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奇妙な話

いわれのない悪意や敵意に出会うこと、そんな経験は誰にでもあることなのかもしれないが、時としてなんともやりきれない、いやな気持ちになるものだ。

『罪と罰』という世界文学史上で十本の指に入るような作品を、過去にもう何度も読んでいるのだが、数日前からまた読み始めている。
この作品については、以前この場noteを借りて個人的な評論めいたものを計11回にわたり発表した。それは、この作品の意味について自分なりに永い間考え抜いてきた、その結論を曲がりなりにも形にしたものだった。

ところが、今になって疑い始めた。
なぜ世界中の人々は、時代や国を超えて今に至るまでこの作品を読み続けるのだろうか?
この作品の何がそんなに「おもしろい」のだろうか?
自分は果たしてそれをどれだけ分かっているのだろうか、と。

そんなことを考えながらもう一度読み通してみたいと思ったのだ。

江川卓訳岩波文庫版をテキストとして、その日は上巻の第一部「一」と「二」を読んだ。
「一」は主人公のラスコーリニコフが犯行計画の「下ざらえ」のために老婆(といっても年齢は六十くらいだ)を訪れる場面、「二」はその帰り道の安酒場で元官吏のマルメラードフと出会い、彼の話を聞いたのちに家まで送る場面が描かれている。

「この作品の何がそんなにおもしろいのか」について、あらためて感じたことは、ディテールの描写が実に巧みであるということだ。
江川卓の訳に負うところももちろん大きいに違いないが、一文一文が読者を強く惹きつける。
19世紀半ば、夏の暑い盛りのペテルブルグの猥雑な街路、その熱気と悪臭をはらんだ不穏な空気が吹きつけてくるようだ。
そして、ドストエフスキーならではの表情たっぷりの会話の豊かさ。老婆とラスコーリニコフのやりとりも、マルメラードフの話もなんと真に迫っていることか!

安酒場に入り浸るマルメラードフが、そこまで自分が落ちぶれてしまった顛末てんまつを語る場面では、わたしは不覚にも涙が止まらなかった。散歩の途中で寄ったカフェの中、言わば衆人環視の状況で読んでいたにもかかわらず、である。
幸い通りに面した窓側のカウンター席にいたので、さほど目立たなかったとは思うけれど。
この場面を読んでそんなに泣いたのは、記憶の限りではたぶん初めてだと思う。

泣いた箇所はとくに二つ。
一つは、マルメラードフの娘ソーニャが一家の生活のために追い込まれ初めて「身売り」して家に帰ってきたときの様子を描いた箇所。
もう一つは、マルメラードフの話のクライマックス。裁きの日が訪れ、主がソーニャの罪を赦し、そして最後に自分のような者たちも赦してくれる。「なぜ豚のような者どもまでお赦しになるのですか?」という周囲の問いに対して、主は「彼らのだれひとりとして、みずからそれに値すると思った者がないから」と答える、そのように物語る箇所だ。

もともとドストエフスキーがこれらの描写において読者を泣かせにかかっていたのだということは、おそらく間違いないだろう。そのような意味で作者は非常に冷徹な計算をしていた。その計算にわたしはまんまとはまってしまったというわけだ。

とすれば、『罪と罰』のおもしろさの一端には「エンターテインメント性」という特質が色濃く存在するのであって、それが現代まで生き続けている、と言えるのではないだろうか?
もちろん、それが作品の本質であるというわけではないにしても、作者は読者を惹きつけるためにサービス精神をいかんなく発揮しているように思う。

タイトルの「奇妙な話」とはその後のことだ。

カフェを出て、散歩をしながらの帰り道、とある商業施設に立ち寄り、出口に向かっていたときの話。
出口近くの店舗の前にたたずむひとりの見知らぬ男とふと目が合った。男は一瞬うすら笑いを浮かべたかと思うと、いきなり「ヒトゴロシ」と大声で叫び始めたのだ。
なんのことか分からぬまま通り過ぎようとしたのだが、そのわたしの背中をめがけて二度、三度と同じ言葉が繰り返し投げつけられた。「人殺し!」

思わず立ち止まり振りむいて、その四十前後くらいの男と向き合った。すると男はまともにわたしを見据え、かさにかかったように叫んだ。「なんだ、この野郎。人殺し!」
とっさに「こいつは頭のおかしな男だ。相手にしないほうがいい」と判断し、その場を離れることにした。出口へとすすむ間にも男は追い打ちをかけるように「人殺し、チビ、間抜け!」などと怒鳴っていた。
まったく訳が分からなかった。

外に出て歩きながら、しばらくは平静な気持ちでその異様な「事件」を振り返っていたのだが、そのうちに無性に腹が立って来た。
なんでオレはひと言も言い返さなかったのだろう?
「オレがいったい誰を殺したんだ? ふざけたことをぬかしやがって。この馬鹿野郎!」
そう怒鳴りつけてやればよかったじゃないか。

そしてそれから冒頭に書いたように次第に気分が滅入ってきた。
「いわれのない悪意や敵意」 なぜそのようなモノが現実に存在するのだろう?
「いわれのない」というのは思い込みに過ぎなくて、悪意や敵意を引き起こすなんらかの要因が自分にあったというのか?
かつてさんざん悩んでうんざりし、とっくに払いのけてしまったはずのそんな想念にまたとりつかれ、なかなか憂鬱な気分が晴れなかった。

人間の悪意には、それが正当であれ不当であれ、ともかくなんらかの根拠があるはずではないだろうか?
ところが、あの奇妙な男は、わたしにとってはまったく面識のない、通りすがりの人間なのだ。果たして彼にどんな悪意の根拠がありうるだろう?
それとも、まったく根拠のない、自己目的化した、言わば「純粋な」悪意というものが人間には存在しうるのだろうか?
もし、存在しうるとすれば、人間性に巣くうそのような底知れぬ深い闇に対して、どう向き合ったらよいのだろう?
あるいは、そうした「闇」を抱えた精神はもはや正常とは言えないのであって、やはりあの男は精神の均衡を失った、心を病んだ男であった、ということなのだろうか?

あの気味の悪い、おかしな男がなぜわたしを「人殺し」と罵ったのか、結局なにも分からないままだ。
ひょっとしたら、『罪と罰』の余韻に深く浸りながら歩いていたあのとき、ラスコーリニコフがわたしに憑りついていたのだろうか?

いやいや、それだと「できすぎた話」になってしまうではないか!




※タイトル画像はふくふくさんからお借りしました。ありがとうございました。


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