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真実かステレオタイプか フェミニストは『女帝』をどう読んだか

『女帝 小池百合子』(以下、『女帝』)を読んで、私は非常に混乱した。小池の非情で非倫理的な言動をいくつも見せられたにもかかわらず、小池が嫌いになれなかったからである。

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小池が作り上げた魅力的な「嘘」の数々

『女帝』は、小池が作り上げ、権力の座に駆け上がるために利用してきた物語が虚構であることを、緻密な取材で明らかにする本だ。同書で紹介される、小池がついてきた嘘をいくつか見てみよう。

「カイロ大学を卒業した初めての日本人女性」という経歴を売りに小池はマスコミ業界に飛び込むが(*1)、当時の同居人らへの取材のもと、実際はカイロ大学中退であることを同書は明かす。

*1……後にこの経歴は「首席卒業」にまで“盛られ”る。

複数のインタビューで、小池は1度はリビア発の飛行機便を逃し墜落事故を免れ、大学卒業後、帰国が長引きもう1度墜落事故を免れたという、「強運の人」を印象付ける物語を語る。同書によれば、このエピソードも事実である可能性は非常に低い。

小池の帰国後、彼女の両親は突如エジプトで料理屋を開くが、小池の手記やインタビューによれば、留学中、カイロに遊びにきた専業主婦の母・恵美子が「現地の日本料理屋のすき焼きにキャベツが入っていたことに憤慨した」ことがきっかけだという。これももちろん事実ではない。

ここまで見ると、小池の嘘が大胆であるだけでなく、心のどこかに引っかかるような、それこそ記者が思わず記事にしたくなってしまうような魅力的なものでもあることにも気づく。

同書では、こうして小池が作り上げてきた虚構に対し、取材を通じて明らかになった事実が並べられていく。しかし、困ったことに、事実のほうも相当におもしろいのだ。

「密です」ブームも偶然じゃない

事業家の父・勇二郎は、同書で紹介される発言を引用すると、「とにかく、滅茶苦茶」。親戚の縁故で商売をするものの、取引先への支払いを踏み倒そうとしたり、およそ現実的でないビジネスの野望のため散財を重ねたりする人物だ。政治への憧れも強く、衆院選に出馬するも落選して借金を作り、家族に迷惑をかける。

留学中は、小池はたびたびカイロにやってくる父に着物を着せられ、商談や接待の場に連れ出される。同書は、そうした場で培った社交術が、カイロ留学中に小池が勤しんだコネ作りに、そしてその後マスコミや政界で躍進する上で大いに役に立ったことを匂わせている。

小池の幼少期の描写からは、小池が同世代よりも早く“大人”になるしかなかった環境にいたことは明白で、不憫にさえ思える。

小池にとって大きな転換点となるのは、ジハン・サダト・エジプト大統領夫人(当時)の訪日だ。父のツテで通訳者の1人として潜り込むことに成功してしまう。当時何の経歴もない学生だったというのに、そして何より、アラビア語も到底通訳を務められるレベルではなかったのに。

できる・できない、務まる・務まらないは彼女には関係ないのだろう。輝くチャンスを見つけると、とりあえず飛び込む。その類まれな度胸は、経済番組のキャスターへの大抜擢、テレビ業界から政界への突然の転身、「政界渡り鳥」と揶揄されながらも女性初の防衛大臣にまで上り詰めた議員時代でも発揮される。

同書の後半では、小池の弱者へのサディスティックなまでの仕打ちも明かされるが、恵まれない幼少期や、その後抜群の勘と行動力だけでのし上がっていく小池の姿を見せられているがゆえに、小池をただ「人の心がない」と切り捨てることが難しい。

小池の物語にはピカレスク(*2)的爽快さもあり、小池がフィクションの中のヒロインであれば心酔してしまっていたかもしれない、と思わせる(同様の感想は、SNSで複数見られた)。

*2……悪漢小説のこと。下層出身者が非倫理的な手段を使って(一時的に)成り上がるストーリーのものが多い。

参議院議員として初登院した際は緑色のジャケットと豹柄のミニスカートという“サファリルック”で現れ、コメントを求められると「国会には猛獣とか珍獣とかがいらっしゃると聞いたので」と答えた。自分の見せ方をどこまでも分かっている。昨今の「密です」ブームも偶然ではないのだろう。

作中でフォーカスされる小池の「女性性」

同書では小池の女性性に大きなフォーカスが当てられる。これは小池の言動を見れば当然のことであろう。都知事出馬前までの小池の出世戦略は、女性としての魅力も使いつつ、権力者、すなわち自分より年上の男性に気に入られ、引き上げてもらうことだった。同書は小池が他の女性と場をともにすることを嫌がり、「紅一点」であることに大きな価値を置いていたとも分析する。

SNS上に投稿された『女帝』の感想には、小池への強い嫌悪を感じさせるものが散見される。ひょっとすると、こうした小池が男性に媚びる描写や、同性を足蹴にする描写が強い嫌悪感を招いている面もあるのではないかと思う。しかし、男性社会で身のふり方に戸惑ったことがある身としては、こうした小池の言動にも同情を感じてしまう。

男性社会で女性として生き残るということは、常に「踏み絵」を迫られるということである。お前は俺らにとって使える女なのか、使えない女なのか。都合のいい女なのか、面倒臭い女なのか。そうした踏み絵を迫られる中、繰り返し当時の「正解」を踏んだのが小池だったのではないかと思うのだ。

実際に、同書内で描写される、政界での女性政治家の扱いは惨憺たるものがある。若い女性候補は容姿で起用され、対立する党の候補の選挙区に“刺客”として送り込まれる。出世して大臣に任命されても、「女性はやわらかい印象を持たれるから」と“汚れ役”をやらされる(SNSでは、今の森まさこ法相の状況に重なるとの指摘が多数あった)。この状況に、女性として最適化してしまったのが小池だったのではないか。

あざへの言及はステレオタイプか

同時に、SNSでは同書での小池の描写があまりに性的にステレオタイプ化されているのではないか、という指摘も散見された。たとえば、小池の顔のあざの存在が繰り返し強調されるが、本人がコンプレックスに思っていたと著者が決めつけているのではないか、これはステレオタイプではないか、といった意見もある。

個人的には、外面の取材を通し、内面に迫る手法自体は問題視しない(ここを否定すると、長編ジャーナリズムの伝統を否定することになってしまう)。しかし、たしかに読者が持つ性的なステレオタイプに働きかける描写はあると感じる。

たとえば、著者は当時日本新党所属の小池百合子と社会党所属の土井たか子が同じ選挙区で戦った衆院選について、ノンフィクション作家の島崎今日子が記したレポートを引用している。

「小池がきれいなスーツに身を包み、ミニスカートをはいて完璧な化粧をしていても、靴は一足だけで、それがひどく汚れていたと指摘し、土井は服に合わない時もあったが、靴を何足か替え、それらはいつもきれいに磨かれていた。」(本文より)

著者の意図は不明だが、女性に対してある種の固定観念を持っている人たちに対しては、土井と小池の女性としての、あるいは倫理的な優劣を印象付けそうな描写だ。

物語では、物語に対抗できない

同書のあとがきで、著者はノンフィクション作家の罪について非常に印象的な言葉を残している。

「ノンフィクション作家は、常に二つの罪を背負うという。ひとつは書くことの罪である。もうひとつは書かぬことの罪である。後者の罪をより重く考え、私は本書を執筆した。」(本文より)

個人的には、同書の最大の皮肉は、著者が非常に巧みなストーリーテラーであることだと思う。

小池百合子は魅惑的な物語を作り上げたことで、権力を手にした。著者は事実を丹念に追い、真実を書いたが、小池の「ヒロイン」としての体質も相まって、また別の魅惑的な物語を紡ぐことに成功してしまった。

私たちが小池から学ぶことがあるとすれば、それは物語で物事を理解し、判断したくなる衝動に抗わなければならないということである。物語では、物語に対抗できないのである。

執筆=Sisterlee編集部・


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