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宿泊療養の日々と村田沙耶香

発症の翌日、オンライン診療で陽性の確定診断を受けると、すぐに都の宿泊療養相談窓口に連絡して施設の利用を申し込んだ。
その時点では、いつから療養施設に入れるか分からないとのことだったが、その日のうちに施設の割当てが決定したとの連絡があり、「明日の午後から入所できます」と言われた。
幸運にも、発症三日目から、都内のホテルで宿泊療養を開始できることとなった。

入所当日、午後1時過ぎに、宿泊療養施設の送迎専用と思われるタクシーが自宅マンション前まで迎えに来てくれた。
トレッキング用の大きめのリュックとトートバッグをひとつ持ち、ドライバーに無言で迎えられ、ワゴンタイプの車に乗りこむ。
運転席と後部座席の間は厚めのビニールカーテンですき間なく仕切られ、カーテンに一か所だけ開いた穴から太いホースが後部座席に突き出ていて、そこから冷たい風が吹き出ている。冷房なのだろう。
ドライバーは終始無言。こちらも余計な言葉はかけないようにする。

ホテルは、私の住むマンションと同じ区内にあった。所要時間15分か20分で、ホテルの通用口にあたるらしい車庫に到着、ドライバーに会釈をして、車を降りる。
マイクで誘導されて建物に入ると、狭いエレベーターホールで、閉め切った受付の窓越しにホテルの担当スタッフ(「事務局」と称していた)と対面。
スタッフの指示に従い、エレベータ前の棚から自分の名前が書いてある封筒を取る。封筒の表にカードキーが貼り付けてある。担当スタッフからマイクでカードキーの使い方の案内を受け、エレベータに乗りこみ、割り当てられた部屋に入る。

第一印象は「意外と狭い」というものだった。
とはいえ、ごく普通の、ビジネスホテルのシングルルームである。テレビ、冷蔵庫、WIFIも完備している。

受けとった封筒の中には、各種の注意事項や案内、貸出用のパルスオキシメーター、マスク、ボールペンが入っている。

入室後ほどなく、事務局から電話があり、生活上の案内・諸注意を受ける。パルスオキシメーターの使い方も教えてもらった。
引き続いて、常駐の看護師さんからも電話があり、健康状態や持参した薬等について、念入りにインタビューを受けた。
さらに、看護師さんからスマホ用の健康チェックアプリの登録の案内があり、アプリを通じて、毎日3回(症状軽快後は2回)決まった時刻に、体温、酸素飽和度、脈拍を入力するよう指示を受けた。

こうして、私の施設療養生活が始まった。

最短で8泊9日にわたり、隔離された状態で、この部屋で過ごさなければならない。
部屋から出ていいのは、原則として一日3回、食事を取りにいくときだけだ。
もちろん禁酒禁煙である。コンビニに買い物に行くことも、自動販売機で缶ビールを買うこともできない。
その代り、食事置き場では、ペットボトルの水やお茶(緑茶、ウーロン茶、麦茶)が取り放題であり、食事を取る際に、歯ブラシやカミソリ、マスク等のアメニティを補充することもできる。

食事は、一台しかないエレベータが混雑しないように、居室のフロアごとに全体を3グループに分け、グループごとに時間帯を決めて、取りに行くルールとなっていた。
入所者は1フロアに10人程度はいたようなので、全体で100人近くが療養していたのであろうか? 老若男女さまざまであったが、比較的若い人が多く、男女比は6対4くらいの印象を受けた。

看護師さんは複数名、少なくとも3人以上が交代で常駐しているようで、常時入所者のデータをモニターして、時どき電話で連絡してくれる。

私の症状はのどの痛みと発熱だった。体温は入所の時点で38度前後あった。
オンライン診療で処方されたカロナール(解熱鎮痛剤)などの薬を持参してきたのだが、入所直後に看護師さんから「カロナールは服用しないでください」と言われた。症状軽快の目安として、解熱剤の服用なしに平熱に戻ることが基準とされていたためである。

初日の夜は、これまでに経験したことがないほどの「のど」の痛みであまり眠れなかった。
翌朝そのことを看護師さんに訴えると、朝食後に1錠カロナールを服用してよいと許可が出た。おかげでのどの痛みは二日目に少し和らぎ、それ以降は、カロナールなしで熱も次第に下がっていった。

隔離生活の一日は長い。
毎日、持参したスマホ、タブレット、ノートPCが大活躍してくれた。これらの電子機器がない隔離生活など、とても考えられないほどだ。

午前中は、朝食後、少しテレビを見てから、タブレットで新聞を読んだ(折よく6月から電子版契約に切り替えてあった)。
夜は、夕食後、ナイター中継やニュースを見てから、入浴して、下着を手洗いし、PCでネット配信のドラマを1時間ほど見た後に就寝するのが日課だった。
「長い」と感じるのは、昼食から夕食までの午後の時間だ。

初日(入所日)の午後は、高校野球大会の決勝戦をぼーっと観戦した。

二日目の午後は、発症前にあらかた書き上げていたnoteの記事を、仕上げて、投稿するまでの作業に充てた。

以後、活字人間の本領発揮となる。

三日目は、宿泊療養の実情を正確に書き留めておこうと思い立ち、PCに向って発症からそれまでの経過を記録する作業に没頭した。当然、この作業は、四日目以降も継続した。

四日目から、少し前に購入し、すでに読みかけていた谷崎の『瘋癲ふうてん老人日記』(Kindle版)をタブレットで読みはじめ、六日目に読了した。
途中、読書に疲れると、ふだんは見るのをためらうような長い映画(の一部)を観たり、少しでも運動不足を解消しようと、室内で筋トレ(スクワット、腹筋、腕立て伏せ)をしたりした。

七日目は、唯一持参した紙の本であった半藤一利の『昭和史 1926-1945』を二章分読んだ。
その後、もう少し肩のこらないものが読みたくなり、あれこれ物色した後に、村田沙耶香の新刊『信仰』のKindle版をAmazonで購入した。

『信仰』は、二か月ほど前に区の図書館に予約して、順番待ちとなっていた。
その直後くらいから電子書籍を利用しはじめ、保管スペースを気にすることなく本を購入できるようになったのだが、図らずも、施設療養でこの電子書籍のメリットを活用するチャンスに恵まれた。

さっそくタブレットで読み始めた。表題作を始め6編の短編小説と2編のエッセイを収録したものだ。読みだすと、もう止まらない。

表題作の「信仰」は秀逸であり、二作目の「生存」は衝撃的だ。三作目の「土脉潤起どみゃくうるおいおこる」はなんともいとおしい。

四作目のエッセイ「彼らの惑星へ帰っていくこと」には、著者が子どもの頃からともに寄りそって生きてきた想像上の恋人である「イマジナリー宇宙人」のAさんの存在が描かれる。
幼いころから地球の暮らしに生きづらさを感じていた著者は、Aさんと出会い、ふだんはAさんとともに彼らの惑星に住むようになる。
そして「必要がある時だけ」Aさんと「一緒に地球へとでかけて」いき、用事がすんだら、また「彼らの惑星へ帰っていく」のだという。

……私はたまに目を閉じて、地球という不思議な星の光景を思う。そこに確かに存在している 大量の奇跡のことを考えながら、またその星へ赴く時間のことを楽しみにして眠るのだ。

村田沙耶香『信仰』(文春e-book) p.77.

このエッセイを読んで、ああ、やはりそうだったのだ、と思った。
『殺人出産』にしろ『消滅世界』にしろ、村田沙耶香が描く世界は、宇宙人の視点から描かれていたのだ。
宇宙人として、地球上の社会の制度や慣習や常識を虚心に見つめたときに、そこに生じるかすかな違和感や居心地の悪さが契機となって、現実の世界との間に微妙な「ずれ」を伴う「異次元の世界」がパラレルワールドのように現出するのだ。

いま、「違和感」や「居心地の悪さ」という言葉を使った。しかし、上の引用で、村田は、地球には「大量の奇跡」が存在するとも言っている。
なぜ、著者にとっての生きづらさや違和感を抱え込んだ地球という星の光景が「奇跡」となりうるのだろうか?
村田の言う「奇跡」とはなんだろうか?

八日目は、丸一日を隔離施設で過ごす最後の日だ。
この日、『信仰』の残りを一気に読み終わった。
村田沙耶香は癖になる。
もっと読みたくなった私は、さらに未読の短編集『生命式』を購入して、残された時間を惜しむように読み始めた。

『生命式』は、2018年以前の10年間の短編作品の中から、著者自身が選び抜いたものを一冊に集めた、まさに珠玉のアンソロジーである。

表題作の「生命式」に気になる言葉があった。

「……世界はさ、鮮やかな蜃気楼なんだよ。一時の幻。いいじゃんか、今しか見ることのできない幻を、思い切り楽しめば」

村田沙耶香『生命式』(河出文庫) p.20.

主人公の池谷真保のうっぷん晴らしにつきあわされた飲み会で、男友達の山本が漏らす言葉である。
その言葉の後で、山本は「ディズニーランドが好きだ」とも言う。思いきり顔をしかめる主人公に、笑いながら説明する山本の言葉が、また示唆に富む。

「あそこってさ、誰も、着ぐるみの中の人の話しないじゃん。皆が少しずつ噓をついてるだろ。だから、あそこは夢の国なんだよ。世界もそれと同じじゃない? みんながちょっとずつ噓をついてるから、この蜃気楼が成り立ってる。だから綺麗なんだよ。一瞬のまやかしだから」

同上 p.22.

きっと、村田にとって、地球の光景が「奇跡」であるのは、それが「蜃気楼」であって、束の間の鮮やかな幻影であると知っているからなのだろう。
そして、村田は、その嘘で固めた「鮮やかな蜃気楼」を決して呪詛するのではなく、むしろ祝福しているのだ。それこそが「世界の美しさ」なのだ、と。

九日目の午前9時40分。私はめでたく療養施設を「退所」した。
9時40分ちょうどに、その日の退所者たちがいっせいにエレベーターホールに集まってきた。
多くの人たちが、重そうなスーツケースを引いている。みんなまるで長めの旅行から帰るところというように。
そうだ。確かに「私たちは旅を終えたところなのだ」という気がした。

旅は、たいてい、日常から非日常の世界へと行って帰ってくるものだ。日常性から非日常への往復。
今回の旅で往復した「非日常」は、私にとって、むしろ「極限的な日常」とも言えそうなものだったけれど、それでも一種の「旅」であったのだ。

私の隣の部屋の若い女性も退所の日を迎えたようだった。
食事時に顔を合わせると、いつも、くすんだ色の地味なルームウェアで冴えない表情をしていた(もちろん楽しそうにニコニコしていた人などいなかったのだが)。

退所の日、彼女は、見違えるようにきりりとした服装に着替え、まるで、これから出勤するかのように見えた。おそらく化粧もしていただろう。
白いブラウスを押し上げている胸の形に生命いのちがみなぎっていた。

退所者たちは、エレベータを1階で降り、回収箱にルームキーとパルスオキシメーターを返却し、入所した時と同じ非常口から外の世界へと出て行くと、それぞれ思い思いの方角に散っていった。

「お隣さん」は私と相前後するように大通りに出ると、大きなスーツケースを引きながら、私が向かう地下鉄の駅とは反対の方向へ、さっそうと歩み去って行った。

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