見出し画像

失敗してもいい社会を創る

現在の日本の社会は、「失敗しないように生きる」という前提があるといってもいいかもしれない。

チャレンジすることよりも、無難に生きる方が推奨されているように思う。

では、「失敗しない」とはいったいどういったことなのだろうか。

今回は、「失敗しないこと」と「失敗すること」をテーマとして書いていく。

そもそも「失敗」も「成功」も、どの立場で見るかで変わってくることだろう。

失敗も成功も内的なものと外的なものがあると考えられる。

おそらく、今の日本の「失敗しない」という定義は、外的な意味での「失敗しない」という意味なのではないかと思う。

この外的な意味での「失敗しない」というのは、一般的、常識的ということになるだろう。

たとえば、男性なら学校を卒業したら定年になるまで働いて、その間、大きな失敗をすることなく無難に過ごす、ということが一般的、常識的な生き方となるのではないだろうか。

しかし、内的な意味でみれば「失敗しない生き方」は、言葉として成立しないといってもいいだろう。

なぜかというと、何かを習得したり自分を成長させるためには、失敗することが欠かせないからだ。

むしろ、たくさんの失敗をしたほうが、そこに気づきや発見を得られるようになるものであり、そういった失敗や気づきが内的な成功に近づけてくれる。

また、失敗という試行錯誤を積めば積むほど、自分を強くできるようになるものであり、失敗するという経験から生きることの意味を見出せるようになっていったりもする。

人生の成功の意味は人それぞれに異なるけれど、僕個人としての定義でいうならば、毎日を喜びの中で過ごせるようになることであり、そこに至るには、たくさんの失敗が必要だと感じている。

だからこそ、「失敗を回避しながら生きる」という意味での「失敗しない」は、内的な視点に立ったなら意味をなさないといっていい。

言い方を変えるなら、「失敗することを怖れて自分がやりたいと思っていることをせずに後悔して生きるほうが失敗」ということもできる。

人生とは、失敗から気づきを得たり学んだりするものであり、それらの経験によって、心から喜びの中で生きていけるようになっていくものなのだ。

とはいえ、この内的な意味での「失敗(=成功)」と、外的な意味での「失敗しない生き方」は葛藤を生むものでもある。

なぜかといえば、現代の社会で一度、失敗をするとそれをリカバリーするのが大変だからだ。

たとえば、勇気を出して冒険したところでそれが上手くいくとは限らないし、何かで失敗すると金銭的な負担を抱えるようになったりする。

しかも、自分がやってみたいと思って挑戦しことが、実際には自分の性に合っていなかったということも度々起こること。

僕もこれまで、いろんなことに挑戦し、仕事を何度も変えたりしたりしたけど、「これだ!!」という確信を得られることに出会うことはなかった。

だから、僕は転職するたびにリスクを背負うことになった。

「勇気を出して挑戦すること」も、「失敗しない生き方」を選ぶのもそれは、その人その人の判断であり、いい悪いがあるわけではない。

ただ一つ言えることは、現在の社会は失敗しづらい構造になっているといるということだ。

幸い僕は独り身で過ごしているから、自由度も高く金銭的な負担は少なくて済むけれど、もし僕にも家族がいたなら、何度も転職することはなかっただろうし、今のような生活はできなかったに違いない。

もしかすると、今のように日々、文章を書いて生活するといったことはできていなかったと思う。

今は、こうして文章を書いて過ごせていて、それが楽しいし喜びでもあり、充実した日々を過ごせている。

金銭的な部分では全く不安がないわけではないけれど、これから先もどうにかやっていけそうな目途が立ち始めているから、これからも可能な限り文章を書いていきたいと思っている。

noteを始めた頃は本を出せたらいいなと思っていたけれど、最近はそういったことよりも書き続けることの方が大事だと思っている。

大切なのは、日々の生活を楽しんで生きること。

そして、今、こういった環境で暮らせるようになったのは、これまでのたくさんの失敗があったからこそでもある。

これまで様々な紆余曲折があったけど、今の生活に満足できているから、内的な意味で人生を振り返るなら、今は後悔はないといってもいい。

しかし、世間的、一般的な視点に立つなら、成功しているとは言い難いのではないかと思う。

といったわけで、今回の記事のタイトルの「失敗してもいい社会を創る」について。

自分の人生の目的を早い段階で見つけることができ、それを軸にして生きていけるようになるという人は、実際にはごく僅かなのではないかと思う。

幼少の頃から、「これだ!!」といった確信得て、それを人生の目的として生きられる人は数少ないはずだ。

むしろ、いろんな経験をしていく中で、自分にあった対象を見つけられるようになっていくものだし、何かに挑戦して実際にそれをやってはじめて自分の性に合っているかどうかがわかるもの。

しかも、「これだ!!」と思ったことでも、次第に「これは違うかも」と思ったりして、その時々で考え方や感じ方が変わっていくものだから、自分がどんな未来を過ごしていくかを正確に予測できるものではない。

だからこそ、何度でもやり直しができる世の中が理想的といっていいだろう。

どんなことでも、一度で成功するということは稀なことであるから、いろんなことを挑戦した中で、自分にあった対象を見つけられるような世の中になれば、もっと生きやすくなるのではないかと思う。

では、どうすればそういった世の中になるかといえば、少しづつ今ある社会の常識を変えていくしかないのかと思う。

おそらく、今の社会の利益追求型の貨幣経済や管理社会といったシステムが人の動きの柔軟さを阻害していると考えられるし、冒険がしづらい社会と考えていいだろう。

そういった背景があるため、「これだ!!」と思えることに出会う機会が少なくなっていると思う。

現在のこういったシステムを変えていくことは、一筋縄ではいかないものだけれど、このままの状態が続けば、これから先も息苦しい社会が続いていくのではないかと思う。

だからといって、ここで代替え案を提示することはできないけれど、今の僕にできることといえば、失敗も成功も表裏一体であり、経験したことのすべてが自分の糧となるということを書き続けていくことなのだと思う。

そもそも、我々は失敗するためにこの世界に生を受けていて、失敗から気づきを得てそれを学びに変えていくことが人生の目的だったりするものであり、そういった認知を微力ながら広めていければいいと思う。

そうやって、少しづつでも世の中の常識を変えていけるようになればいいと思うし、失敗することにおおらかな社会を創っていけたらいいと思う。

おおらかさとは、失敗を悔やむのではなく、失敗から学ぶことに重きを置くことである。

たとえ失敗したとしても、誰もが新たな気持ちで再挑戦できる社会がおおらかな社会といえるだろう。

失敗によって自分を知ることができるようになるものであり、その結果、力強く自分の人生を歩んでいけるようになっていく。

大切なのはどんなときでも内的な満足であり、内的な満足を感じられたとき人は幸せになれる。

また、生きるということは試行錯誤の連続であり、そういった試行錯誤の瞬間が楽しい瞬間でもある。

そうやって日々の試行錯誤を楽しめるような世の中になっていけばいいと思う。

試行錯誤こそ、「いまここ」になれる瞬間でもある。

成功しようと思えば思うほど、気持ちが焦ってしまい成功が遠のいてしまううけれど、成功とか失敗とったことを考えずに、純粋に今を夢中になって過ごしていると上手くいったりする。

「いまここ」には、そういったパワーが宿っているし、楽しむことや喜びを感じることは「いまここ」にあるということでもある。

なので、これからも、これまで同様、楽しんで喜びで生きていくことの大切さを綴っていければと思うし、自分の思いがこの世界を創り上げるということを、これからも書いていこうと思う。

失敗したことさえも楽しみ、それを糧に今を生きていく。

失敗が自分に気づきを与え、自分を築く機会となる。

失敗を愛せる人が多くいる世の中が、生きやすい世の中となることだろう。

自分の満足が周りにいい影響を与えられるようになるものであるから、失敗を満足に変えていくことの大切さについても書いていきたいと思う。


いつもサポートありがとうございます。感謝ですー😆👍💓