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#79 原敬と古河財閥 その1【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その17】

(続き)

○ 原敬と古河財閥 その1

花巻出身ではありませんが、旧南部藩出身のクリスチャンで、賢治と同時代を生きた偉人に、盛岡出身の原敬がいます。原は、賢治が東京へ家出した1921年には首相を務めていました。

1856年生まれの原と、1896年生まれの賢治は、約40歳の年齢差があるものの、青年期を迎えた賢治が生きた時代は、政治家として大きな力を持っていた原が活躍した時代と重なり、否が応でも、原の政治活動は賢治の目に入っていたと思われます。しかも、賢治が東京への家出を終え、花巻へ戻って間もなく、1921年11月に原は東京駅で暗殺されました。

当時、賢治の父・政次郎は、地元・花巻では原と同じ政友会系の町会議員であったことから、賢治もまた、原の政治活動と全く無関係であったとは考え難く、賢治が、どのような眼差しで原を見ていたか、気になるところです。

賢治の詩「馬行き人行き自転車行きて」には、「政友会の親分」という言葉も登場しますが、これが原を指す言葉かはわかりません。

早くに父親を亡くした若き日の原を引き上げたのは、佐藤昌介の父である昌蔵と言われており、中央政界で実力をつけた原は、先述の通り、昌介を何度か助けています。現在北海道大学に残る古河講堂も、原を支援していた古河財閥からの寄付によって設置されました。前にも触れた通り、昌蔵は原がリーダーだった政友会系の国会議員でもありました。

(続く)

2023(令和5)年10月18日(水)

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