わないカフェミュージックに切り替え、温かいお湯を飲む。飲み込んでから、今はどうやら何も胃に入れたくないらしいと気づく。

すっかり気持ちは憂うつだ。梶井基次郎なら、「何という呪われたことか」と口走るところ。

Uターンするにも、目的の駅と終点の方が、最寄りより近い。終点まで行ってUターンした方が早く帰宅できる。

そう、もうすっかり、出社する気は失せてしまった。

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