見出し画像

元ヘタリアオタクの私が「まあネタだし」で流せなくなった理由

ヘタリアが連載再開になる、という知らせはオタク専用のアカウントを持っている私のもとに素早く届いた。

再始動という文字と手を広げたイタリア(キャラクター)のイラストを見て、私は昔のように胸を躍らせることができなかった。

ヘタリアは、作者の日丸屋秀和氏が個人サイトに挙げていた、2ch(現5ch)の軍事板でのネタに基づいて国を擬人化した同人漫画だ。世界史をストーリーとしてなぞったり、その国の「あるあるネタ」をギャグテイストで描く作品で、その後商業漫画として出版され、果てはアニメ化までされた。

私は中学校3年生頃からうっすらとハマり始め、一番ハマっていたときは毎日pixivで「ヘタリア 1000」と検索しては二次創作を見まくり、ニコニコ動画では「ヘタリア MMD」のタグ検索で好きなキャラクターの新しいMMD動画が出ていないかチェックしていた。これらのサイトの使い方はヘタリアで覚えたと言っても過言ではない。

私と同じようにヘタリアに時間を注ぎ込み、好きなキャラクターの絵を書いたり小説を書いたりしていたオタクたちは、この知らせに喜んでいる人たちが多いように思えた。

その一方で私がKobin名義で作っているアカウントのTLはヘタリアを通った人も通っていない人も、批判的な見方をしている人がほとんどだ。

批判されている方たちの主張は至極当然のものだ。多様な人間の集合体を一つのキャラクターに集約し、それらの関係性として簡略化することで侵略や文化の簒奪の歴史が見えなくなること、ステレオタイプが強化されること、ファンが大日本帝国の時代を「黒菊」「日帝」と呼び、キャラクター化することで帝国主義を「かっこよく」消費する危険性など、正直枚挙に暇がない。

私がヘタリアを愛好していたのは6,7年くらい前。当時も私はヘタリアの表現が孕む危険性になんとなく気づいてはいたものの、深刻に受け止めずに「まあネタだし」と流してしまっていた。

何故そうしてしまえたのか。もちろん私自身の不勉強は拭えないにしても、ヘタリアという作品はそこの危険性をなんとなく良しとしてしまえる作品としての特徴があったと思う。

感情豊かで人間らしいキャラクターの魅力

私はヘタリアの何に魅力を感じていたのかと思い返すと、かわいらしいタッチで描かれたキャラクターと、それらのキャラクターがほのぼのとした口調で交わす、「国民性あるある」に基づいたギャグ調の会話である。

戦争中であろうが、ドイツに見つかったイタリアはトマト箱の妖精の振りをしてやり過ごそうとするし、すぐに白旗をあげ、泣きわめいて命乞いをする。捕虜として連れていかれたイタリアはその先でドイツあるある歌を歌い上げ、イタリアに強制送還される。

同盟関係を結ぶことが「友達になる」と表現され、ドイツとイタリアと友達になった日本は(1940年の日独伊三国同盟)、イタリアやドイツとの交流の中で様々なカルチャーショックを受け、「欧米文化は複雑怪奇です・・!」とあたふたする。(幻冬舎から2008年に出版されたAxis powers ヘタリア第一巻より)

国家を擬人化しているとは言いつつも、その振る舞いや感情の発露は極めて人間らしく感情豊かなのだ。

だからこそ日本人が海外を旅行した時や、海外で育った人と接触した際に感じた文化の違いやそれに対する戸惑いに感情移入できるし、イタリアを知っている人はキャラクターとしてのイタリアと実際のイタリア人のふるまいに共通点を見出すこともある。

キャラクターとしての魅力があるがゆえに、キャラクターへの愛が国への愛と非常に近いところにあった。

無論それは悪いことばかりでもない。

ファンダムの中にはヘタリアのキャラクターを通してある国に対する興味を持ち、大学でその国の言葉を専攻したり、留学したり、その国の歴史について勉強して二次創作に落とし込んだりする人がかなりの数いたように記憶している。

そういったポジティブな影響があったからこそヘタリアは多くの人に受け入れられ、愛されたのだと思う。

擬人化することで生まれるステレオタイプ

しかし、ヘタリアからポジティブな影響ばかりを受け取ったように思えるのは、日本で生まれ育ち日本を母語とし日本人の両親を持つ、私を含めたマジョリティの特権だったのではないか。そう思うようになってから私のヘタリアへの見方は変わっていった。

例えば韓国のキャラクターは「すぐに謝罪と賠償を要求する」「あらゆるものの起源は韓国だとすぐ主張する」という設定だ。

日本が韓国を併合し、更には強制連行を始めとする数々の人権侵害を行った歴史を鑑みればこの表現がいかに差別的かつ自国の歴史を反省しない、ひどい態度か分かると思う。この表象を見た日本に住む韓国人、または韓国をルーツに持つ人はどう思うだろう。

「見なかったらいい」という問題ではなく、こういった価値観を無意識にインストールした人に自分の国籍を明かした場合、不容易に傷つけられるかもしれない。

その可能性すらないマジョリティーがこの価値観を容認しているのは、自分に降りかからない差別を見て見ぬふりをしていることと同じことではないか。

その一方で日本はどう描かれているかと言うと、控えめで遠慮がちでミステリアス、童顔だが実は2600年の歴史を持つ国で、東洋の小国ながら近代に一気に西洋化を成し遂げ、アジアの大国に躍り出たというものだ。

これが本当に平等な目線で描かれた国の表象だろうか?

ファンだった私たちが考えるべきこと

今ヘタリア復活に際して、ヘタリアの差別的な表現などに批判が集まっていることを快く思わないファンも多いだろう。

その気持ちも分かる。誰だって自分の人生の時間を削り取って愛した作品が批判の的になっていたら、平常心ではいられないはずだ。

しかしそこで思考を止めて作品を全肯定し、批判をする人々のことを差別だなんだとうるさい外野が粗探しをして噴き上がっていると決めつけてしまっていいのだろうか。

ヘタリアの曲で、アニメのエンディングとして作られた『まるかいて地球』というものがある。その歌詞の一節の「ああ 世界中に 眠る幸せのレシピ」という箇所が本当に大好きだった。世界には様々な文化があり、その中で暮らす人々がいて、その歴史の中で紡がれた「幸せのレシピ」があるのだというメッセージは、同じ地球に暮らす人々が争うことなく幸せに日々を送ってほしいという祈りだと感じていた。

しかし残念ながらその地球上で紡がれた歴史はけして「幸せのレシピ」ばかりではない。負の歴史から引き継がれた差別や搾取構造が私たちの社会には根深く残っているはずだ。だからこそ、表現物の消費者である私たちは、作中の差別的な表現や偏見につながるような国民性の描写を無視し続けてはいけないのではなかろうか。

私は、昔ヘタリアが大好きだった者として、今回のヘタリアの復活には断固として反対する。

この文章を読んだヘタリアを今もなお愛する方は、自分が無邪気にステレオタイプな描写を楽しんでいた裏で、偏見に苦しむマイノリティがいたかもしれないことを、今この時にもう一度考え直してみてほしい。

執筆=Kobin
画像=Unsplash

読者の指摘を受け、文意をより明確にするため以下の変更を行いました(2020/10/28)。

「大日本帝国の時代を『黒菊』『日帝』と」→「ファンが大日本帝国の時代を「黒菊」「日帝」と呼び、」

Sisterlee(シスターリー)はMediumへ移転しました。新着情報はツイッターよりご覧ください。 新サイト:https://sisterleemag.medium.com/ ツイッター:https://twitter.com/sisterleemag