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第60回:「喜び」で生きると調和が生まれる

今回は、「喜び」で生きると調和が生まれる、ということを書いていきます。

どういうことかというと、「喜び」で生きるとストレスがなくなっていくため、心身ともに調和が取れるようになって、いい循環で生活できるようになるということです。

たとえば、人の身体を自然にたとえるなら、豊かな自然が健全な生態系を保っているように、人の身体も、自身の持つ生体機能を適切な形で保つ必要があるでしょう。

豊かな土地の自然が元気なのは、その土地の生態系がしっかり保たれているからであり、私たちも、私たちの体内の循環をちゃんと保つことができるようになると健康で過ごすことができるようになるものです。

また、地球の自然が、仮に地球という生命体の意思で保たれているとするならば、私たちの身体を保つのは私たちの意思やあり方にあるといっていいでしょう。

つまり、私たちは私たちの考え方やあり方次第で、自分自身の身体をどのように保っていくか決めることができる存在なのです。

そこでもし、自身の生体機能を適切な形で保とうとするのなら、私たちの普段の意識がとても重要になってくるものだといっていいでしょう。

不要な負荷が生態系を壊していく

豊潤な土地が健康なのは、その土地の生態系を壊してしまうような負荷が存在していないからです。

負荷のない状態とは、自然そのもの、つまり「ありのままの状態」ということができます。

しかし、そういった豊潤な土地であったとしても、何かしらのきっかけで、その生態系が崩れてしまうと、すぐに自然が損なわれてしまいます。

私たちの身体も、もこういった自然の姿と一緒で、何かしらの負荷がかかってしまうと身体が持つ自然の生体を崩してしまうことになります。

人間の場合、こういった負荷のことを「ストレス」と呼びますが、人はたくさんのストレスを持ってしまうと、心身に不調をきたしてしまいます。

「ストレス」とは「喜び」の反対語といってもいいかもしれません。

たとえば、アマゾンの奥地の自然を思い浮かべたとき、その密林の姿は「喜び」に満ちているように感じます。その一方で、アフリカの砂漠は、ヒリヒリと乾いていて、そこに「喜び」の姿を見出すことは難しかったりします。

アフリカの砂漠は、かつては緑の大地だったといわれていますが、現在の乾いた土地の姿は、そこに大掛かりな「負荷」がかかった結果です。

もし、私たちがアマゾンの奥地のように「湿潤」な姿で生きるなら、自分自身にできるだけ「喜び」という潤いを与えることが必要です。

しかし、もし自分に「喜び」を与えることができずに、心身ともに乾いてしまいアフリカの砂漠のようになってしまったなら、それを回復させるのは簡単ではありません。

私たちは、地球の自然と同じように、一人ひとりがそれぞれの身体にそれぞれの生態系を持って生きています。そこで、自分自身を一つの生態系とみなして生きるようになると、生き方そのものもを変えてみようと思えるようになったりするものです。

「負荷」にも善玉と悪玉がある

たとえば、コレステロールと聞くと「悪いもの」というイメージを持っていたりしますが、コレステロールには善玉と悪玉があり、コレステロールが必ずしも悪者ではなかったりします。

こういったことと一緒で「負荷」と感じることにも善いものとそうでないものが存在しています。

ちなみに、コレステロールの善玉と悪玉の違いが何かという以下のようになります。

体の隅々へ運ばれるものがLDLコレステロールで、余分に蓄積すると動脈硬化などの原因となるので「悪玉」とされます。 それに対して、体から回収されるものがHDLコレステロールで、余分なコレステロールを減らすので「善玉」とされます。

OMRONヘルスケアより

この善玉コレステロールと悪玉コレステロールと同様に、人が感じる精神的な「負荷」にも善玉と悪玉があるといっていいでしょう。

では、「善玉の負荷」と「悪玉の負荷」にはどんな違いがあるのかというと、「善玉の負荷」の負荷の背景に「喜び」があるものであるのに対し、「悪玉の負荷」の背景に「喜び」がなかったりします。

たとえば、何かに挑戦したいと思うようなことであれば、それをすることで大変さを感じることもありますが、それは自分で望んで負荷をかけたものであるため「喜び」と直結していたりします。

一方で「悪玉の負荷」は、まさしく「ストレス」そのものといっていいでしょう。

つまり、自分で望んで負荷をかける場合は、自分を鍛えるものになるのに対し、受動的な負荷は自分自身を蝕むものになってしまいます。

わかりやすい例でいうと、積極的に運動すると身体の健康に保たれますが、受動的な立場で無理やり運動させられていては、それは「ストレス」でしかありません。

そういった意味では、「善玉の負荷」はもはや負荷ではなかったりしますが、オーバートレーニング症候群という言葉があるように、過剰にやりすぎてしまうと、自分の体調を崩してしまうこともあるでしょう。

いずれにせよ、何をするにしても「喜び」の意識があるかどうかで、その作用は善玉にも悪玉にも変わりうるといえるでしょう。

自然とは「喜び」の状態であること

人が「喜び」で生きるとき、そこに葛藤がありません。葛藤とは「対立する感情」のことなので、「ストレス」を生むものと言っていいでしょう。

では、こういった対立する感情のない状態とはどういった状態かというと、豊かな大地を育む、ありのままの自然の生態系にたとえることができるでしょう。

豊かな大地は「喜び」とともにますます拡大していきますが、そういった姿がまさに「自然」な状態といえます。しかし、漠化が進んでいく世界は、自然本来が持つ「喜び」の状態が失われたものであり、「不自然」な状態といえるでしょう。

私たちもこういった自然の状態と一緒で、「喜び」という潤いを持って生きていくと自分自身を成長させていけるのに対し、「喜び」のない状態で生きていると、次第にその身を瘦せ細らせてしまい、出来ることの範囲を狭めてしまいます

そういった意味でも、私たちには「喜び」が欠かすことの出来ないものであり、「喜び」が私たち自身を支える大きな「軸」となっているといってもいいかもしれません。

実をいうと、私たちは「喜び」で生きるとこそが自然の姿なのです。なぜなら、私たちの行動のすべては「喜び」と結ばれているからです。

こういったことから、受動的にならずに、自分の意思で積極的に「喜び」を感じるようなことを選択していくと、自然な形で体調が整っていくだけでなく、精神も安定していくことでしょう。

こういった精神の安定は、他者との関係性もよくしていくものであり、人間関係も自然な形で結べるようになっていきます。

こういった「喜び」を軸とした良好な人間関係を自然にたとえるなら、それぞれがそれぞれの役割を認識し、互いによい影響を与えながら存在するという自然の生態系にあてはめることができます。

そして、私たちの一人ひとりが、「喜び」で生きることが自然なことと、と理解できるようになると、今度はこの地球の自然と人間が一緒になって「喜び」で生きていけるようになることでしょう。

いずれにせよ、私たちがこれから先、「喜び」を中心に生きていくことができるようになっていけば、自分に対しても地球の自然に対しても無駄と思えるようなことをしなくなっていくようになるでしょう。



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