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【小説】蝉しぐれ。

プールの次の授業が古文というのは、どうかしている。案の定、クラスの半数は寝こけていて、その他の人も普段ほどは集中できず、ゆるんだ空気が流れている。

初夏は好きだ。まださほど蒸し暑くなく、風が心地よい。ほんの少し湿った、新緑の空気をはこんでくる。木陰にすわって、本を読みながらまどろむのなんて、最高に違いない。

朱里はふと窓辺に目をやった。学は窓ぎわの、前から三番目の席。頬づえをついて、窓のそとを眺めている。彼のそばの窓はすこし開いていて、カーテンが静かにゆれている。微かだが、セミの鳴き声も聞こえてきた。

夏になると、学はいっそう、心ここにあらずに見える。昔は、小学生のころなんか、彼もふつうのハツラツとした少年で、一緒に公園であそんだり、かけっこなどしたものだった。

けれど、彼はもの静かというか、明るさに満ちあふれていた子どもでは無くなってしまった。

別に陰気になったとか、そこまで言うつもりはない。単に、年相応の高校生になったという見方もできるかもしれない。 

学はいつの間にか大人びて、他学年にも噂されるような、端正な顔立ちになっていた。運動も得意で、社交性も持ち合わせている。

けれどふとした瞬間に、彼はここではない、まったく違うどこかを見つめるような、そんな面持ちを見せるのだった。

そろそろ授業に集中していないことがバレないよう、彼を見つめるのは程々にして、私は教科書に目をおとした。


そう、昔は学とセミ取りなどしたものだった。小学校がいっしょで、比較的近所だったこともあり、よく遊ぶ仲だった。

ままごとにも付き合ってもらっていたが、夏はセミの鳴き声が聞こえてくると、彼はソワソワしてしまって、結局学に連れられて出かけるのがお決まりだった。

いつから、私たちは一緒に過ごさなくなってしまったのだろう。小学校高学年にはもう、クラスも変わって、やり取りする機会もほぼなかった。そういったきっかけで、話さなくなってしまったのだろうか。

私たちが再び出会ったのは、ちょうど今年、同じクラスになってからだった。高校生になるまで、6年ほど同じクラスにならなかったことになる。この4月、久々に教室で出会ったとき、すぐに彼だとは気づかなかった。

名前を知ってから、もしかして、と思ったころには、この好青年の噂はすでに広まっていて、うかつに近づくのは得策ではなかった。

うちは郊外の、といっても山手の田舎に近い中高一貫校で、私は中等部から、彼は高等部から入学したことになる。突如あらわれた彼に、同級生たちが色めきたつのを、複雑な面持ちでながめるしかなかった。

たまに、彼が校舎裏に呼び出されているのを見かける。今のところ立ち向かった乙女たちは玉砕つづきで、他校に恋人がいるのでは、とも噂されている。

彼はスポーツも万能で、それを聞きつけた各種運動部に勧誘されていた時期もあった。

けれどそれらは穏便に断って、読書部に入部したものだから、他の女子もそこに殺到した。読書部発足以来の入部試験が行われたらしい。客寄せパンダの学は試験免除され、落ちついて活動できる最低人数に絞られたそうだ。

案の定、学を目当てにして入部した部員と、純粋に読書を楽しみたい部員との間でいざこざが起こっているらしい。当人はというと、どちらともそつなく良好な関係を保っているときているから、したたかなものである。

私はというと、そういったことになるのは目に見えていたので、引き続き美術部に所属した。

美術はいい。個人で作品をつくるから必要以上の団体行動は不要だし、休憩がてらマンガや雑誌を読んだり、お菓子をつまんでも、先生だっておおらかだから、とがめられることもない。

美術展の締め切りが近づくと、さすがに少しはピリピリするが、それ以外はいつ部活に来ようが帰ろうが、誰もお構いなしだ。

気の合う仲間もでき、一緒に行動することもあるけれど、個人の行動を大切にしているから、しばらく一緒に帰ることが無くても、そこまで気まずくならない。


その日の放課後も、私は切りの良いところまで作品に取りかかり、ひとり先に下校することにした。校門にさしかかると、久々に香苗と出くわした。

香苗は中等部から読書部で、例のいざこざの被害者だ。聞くところによると、読書部も欠席にはおおらかなので、学がいる日はグループワーク制にして、取り巻きたちと彼をくっつける。彼が休みの日は取り巻きも来ないということで、何とか平穏に日々を送っているらしい。

「高橋君自身に問題はないんだけどね」

香苗は肩をすくめる。まあ落ち着いてきたなら何よりである。

私たちはコンビニでアイスを食べながら、途中で別れた。

高等部に急に入学して、ちょっとした波乱をおこすだなんて。

わが校は家から近い。この辺りは他に中学校はあるけれど、高校となると、一番近いのは我が校になる。学も近所の公立中学から進学してきた口だ。

けれどうちの学校は中等部より高等部の入学試験の方がレベルが高い。高等部から入るくらいなら、中等部から入学してもいいものなのに。

彼の家にお邪魔したこともあるので、なんとなくの家庭環境もぼんやり覚えている。整理された室内に、アンティーク調の家具。彼の母が使っていたピアノもあったと思う。

そこから推測するに、中等部から入学したとしても、なんら生活には響かないはずだ。

となると学力の問題だろうか。彼の小学生のころの成績はいまいち思い出せないが、中学が別ということは、いたって普通の成績だったのだろう。

となると、中学の間に成績が急激にのびて、うちの高校に入学してきたことになる。この前の定期試験の成績も、上位の方だったらしい。

しかし、校内で上位なら、もっと別の高校も狙えたはずだ。電車で通う必要があるが、うちよりも有名で少し偏差値の高い高校がある。そちらの方が大学の推薦枠も豊富だろうし、メリットも多かったはずだ。

まあ考えても仕方がない。再会できてラッキー、くらいに思っておくのがいいのだろう。ただ彼の人気を見るに、接点を増やそうとすればリスクがともなう。そういった高望みはしないでおこう。


なんて考えていると、ふと見覚えのある人影が雑木林の中から出てきた。この地域は郊外とはいっても田舎寄りで、田んぼや畑もあり、雑木林もチラホラ残っている。その人影は、まぎれもなく学だった。

彼は私には気づかず、軽い足取りで家路に向かっていく。声をかけようか。今なら他の生徒もまわりにいない。髪を手ぐしで整えて、呼吸を落ちつかせる。

「ねえ」

思い切ってみた。

「お疲れ」

彼はバッとふり返り、ばつが悪そうにしていた。

「おう、お疲れ」

「久しぶりだね、話すの」

「確かに。今日は部活?」

「うん、学も?」

苗字で呼ぶか、少し迷ったが、今後も苗字で呼ぶことになるリスクを考えて、それは避けた。

「まあそんなとこ」

さっきの表情を見るに、雑木林から出てきたことには口出ししない方がよさそう。

「学校には慣れた?」

「まあまあ、朱里は中学から通ってるんだっけ?」

朱里と呼んでくれたことに安堵する。私のことも、少しは知っていてくれていたらしい。

「うん、学も中学から入ってもよかったのに」

「まあね、部活はどう?」

彼の今までの進路に関して、話をそらされたのは気のせいだろうか。

「楽しいよ、自由にやれてるし。今粘土こねてる」

「粘土?美術部ってこと?水彩や油絵だけじゃないんだ。皿でも焼くの?」

「いや、動物の焼き物でもつくろうと思ってて…。学は読書部なんだっけ、今何読んでるの?」

私の部活までは把握してなかったんだ。落胆がバレないよう、彼の話題に移行する。

「夏目漱石の『こころ』を読んでるよ、漱石にしては読みやすい。「吾輩は猫である」は長すぎて、とちゅうで離脱しちゃったんだよな」

「あー私も!なんだろう、近所の猫と仲良くなるシーンとかがあったのは覚えてるんだけど。てゆうか『こころ』、二学期ぐらいに授業でやらない?先取りじゃん」

「あ、教科書、授業範囲より先も読むタイプなんだね。本が好きな人って、そういう人多いよね。それなら読書部、入ればよかったのに」

「それは…」

と言いかけて、

「あ、じゃあここで」

と、分かれ道になってしまった。返答しにくい内容だったから、少し助かった。けれども話し足りない。彼の背中を見ながら、あきらめて家路につく。

けれど、彼の部活帰りの時間と被れば、こうして一緒に帰ることができることが分かったのは収穫だった。

ここら辺は近所とはいえ生徒と遭遇する確率は極めて低い。話も合わせられたし、仲を深めることはそこまで難しくないのかも。

そこまでほくそ笑んで、ふと香苗との会話に「今日彼が部活に来た」という情報がなかったことを思い出した。

とすると、教室にいつまで残っていたかはわからないけれど、それ以外の時間は、あの雑木林の中で過ごしていたことになる。

好奇心から、雑木林まで引き返そうとしたが、歩くのに微妙に距離がある。今日はもう疲れているし、明日部活に行かずにのぞいてみようか。その日はおとなしく帰宅することにした。


つぎの日の下校時刻、学はそそくさと帰宅の用意をして帰ろうとする。クラスの女子がお茶に誘うも、角が立たぬよう断って、教室を出ていった。私も少し間をおいて帰ることにした。

部活によらずに帰ると、まだ日が昇っている時間帯なので日差しがキツイ。学に足取りがバレるのを避けて下校したので、堂々と日傘をさす。

しばらくして、あの雑木林にたどり着いた。うっそうとした、子どもが立ち入ったら叱られるような場所だ。どことなく嫌な予感がするのは、この雰囲気のせいだろうか。

学がなんどか足を踏み入れているからか、けもの道のようなものができている。虫よけスプレーを持ってきた方がよかったかなとは思ったが、足を踏み入れることにした。

中は木々が茂っていて、枝が邪魔で、少しかがまないと通れないところもあった。夏にしては落ち葉があって、踏みしめた跡がある。思った以上に森は奥深く、まだ学のいるところにはたどり着けない。

枝をくぐっているうちに、ふと、私は昔ここにきたことがあるのだ、ということを思い出した。いつ頃だろうか、こんな森の中だから、学と虫取りをする時くらいじゃないと、立ち入らなそうなものだけれど。

少しして、薄暗くなっている場所にたどり着いた。けもの道はその先に続いている。この先以外に彼がいる気配はないし、仕方なくすすみ続けた。

昼間なので木漏れ日は差している。確かにここに来るには、夕方以降では危ないだろう。

どれくらい歩いただろうか。ふと、話し声が聞こえてきた。学の声だ。内容までは聞き取れないが、間違いない。そしてもうひとり、女性らしき声も聞こえてきた。

なんということか。こんなうっそうとしたところで逢引きなんて。彼の秘密の場所を知れたかもと期待していた自分が、ばかばかしくなる。

ここまで来たのだ、ひとつ相手の顔を拝んで帰らないと気が済まない。できるだけ音をたてないように近づき、様子をうかがう。

まだふたりの姿は見えないが、学のほうが、女性よりもはしゃいでいるというか、楽しそうにしているのが伝わる。女性は彼の話を、うん、うんと、ほほ笑みながら耳を傾けているようだ。

薄暗い場所が続いていたが、急に光が差す場所が現れた。大きな木が生えていて、その木の周りだけすこし空間があって、離れたところに他の木々が生えている。風通しがいいのか、心地よい空気が流れてくる。

その大きな木の幹の下の方に、太い枝が生えていて、そこに学と女性が腰かけていた。

彼女は白いワンピースに麦わら帽子といった出で立ちだった。オリーブブラウンというか、亜麻色の髪が肩まであって、肌は透き通るような白、清楚な、深窓の令嬢がお忍びでやってきたかのようだった。

そのとき、彼女を見た瞬間、急に過去の記憶が、ありありとよみがえってきた。血の気が引くのを感じる。私は彼らが気づかないところまでそっと離れた後、急いで雑木林を抜け出した。


雑木林を駆け抜けながら、過去の記憶が、脳裏に鮮やかに映し出された。私は昔、これと同じ光景を、ここで目撃したのだ。

セミ取りに夢中になってはぐれた学を探して、たどり着いたのがあの場所だった。

そして彼は当時も、あの女性と楽しそうに過ごしていたのだ。今と、全く変わらない年恰好の彼女と。

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