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加賀乙彦『宣告』-読書の途上で-

加賀乙彦の『宣告』を読んでいる。
新潮文庫で上・中・下の3分冊、合計1,462ページの大長編小説である。

長いだけではない。内容もなかなかの難物だ。そのうえで文句なく面白い。
現在、ようやく下巻を読み始めたところで、全巻読了してからなにかしら読書の痕跡を note に残したいと考えていた。
そんな折 note事務局から「連続投稿記録41ケ月」達成に向けた励ましの通知(笑)をもらったので、途中経過というか論点整理というか、そうしたものを綴ってみようかと思いたった。

『宣告』のテーマは「悪」と「死」である。

主人公はT大卒のインテリでありながら、強盗殺人を犯して死刑囚となった楠本くすもと他家雄たけお
舞台は主として独居房が並ぶ拘置所内の「ゼロ番区」であり、他家雄は同拘置所で三審の確定判決後の六年を含めすでに十六年暮らし、もうすぐ四十歳を迎える。

本書は、他家雄とともにゼロ番区に収容される、いかにも人間臭い死刑囚たちの日常を描いた群像劇であり、同拘置所に医官として勤務する精神科医の近木の眼をとおした死刑囚たちの極限的な心理の解剖であり、そして何よりも死の恐怖に直面しそれを乗り越えようとする他家雄の真摯な葛藤の記録である。

「悪」というテーマについては、全七章のうちの第三章が他家雄の手記に当てられていて、その章のタイトルが他ならぬ「悪について」であり、そこで他家雄の生い立ちや複雑な家族関係、恋愛の破綻や犯行に至る経緯が克明に回顧される。
しかし、ここで描かれる他家雄の「悪」は、わたしの読解力不足なのか、なかなか焦点が定まらず、解釈が難しい。

他家雄の「悪」の根底には、部分的に母との関係に起因するらしい自己不全感や自殺願望、破滅志向、あるいは若者らしい自暴自棄といった感情や衝動がくすぶっていると感じられる。
他家雄の手記にも、犯行によって「日頃から念願していた破滅がいまや成就した」との記述がはっきりとみられる。
その一方で、手記には、犯行の直接の動機が「自分に力を与えること」であり、金のためでなく「自分のため」「自分をよりよく生かすため」の「ギリギリの決意」であったとの告白もなされている。
つまりは、「破滅志向」と同時に、ラスコーリニコフ的な「力への志向」「よりよく生きるための意志」を持っていたということであり、この矛盾を呑み込んで他家雄の悪の全容をつかむことは一筋縄ではいかず、わたしの手に余る。

「悪」の問題はひとまず措こう。

「悪」と「死」という二つのテーマのうち、本書でより切実であるのは「死」の問題であり、「他家雄がどのように死を受け入れるか」ということだろう。

拘置所内でカトリックの洗礼を受け、他家雄は生まれかわったかのようだ。
手記に描かれた「悪」であり殺人犯である他家雄の自画像と、拘置所内で死を待つ他家雄との間には明らかな「断絶」がある。

わたしが特に注目したのは、そんな他家雄が思い描く「死のイメージ」である。

革命活動家でセクト間の内ゲバ殺人により死刑囚となった唐沢との会話の中で、他家雄は「死後の世界」について語る。

「……人は生れる前に、どこか真っ暗な世界にいたんだろうね。死ねばそこに帰るんだろう。もし真っ暗な世界に何もなければ、死ねば何もなくなってしまうわけだ。でもね、おれは何もなくなるとは思っていない。人がどこか、、、からか来たとすればどこか、、、へ帰ることはあると思うね」

加賀乙彦『宣告』新潮文庫 中巻, p.209.            

人間は闇の世界から生まれ出て、死とともに闇の世界へと帰っていく。
このような他家雄の直観は、ひょっとしたら多くの人間が共有する「死のイメージ」であるのかもしれない。
わたし自身、かつて「死ぬとは、即ち生きること」と題した投稿で次のように記したことがある。

「死とは果てしのない闇と静寂の大海であり、人間は、誰もがひとりのこらず、いずれそこに還っていく。
生とは、その悠久の大海の底から束の間ひょっこりと浮かび上がった、たよりない小舟のようなもの。
そんなたとえ方もできるかもしれない。
気の遠くなるような偶然のめぐりあわせから、まばゆい光の世界に、奇跡的に浮かび上がることができた小舟。」

他家雄の言葉は次のように続く。

「……人間は影のようなものでありながら、たえず変化して、まあ成長してといってもいい、つまり生命としてあらわれて、その総体として死ぬんだね。こういうことだ。あの世から来た人間は、あの世に帰るときは同じではない。何かそこに変化があるんだ。それが人生じゃなかろうか。その人生を完結させるのが死なんだね」

同上 p.210.

あの世から生まれたときの「私」とあの世に帰っていくときの「私」、その二つの存在の差分が「私」の人生なのだ。そこに「私」という人間が生きた「あかし」があるのだ。
そんな意味にとれる言葉だ。
とすれば、他家雄にとって、若き日々にとらわれた「悪」を浄化し、自分自身を変え、「光」のもとで死を迎えることこそが人生の意義であり、そのために神への帰依が必然であった、ということなのだろうか。

獄中の他家雄に洗礼を授け、十三年前に亡くなったショーム神父の教え、〝罪の増すところには恵みもいや増せり〟というロマ書の一節を支えにして、死刑こそが「恵み」であると自らに言い聞かせながら他家雄は生きる。

同じ唐沢を相手に他家雄は次のようにも言う。

「あらゆる存在物は、人間もこの世も国家も牢獄も神父も看守もおれたちも、すべて暗黒から無理をして出てきて、いま、このわずかな現在という時間に、かろうじて光の中に存在しているに過ぎない。いいかね。あらゆる存在物は暗黒によってのみ、支えられ、存在させてもらっているんだ。暗黒こそが存在物の根拠だ。<中略> そうであるならば、死とは存在の根拠である暗黒に帰ることに過ぎない。暗黒において誕生という事件が起きた以上、同じ暗黒において復活が起らぬ理由はない。これがおれの復活の形而上学けいじじょうがくだ」

同上 p.369.

キリストが復活を果たしたように、人間にも不死がありうるのではないか、その信念によって死を克服できるのではないか、他家雄はそのように思いたかったのかもしれない。

しかし、結局、信仰の力をもってしても、他家雄は「死の恐怖」を拭い去ることができない。
獄中の他家雄はしばしば迷い、悩む。

 ショーム神父様。死刑が恵みであると私には思えないのです。〝罪の増すところには恵みもいや増せり〟という言葉が、いま、何一つ私に語りかけてくれないのです。<中略>
 堂々めぐりだ。死刑が恵みでなければそこには恐怖しかない。恥辱の、醜悪な、不吉な、死。……

同上 p.279.

わたしたち読者は、他家雄の「死の恐怖」を果たしてどれほど共有することができるだろうか?

もちろん、死刑囚の「死」とそうではない「ふつうの」人間の「死」とは、まったく同じというわけではない。
もっとも大きな違いは、死刑囚の死は「人間によって無抵抗のまま殺される」死である、ということだろう。
しかも、その死がいつやってくるのか予め知ることはできない。死刑囚は来る日も来る日も「それが明日あるいは明後日なのかもしれない」という不安に怯えながら生きなければならない。

考えてみれば、いかに自らの所業のやむを得ない報いであるとしても、死刑とはなんとむごい刑罰であることだろうか。

他家雄自身も、死刑制度には異議を唱える。次も唐沢との会話からの引用である。

「……おれは自分の処刑を仕方のないこととして受入れているが、死刑制度には反対なんだ。一人を殺した人間を殺すというのでは、結局二人の人間を殺すだけだからね。そこには二重の殺人があるばかりだ」

同上 pp.405-406.

他家雄は、原則として死刑は認めないが或る種の人間についての死刑は認める、そして自分はたまたま或る種の人間に入るのだ、と言う。或る種の人間とは何だと聞かれ、他家雄は「死刑によってしか救われないあわれな人間」のことだ、と答える。

「……もし、おれが死刑という判決を受けなかったら、おれは大切なことを知ることが出来なかった。いまのおれは、その判決の結果としてある」

同上 p.407.

それが他家雄の本心であるならば、彼が恐怖を感じるのは、おそらく「死刑」という死の形が恥辱であり、醜悪であり、不吉であるためではない。
他家雄をさいなむものは、「死」それ自体の恐怖なのだ。

そろそろ下巻に戻ることとしよう。
他家雄がどのように「死」という結末を迎えるのか、果たしてそこにひとすじの光を見いだすことが出来るのか否か、それをしかと見届けたいと思う。

他家雄の「死」は特殊な状況のもとで訪れるものであるとしても、人間が「いかに死に向き合い、死を克服しようとするのか」というテーマはあらゆる者にとって共通の普遍的な問題であるのだから。






※タイトル画像は yagi さんから拝借しました。ありがとうございました。

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