見出し画像

episode15 あるがままに見る世界

「ヌーソロジーが面白い」というマガジンでは、ヌーソロジーという思想体系を創り上げた半田広宣さんの「2013:人類が神を見る日」と「2013:シリウス革命」という2冊の本を読み解きながら、私たちの意識(魂)の出自や私たちがこの世界に存在している理由を紐解いています。

なお、この記事の中に出てくるオコツトとは、シリウス由来の冥王星の知性体であり、半田さんがチャネリングによってヌーソロジーの基礎となる知識を得た相手になります。


今回は、「あるがままに見る」ということを書いていきます。

世界を見る態度から、
余計な考えをすべて取り除き、
ただ虚心坦懐に受け入れる。
その態度に極限にまで徹底された状態を、
「冷静さ」をどこまでも保つという。

「老子 あるがままに見る」

こちらの引用は「老子 あるがままに生きる」という本の「世界をありのままに見る」という章の一節ですが、この一節の中に出てくる「虚心坦懐」という言葉があります。

この「虚心坦懐」とは、「先入観を持たず広く平らな心。また、そうした心で物事に臨む態度」という意味ですが、実をいうと、最近、どうすれば先入観を持たずに物事を見ることができるようになるか、ということを考えていました。

そんな折、「ヌーソロジー」の記事を書くために「2013:人類が神を見る日」を読んでいたら、たまたま、その答えとなるようなことが書かれていたのです。

仏教に「直達正観」という言葉があるが、これは「あるがまま素直に物事を見れば、おのずと真理が見えてくる」というような意味だ。オコツトはまさにこの直達正観を地で行っていたといって言い。要は、ごく素直に視界に映し出されている世界を見ることだ。そして、見える世界と見えない世界がどのような関係になっているかを確認してみればいい。

「2013:人類が神を見る日」アドバンスト・エディション367P

こちらは「人類が神を見る日」からの引用ですが、奇しくも仏教の教えである「直達正観」と老子の教えの「虚心坦懐」、さらにオコツトの幾何学的な知覚が一致したということになります。

では、オコツトは「あるがままに見る」ということを、どのように説明しているのでしょうか。


オコツトは、この図の中の実線で示している世界を「人間の外面」といっていて、破線で示している世界を「人間の内面」と呼んでいます。

では、この「人間の外面」と「人間の内面」にはどのような違いがあるかというと、実線で示している「人間の外面」とは、「実際に眼で見ることの出来る世界」であり、「人間の内面」とは、「実際に眼で見ることの出来ない世界」ということいなります。

つまり、「あるがままに見る」ということは、オコツト風に言えば、「実際に見えている世界」のことであり、先ほどの半田さんの言葉を借りるなら、「素直に視界に映し出されている世界を見ること」となります。

この「見えている世界がありのままの世界」ということは、実に当たり前のことなのですが、私たちはどうしても、何かを判断する場合は、それまでの人生で得た経験で物事を見てしまうので先入観を使ってしまうものです。

しかし、先入観とは過去の経験から得た知識に過ぎず、実際に目の前にある物を見ている様子とは異なっていたりすることが度々あったりするものなのです。

したがって、もし先入観なしに「虚心坦懐」で物事を見るのであれば、目の前にあるものを「観察していく」ということになります。

そして、できるだけ物事をしっかりと捉えて判断しようとするならば、知識で判断するよりも、目の前の様子をしっかりと「観察」していった方が、良い結果を導き出すことができるようになるといえるでしょう。

知識とは先入観といってもいいかもしれません。

もちろん、この先入観という知識によって、ものごとを効率よく運ばせることができたりします。しかし、すべてのことが知識によって解決されるわけではなく、知識では解決できないこともあったりします。

そういったときこそ、実は物事を「あるがままに見る」、つまり先入観という目には見えない余分な知識を取り除いて、目に見えているものを観察していくことで、問題を解決していくことができるようになるのだと思います。

実をいうと、私たちの生活のほとんどは、過去の知識によって成り立っています。そのため、普段、目にしているようなものも、実はちゃんと見ていなかったりします。

たとえば、道を歩きながら考え事をしているときは、目の前の景色と考えていることの映像を半々を見ていたりするものであり、眼は確かに目の前の景色を見ていますが、頭の中では考えの対象となる過去や未来の映像が繰り広げられているものであり、人は目の前の景色と頭の中の映像を切り替えながら目の前の景色を見ていたりするものです。

逆に、街中で目的とするお店を探しているときなどは、まさに目を見開いて目の前の景色を見ているといっていいでしょう。

こういったことと同じように、私たちが何かの問題にぶつかったときは、しっかりと目を見開いて、目の前の姿をありのままに見た方がよかったりするものなのです。

私は、最近、老子の思想を好んでいて、老子に関する様な本を読む機会が多くなっていますが、私がヌーソロジーに惹かれたのも、こういったものの見方の姿勢が老子の考えと共通していたからかもしれません。

老子の思想と、ヌーソロジーの考え方に共通することは「観察」であり、観察した結果から、その法則性を導き出していくという思考様式があり、「観察」する姿勢には、常に余計な先入観を除く必要があったりするものです。

そういった意味でも、オコツトが半田さんに示した「人間の外面」と「人間の内面」というような視点を持つことができるようになると、ものごとを整理して思考できるようになると思います。

たとえば、何かの問題に直面した場合などに、実際に目に見えている様子と、頭の中で繰り広げられている世界の仕分けをすることができるだけで、問題の本質に気づけるものだし、頭の中で繰り広げられていることも、想像で終わらせるだけでなく、実際に目で見て観察してみるとそこに問題の本質を見て取ることができるようになるでしょう。

「直達正観」の話の基となるブッダの考えに「今」の大切さがるのも、「観察すること」に主眼をおいているからであり、自分の心と身体の様子を観察することが仏教の基本だったりすることだからです。

いずれにせよ、私たちは意識して「今」という瞬間を「見て」「観察して」「感じること」ができるようになると、大抵の問題は解決できるようになるものかもしれません。

世界の中心と感じられている自分の位置とその周囲の関係は、客観的に捉えられている3次元球空間とその中心点の関係ほど明確な関係性を持ってはいない。僕らはただそのようにあてはめて想像しているだけであって、現実的にそうであるかどうかは誰にも分らない。

「2013:人類が神を見る日」アドバンスト・エディション377P

この半田さんの文章にあるように、私たちはブラインドとなっているところを想像することで補っています。

しかし、そういった目には見えないところも、安易に想像で済ませるのではなく、意図して「見て」「観察して」「感じること」をすると、適切な答えを見出すことができるようになるかもしれません。

そういった意味でも「次元観察子」というオコツトの示す幾何学的な世界を見ていくという知覚の方法は、老子のいう「虚心坦懐」の姿勢と一致するといってもいいでしょう。

もちろん、生活のすべてを想像を使わずに「虚心坦懐」、「直達正観」で生きていては、物事が前に進まないので想像することが悪いということではありません。

とはいえ、現代の私たちは、昔の人のように自然から遠く離れてしまった存在であり、情報優位の世界に身をおいていることもあり、どんなことでも安易に想像で済ましてしまう習慣が身に付いているといえるので、実際に自分の知覚を使って観察し判断するという姿勢を強化していく必要があるといっていいでしょう。

そういった意味でも、自分で考えそれを経験に変えていくという習慣を得られるようになるものなので、ヌーソロジーの本を手にすることをお勧めします。



いつもサポートありがとうございます。感謝ですー😆👍💓