第63回:「喜び」は多様性と発見力
今回は、「喜び」は多様性と発見力ということを書いていきます。
どういうことかというと、「喜び」は多様性のある社会だからこそ体験できることであり、そういった多様性の世の中で生きるには自分にとっての「喜び」を発見する力が必要になってくるということです。
私たち日本人は、他の国と比べても多様性のある社会であるといっていいでしょう。というのも、現在の私たちは選択する自由を持っているからであり、国として決まった主義や宗教があるわけでもないという点にあります。
また、生活レベルも一様に安定していて、現在は、多くの人が自分の意思でたくさんある選択肢の中からやりたいことを選択できる社会といっていいでしょう。
しかし、こういった多様性の社会では、選択肢がたくさんある分、自分にとって適したことを見つけることが大変だったりするものです。
また、人生を楽しんで生きられるようになるには、自分を活かしていく方法を十分に知る必要があるといっていいでしょう。
多様性には強さがある
私が、今回、なぜこういったことを書くかというと、以前、豊かな森の生態系についての記事を書いたことがあったからであり、そういった世界の多様性には「喜び」の要素がたくさんあると感じたからです。
たとえば、豊かな森にはたくさんの種類の樹があるものであり、そういった森にある川にはたくさんの魚がいたりします。
日本の里山には、コナラ、クヌギ、ミズナラ、ケヤキなどの落葉広葉樹、シイ・カシ類などの常緑広葉樹、柿や竹などさまざまな樹種が存在しているし、そういった森の中にある川には、メダカ、フナ、コイ、アユ、ドジョウ、タナゴ、イワナなどのたくさんの種類の魚が生息していたりします。
こういった森や川は多様性のある世界といっていいでしょう。
また、こういった豊な森や川にはたくさんの鳥や動物や集まってくることから、そこは賑やかな世界が生まれてくるものであり、こういった豊かな自然をイメージしていると不思議とワクワクしてきたりします。
しかし、同じ森でも木の種類が少なかったり、川の魚の種類が少なかったりすると、なんとなく寂しさを感じてしまうものです。
しかも多様性のある森はどんどん進化しながら広がっていくものですが、単一的な森は森自身を広げる力がなかったりします。
なぜかというと、単一的な森は生態系に複雑さがないため、何かしらの出来事で生態系が崩れてしまうと、それを回復していく力が弱かったりするためです。
つまり、多様性の持つ豊かさは、見た目の華やかさだけでなく、生存するための強さも兼ね備えているといえるのです。
こういったことと同様に、私たちの暮らす社会にも多様性が必要であり、多様性のある社会には強さがあったりするものなのです。
多様性の世界をどのように生きていくか
私たちは、日本という多様性のある国に存在することができていますが、そうでない国もたくさんあり、自由な選択ができない国もあったりします。
また、日本でも少し前までは選択肢の少ない時代があり、必ずしも多様性のある社会ではなかったりもしました。
そう考えると、私たちは、これまでの日本の歴史至上、一番、自由な選択ができる社会にいるということができ、私たちが、これから求められるのは、たくさんある選択肢の中で、自分に適したことをいかに見つけていくかといことだったりします。
たとえば、選択肢の少ない社会だと選べる要素が少ない分、不自由さはあるものの、選ぶこと自体は容易だったりします。またそういった社会では、生き方の型が存在していて、その型に自分をあてはめていけばよかったりするため、その型通り生きていけば安定を手に入れることができたりしいます。
しかし、社会が多様的になってくると、選ぶということが大変になるということはもちろんのこと、選択できるという自由さがある反面、生き方としての型があるというわけではなく、仮に何か参考になるような型があったとしても、その型が、多様的な世界で必ずしも通用するかどうかは未知数だったりします。
また多様的な世界は、自然の生態系のように複雑さがあるため、シンプルな縦割り社会のように原因と結果が明確にならないことが多く、自分なりのやり方を見つけてそれを確立させていく必要があったりします。
こういったことから、選択肢の多い多様性のある社会は、自由度が高い分、生き方としては高度になるものであり、個人の持つ能力が問われるようになってくるものなのです。
では、こういった多様性のある、個人の能力が担保になっている世界でどのように生きていけばいいかというと、楽しいと思うこと、喜びを感じることをして生きていくということが最適解だといっていいでしょう。
なぜかというと、楽しめることだと、自分の能力を最大限に引き出すことができるようになるからです。
楽しめないと自由じゃない
「楽しむ」ことと「自由」はイコールで結ぶことができるといっていいでしょう。なぜなら「楽しめない状況」に「不自由さ」を感じたりするものだからです。
また、「選択肢がたくさんある」ということも「自由」の意味といっていいでしょう。というのも色々選べるからこそ「自由」を感じられるからです。
そういった意味でも「自由」とは、いろんな選択肢がある中から、自分が楽しめることを選べるというということだったりします。
フードコートに行くとワクワクするのはたくさんの種類のお店があるからであり、何を選ぶかを考えるのが楽しかったりするからです。また、たくさんあるお店の中から、好きな食べ物を選ぶことができたとき「楽しさ」を実感できたりするものです。
とはいえ、人が一回の食事で食べられる量に限りがあるため、実際に食べたいと思うものを選択できるは一つか二つだったりします。
このため、たくさんあるお店の中で、何を基準に選んでいいくかというと、自分が一番食べたいものということになります。
現代の日本の状況は、こういった状況に似ていて、たくさんの選択肢がある中で、何を選んでもいいという「自由」のある世の中だったりします。
しかし、一度にフードコートのすべてのお店の料理を食べられないように、私たちが実際に選べることは一つか二つしかないため、何かを選択するにしても、自分が一番楽しいと思うものを選ぶことが最善策になります。
であるならば、自分は何をすれば楽しめるか、その楽しさをどのように具現化していけるかということを、より深く探っていった方が、生きることそのものを楽しめるようになるといえるでしょう。
楽しさを発見する力を身に付ける
私たちの多くが学校で学んだことが大人になっても役立ったという感じがあまりしないのは、そこに楽しさがなかったからであり、義務でしていたりするからです。
その一方で、部活動で楽しんでいたことは、その後の人生に大きな影響を与えていたりしますが、それは自分で好きなことを選んでしていたからであり、自分の意思で能動的に動いた結果だからです。
つまり、義務で仕方なくしていることは、自分の人生経験にあまり役立っていないのに対し、自分で選んで楽しんでしたことは、自分の生き方に大きな影響を与えていたりするものなのです。
また、義務でしていることには好奇心が伴わないため、それをしていても新たな発見や気付きが生まれにくかったりしますが、楽しいと感じていることをしていると、次々と好奇心が湧いて出てくるため、新たな気づきや発見が生まれてくるようになるものです。
そういった意味でも、好奇心の湧くようなことをして行くと、次々と新たな発見をしていくことができるようになり、それがやがて自分の能力に変わっていくといっていいでしょう。
そう考えると、もし自由度の高い多様性の社会の中で、自分の能力を使って生きようとするのであれば、まずは自分の意思で選択し、好奇心に従って生きることが大切だったりします。
また、好奇心や喜びに従って行動していると、それだけで自分必要な能力を身に付けることができるようになるし、また、それを自分自身の多様性に変換させていけるようになるため、今度は、ひとつのことだけでなく、他のことも同時にできるようになっていきます。
よく、本業の他に様々な事業をしていたりする人がいたりしますが、そういった人は、自分の能力の中から多様性を生み出した人であるといってよく、多様性の社会で多様的に生きられるようになった姿といっていいでしょう。
「喜び」を具現化して生きる
これまでは、社会に自分を合わせて生きる生き方が主流だったかもしれません。しかし、もし自分の人生を楽しく生きようとするなら、自分の力で自分の生き方を模索していく必要があるでしょう。
とはいえ、自分で自分の生き方を模索するのは、実はさほど難しいわけではなく、自分にとっての核心的な「喜び」を見つけるだけだったりします。
そのためにも、まずは自分を知ることが大切であり、自分を詳しく知っていくことができると、必ず本質的な自分を発見していけるようになるでしょう。
そして、そういった本質的な自分を発見することができるようになると、「喜び」や「好奇心」に従っていきていけるようになるでしょう。
そういった意味でも、普段から「喜び」の気持ちに従って生きていると、自然な形で自由度の高い多様的な社会を楽しんでいけるようになるはずなのです。
外に自分を合わせるのではなく、自分の内側から浮かび上がってくる「喜び」で生きていった方が、人生の充実度は大きいといっていいでしょう。
また、自分の内側から浮かび上がる喜びと生きていると、いつも自分と一致して生きていけるようにいなるため、とても楽に生きていけるようになるものなのです。
この記事が参加している募集
いつもサポートありがとうございます。感謝ですー😆👍💓