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組織人にこそ勧めたいこと:意味のデトックス

夜中2時。
思い立って座卓を出して、下敷きと文鎮、筆と墨を出す。古新聞を座卓の脇に広げる。
硯はめんどうなので、墨池と呼ばれる容れ物に墨をとぽとぽと注ぐ。
先生に朱で書いて頂いた「わ」という平仮名の美しいお手本を出す。
中心線がわかるように軽く縦に折った半紙を広げる。
筆を墨池に入れて、十分に墨を浸す。筆の先半分だけ、少し墨を落とす。
息を吐いて、最初の一画を書く。
あ、左に行き過ぎた。
しかし、リカバリは効かない。この一文字はこの一文字としてなんとか完結するのだ。
二画目。長い。ちょっと右、戻るようにして左下、そこから右上にうわぁっと行く。
わわわわわ、わぁ。筆の毛が一度裏返り、少しねじられながら円を描く。
ちょっと右過ぎた。
こんな営みを、小一時間。しっとりとしたエンターテイメントだ。
しかし、意味は、ない。


朝6時。海の上。沖からの風が少し強い。寒い。
ボードに腹ばいになり、両腕で、漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ。沖に向かって、漕ぐ。
パドリングというやつだ。まだ入門者だから、遅い。
遠い。遠くに見える江ノ島の堤防が、一向に近くならない。
まだかな…、もうちょっとかな…。この辺かな。
波を待つ。
きた? まだ。これは? ムリ。波待ち時間が長く、体が冷えてくる。
ええい、行ってしまえ!
ロングボードにちょっと踏ん張るものの、すぐにバランスを崩してボチャン。
がばぁっと水から浮き上がり、流れ止めのコードを引っ張ってボードを探す。
もう一度、パドリングだ。なにやら盛り上がっている自分がいる。
この繰り返しにも、意味はない。


午後2時25分。ちらっと時計を見る。
もう、25分ほど叩き続けている。
眼の前の長胴太鼓の皮に視線を戻す。
ドン、ドン、ドン、ドン。右、左、右、左。
リズムがだんだん速くなってくる。
ドンドンドンドンドンドンドンドン。
あ、左手の音が外れ始めた。もどさないと。ヒザも使えてない。柔らかくしよう。
リズムが速く、細かくなる。
ドドドドドドドド。
手に持ったバチと和太鼓の皮がぶつかる感触が、腕を伝わって体に拡がる。
底から響いてくる音が心地よい。


しかし、これも、意味はない。


これら私の趣味たちにはすべて、意味は、ない。


ひるがえって見てみると、世の中は意味であふれかえっていると思うのだ。
「えー、それ意味あんの?」
「このプロジェクトの意味は?」
「この仕事の意味・意義は?」
「あなたの人生の意味は?」
こうやって訊きたくなるのは人間の性ではなかろうか。
それはそうだ。意味がないことはやりたくないし、人生に意味がないと思うとちょっと虚しいもの。
そしてこれらの問いに答えるために、私たちは意味を創る。


巷のビジネス本にも、仕事においては意味づけが重要、と書いてある。
確かに、仕事では、意味づけがはっきりすることで使命感や達成感を感じることもある。
「お客様の生活をよりよくしていくため」
「新しい技術を世に送り出すため」
「社会の基盤を支えるため」
意味は、私たちの動力源になる。
そして、この社会のしくみの中で生きていくには、嫌なことやちょっと納得できないことをやらなければならない時も出てくる。
そんな時、それらの事柄に「意味」を見出すことで、私たちは自分たちの背中を押している。
「家族を養うために、風邪でしんどいけれど会社に行こう」
「なんとか部下を守ってやりたいから、ここは頭を下げよう」
「自分がやりたいことをやるためには、この面倒な稟議を切り抜けよう」
意味は、私たちの支えにもなる。
ゆえに、特に理不尽なことも多い大きな組織に所属している人たちにとって、これら「意味」は必須の要素なのではないだろうか。
しかし、思うのだ。
意味がないことにこそ、人生の本質があるのではないか、と。
こんなことを言うと、退廃主義者だとか、ニヒリズムだ、とか言われてしまいそうだ。
しかし、夜中2時の書道、朝6時のサーフィン、30分打ち続ける和太鼓こそが本質だ、と私は思うのだ。
なぜなら、これらのことには意味がない。なのに、これらをやっているときには、おなかのそこからフツフツと、言いようのない楽しみが湧き上がってくるのだ。
あなたにも、そういう経験はないだろうか。


今学んでいるTransactional Analysis(TA)という心理学は、人生の時間にあらかじめ与えられた意味はないという前提に基づいている。
その、生まれてから死ぬまでの意味のない空洞の時間に、どうやって彩りを与え充実した時間にしていくのか。
それを考えながら、時間を過ごしていくのが、「生きる」ことなのではないか、とTAでは考えている。

「意味」をつくるということは、「生きる」ためのひとつの方法だろう。
そして私たちは、すでに十分すぎるほどこのやり方を使ってきている。
しかし、「意味がない」ことを心底から楽しむ、ということもまた、「生きる」方法のひとつだ。
言ってみれば、日常にあふれかえっている「意味」を少しデトックスして、「意味がない」ことのスペースを創ってみる方法だ。
人生の解像度をより上げて、より彩り豊かにしていくために、そんな方法を選択肢に加えてみる、というのはどうだろうか。

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