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#76 佐藤昌介とクラーク、そしてエミリィ その1【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その14】

(続き)

○ 佐藤昌介とクラーク、そしてエミリィ その1

新渡戸稲造を札幌農学校へと導き、花巻と、アメリカやキリスト教との関係を考える上で重要な人物が、花巻出身の農学校1期生でクリスチャンの佐藤昌介です。

佐藤は、賢治の生家に近い現在の花巻市街地中心部の出身で、旧南部藩の幕臣・佐藤昌蔵の長男。アメリカのニューイングランド地方マサチューセッツ州アマースト出身の、札幌農学校教頭のクラーク博士から直接教えを受けるとともに、クラークの信頼を受け、クラークが約7ヶ月札幌に滞在し帰国した後も、農学校の中心人物として、信じられない程の長い間、札幌で存在感を発揮し続けます。

日本で最も有名な外国人の一人とも言えるクラークは、エミリィ・ディキンスンと同じアマーストに住んでいた人物で、エミリィと同じ1886年に亡くなり、二人は同じ墓地の敷地に眠っています。

当時、クラークはアマーストの名士で、エミリィはアマーストの名家であるディキンスン家の長女ではあったものの、詩人としては無名でした。
エミリィが入賞した「パン焼き大会」の審査委員長がクラークだったとも言われ、また、エミリィが暮らすディキンスン家の庭には、クラークが日本から持ち帰って植えた桜の木があります。クラークは、亡くなるまで札幌の生活を懐かしく語っていたと言われていることから、クラークの日本滞在が、ディキンスン家の人々、そして、エミリィについて影響を与えたのか否かについても、興味深いものがあります。

(続く)

2023(令和5)年10月15日(日)

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