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自然体で自らを活かして生きる

執着は望みを遠ざけるが、自然体であれば望みを近づける。

執着するということは濁りを生じさせることであり、抵抗を生むことになる。

一つのことに執着すればするほど、そこに濁りという抵抗を生み出すことになり、自分の望みを遠ざけてしまうことになる。

その一方で、今とひとつになり自然体でリラックスして生きていれば、そこに濁りという抵抗を生むことはなく、自分の思いをそのまま実現できるようになるだろう。

自然体であるということは、純粋であるということだ。

今この瞬間とひとつになり快く動いていけば、人は純粋さを保つことができる。

純粋さの中に力みはない。

執着は、肩に力を入れる。

肩に力が入るということは、余計な力が入っているということ。

余計な力は流れを悪くするものであり、それが抵抗となる。

今に生きれば純粋になる。

過去や未来に生きれば、それが執着となる。

今とひとつとなり自然体を保って心地よく過ごせるようになれば、余分な力を使うことなく流れに身を任せて生きていけるようになるだろう。

行雲流水。

空をゆく雲も、川を流れる水も何ひとつ力んでいない。

もちろん、雲や水だけではない。

自然の現象には何ひとつ力みは存在しない。

自然体で目の前のことに快く取り組み、事に従って行動する。

自然が常に今にあるように、我々も今この瞬間を自然に生きれば、大いなる自然のひとつとして自分を活かすことができるようになるだろう。

我々の真の望みは、この人生を自分を活かして生きること。

日々、自然体で生きることができれば、それだけで自分を活かせるようになり、生まれ持った真の望みを叶えながら生きていけるようになるだろう。

自然な思いに執着は存在しない。

自然であれば、自然な思いが生れるものである。

好きという思いは自然発生的に生まれるものだ。

執着は、小さな自分が生み出す小さな望みに過ぎない。

しかし、自然な自分であれば「大いなる内なる自分」とひとつになることができる。

大いなる内なる自分とひとつになれば、この宇宙の自然の一部となって、自分を活かしながら悠然と生きていけるようになるだろう。

自然であれば、内なる自分の声を聴けるようになる。

内なる自分の声は、この私を活かそうとする声なのだ。

我々は、元来、自然の一部である。

私の中には、内なる自然が存在している。

我々が内なる自分の自然に気づき、内なる自分とひとつとなって自然な存在として生きれば、真の望みを叶えながら生きていけるようになるだろう。

自らを然として統合された真我で生きるとき、大いなる流れとひとつになって生きることができる。

今この瞬間に心を開き今とともに生きれば、人は誰でもやすらかな自分で生きられるようになる。

泰然自若。

やすらかな自分で然として生きるとき、動じることなく落ち着きの中で生きていける。

どんなときでも落ち着いて慌てることなく泰然と過ごせば、自らを若くして生きられることだろう。

余分な力を入れることなく自然な自分で生きれば、それが人を若々しくさせるのだ。

内なる然と外の然。

このふたつを常に感じて生きれば、今この瞬間を若々しく自然とひとつとなって生きていける。

それが我々の本然でもある。

無為自然。

これここに在り、これ然り。

内なる然と外の然、二つの然の目的は同じであり、これらの然を知るとき、人は無為となって今を生きるようになる。

有為は執着を生む。

しかし、内なる然と外の然が互いに同じ目的を持って存在していることを知って生きれば、我々は無為のまま踊るように生きていけるようになるだろう。

愛、調和、喜び、平和、自由。

内なる然と外の然は、これらのことと一致する。

この宇宙の本然を知って無為に生きれば、力むことなく自然の流れに沿いながら事を成すことができるだろう。

今に心を開き無為となる。

目の前の対象とひとつになって生きていく。

自分の自然で存在するとき、流れ行く水雲の如く泰然自若、無為自然で生きていける。

そうなるためにも、まずは自分を寛がせる。

自分に寛ぎ緩やかな気持ちになれば、我々は、瞬く間に自然に還ることができる。

内なる自然に気づき、この地球の、この宇宙の自然とひとつになって生きるとき、我々は無為で自分を活かして生きられる。

行雲流水、泰然自若、無為自然、これらの言葉に力みは存在しない。

我々の中にある力みを消し去り、今とひとつになって自然を生きるとき自分を活かせるようになるだろう。

肩の力を抜いて深呼吸。

今を見つめ今ここにある内なる自然とひとつになれば、大いなる流れに乗ることは自然なことなのである。





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