60) 自由とは愛と悟りと無為自然
人が、様々な観念を落としていったとき、最後に残ったものをなんと表現するのか。
それは「愛」であり、「悟り」であり、「無為自然」なのかもしれません。
「愛」も「悟り」も「無為自然」にも、その中に無条件という言葉が潜んでいます。
なぜかというと観念とは条件であり、そういった条件を手放したときに「愛」や「悟り」、「無為自然」が生まれるからです。
そして、「愛」や「悟り」、「無為自然」を見つけた先に「随神の道」が見えてくるものです。
「随神の道」は、この宇宙全体に自分自身の存在を預けて生きるということでもあり、条件がないからこそ宇宙に自分の身を委ねることが出来るようになるものです。
観念をすべて落とすということは、恐ろしいことでもあります。
なぜかというと、観念を落としてしまうと未来が全く想像できなくなってしまうからです。
未来が全く想像できないということは、自分という生命の保証がなくなるということでもあります。
しかし、「随神の道」を見つけた人には未来に恐怖を持つことがありません。
彼らは宇宙が自分を保証してくれていることを知っているから、恐れがないのです。
だからこそ、彼らは「明日のことは煩うな」、「今を生きよ」といいます。
今この瞬間こそが完璧だと知っているから、「ただただ生きよ」といいます。
「未来」も「過去」も彼らにとっては条件であり、「未来」や「過去」という条件を外したときに「今」という「自由」が手に入いります。
「自由」とは「義務」ではなく「意思」です。
「自由」とはどんなことでもできるといことであり、「今」をどう生きてもいいという意思がそこにあります。
そして、自分の意思を自由に選択し「今」を生きることが、「随神の道」でもあります。
することの一つひとつに善し悪しはありません。
それが無条件です。
だからこそ、そこに自由があり、その自由を今、謳歌するのが人間に与えられた本来の自由であり意志です。
今の社会は「義務」で成り立っています。
しかし、本来、人は自由意思で成り立っているものであり、自由意思を重ね合わせて社会ができるものです。
人が、自由になったなら堕落するのではなく、むしろ他者のために役に立ちたいと思うものです。
しかし、義務で動くとそういった自由な思いに制限が生まれてしまうものです。
義務は人を横並びにします。
その一方で、自由は自分の得意なことで世の中に役立てようという意思を持たせてくれるものです。
自分の得意なことで自分を活かす世界が自由な世界です。
自分が得意なことをで役立つことは、愛のある行為であり、差を生まない行為でもあり、自然なことです。
私たちが、愛に生き、差を取って、自然に生きることが出来るようになるとき、自由な世界が生まれるのかもしれません。
人が心から自由を感じられるようになると、愛や悟りや無為自然で生きられるようになるのだと思います。
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