「良い映画とは、観る人々の経験のアーカイブスを刺激する」宮台真司先生 | 映画『アマノジャク・思春期』全国公開記念 第三回:

映画『アマノジャク・思春期』の全国劇場公開を記念し、2019年7月28日(日)下北沢トリウッド公開上映2日目、社会学者・映画批評家宮台真司先生とのアフタートークの一部始終を文字起こししました。こちらは第三回目の記事です。

<映画『アマノジャク・思春期』公式HP>
https://www.amanojaku-sishunki.com/

<有料配信用の特設サイト>
https://shortmovie-shishunki.wixsite.com/theater


<登壇者>
宮台 真司 社会学者・映画批評家
岡倉 光輝 映画『アマノジャク・思春期』脚本・監督
理沙 映画『アマノジャク・思春期』プロデューサー

□参考図書のご紹介。

切通理作著『お前がセカイを殺したいなら』(1995)フィルムアート社


✲携帯・PCなどのハッキング被害と闇バイト被害、スパム被害も注意。
※令和5年から   

クソ化した社会で、クズにならずに生きるには、どうすればいいのか

画像1

理沙:どうもありがとうございます。実は私、この映画の脚本を初めて読んだ人間です。そのとき、私は、本作の脚本に非常に可能性を感じました。今の世の中って、一人ひとりの人間を個として捉えるよりは、一面的に捉える風潮ってすごく強いと思っています。でも、この作品では、受け口という身体的コンプレックス、隠れた発達障害、周囲と上手く馴染めないといった問題を、多面的に捉えて、かつ問いかけを解き放つようなところがある。だからこそ、より多くの人に伝わるものがあるのではないか、と思いました。そしてそれは、映画だからこそ表現できるのではないかと感じました。そうした観点から、何かご意見いただけますか?

宮台:この映画に含まれているような批判が必要だということです。最も重要な批判は――これはFUJI ROCKでも話したのですが――最近の若い人の回避傾向です。若い人が避けたがるのは、①性愛の話題、②政治の話題、そして、③本当に自分が好きな映画や音楽の話題です。理由はどれも同じで、過剰さを示すことで変な奴だと思われてしまうのを、避けるためです。
でも、僕が合宿などに連れて行って無理矢理喋らせると『本当はこういうマイナーな音楽が好き』と言う。すると『俺も好きだ』『私も好きだった』という奴が出てきて互いに仲良くなるのです。だったら宮台がいないところでも『本当に好きなもののカミングアウト』をやれよって思うのですがね(笑)。変な奴だと思われたくないから避けているわけです。
この連中は、残念なことに〈個〉を覆い隠す生き方をしているのですね。クズを相手にそれをするならいいけれど、24時間それをしていたら、確実にミイラ取りがミイラになります。自分もクズになっていくわけです。つまり〈個〉ではなくなっていくのです。具体的には『言葉の自動機械』『法の奴隷』『損得マシン』に成り下がるのです。社会学の言葉では〈没人格化〉です。
下の世代になるほどクズ化を示しているので、社会がますますクソ化しているのが分かります。社会のクソ化とは〈社会の外〉が消去されることです。クソ化した社会で、クズにならずに生きるには、どうすればいいのか。社会を強く批判し、その批判を仲間と共有することで、社会に引きずられない生き方を──適応せずに『適応したフリ』に留める作法を──具体的に選び続けるしかありません。
具体的にと言っても、“こういうことをやっている”というレベルを超えた抽象的な原則を踏まえる必要があります。それが『〈社会の外〉につながり、〈社会の外〉でつながる者同士が屋上でつながり、その者たち同士で一緒に地上に降りる』という原則です。その意味での『具体的な生き方』を伝えることのできる映画や小説や音楽が出てくることで、それはクズ化を押し留める運動になります。
『俺も生き辛いんだ』『私も生き辛いんだ』と “生き辛さ”でつながるのではなく、どこに活路があるのかを、『生き辛さつながり』に留まる界隈を含めて社会へのラディカルな批判を伴いながら、伝えることが大切です。
伝えられる範囲は、マックスでも小さい範囲に留まることもあって、今後の社会自体にもう活路はありません。それでも、個人の生き方にはいくらでも活路があるのですね。それを『社会という荒野を生きる』戦略と呼んでいます。僕の著作名でもありますね。そうした戦略を示すことができる表現が増えれば良いな、と思っているところです。

良い映画になるかどうかを分けるのは、人々の経験のアーカイブスをどれだけ刺激できるか

画像2

理沙:本作は色々な人にご覧いただいて、生き辛さを抱えている人や、その周りの人たち――たとえばご家族とか――に共感していただいています。

宮台:それについて言うと、『生き辛さ』という言葉はあまりにも平板です。誰だって生き辛いでしょう。僕だってそうです。だから、そこだけでつながっても、しようがないと思うのです。そこだけでつながるのに留まれば、『言葉の自動機械』の疑惑を逃れられません。とすれば、どうすればいいでしょうか。そこで、映画の手法の話を切り口にしたいと思います。
この映画の尺は30分、普通は90~120分の長さです。実は含まれている情報量がすごく少ない。なのに、まるで一つの人生を体験したように思える。それは、人々の記憶のデータベース、経験のアーカイブスが、映画の乏しい情報が引き金になって、呼び出されているからです。つまり、良い映画になるかどうかを分けるのは、人々の経験のアーカイブスをどれだけ刺激できるかなのですね。
最近の若い監督たちは、全力でリスクを回避してきたので、色々な意味で僕らの若いころと比べて、恋愛の経験値も、喧嘩の経験値も、低い。僕が京都に住んでいた頃、週に一回は殴り合いがあった。この映画に出てきたような殴り合いを見ることは、皆さんの経験にはもうないはずです。昔は地域に色々な奴がいて、互いの異なる作法を学んで交流したけれど、そういう経験も皆さんにはない。
そこで、岡倉監督がどんな観客をターゲットにするべきかです。経験のアーカイブスが豊かで、記憶のデータベースが巨大な人間は、映画を引き金にして大量の記憶を呼び出し、10倍、100倍、1000倍の情報量を享受します。そういう観客を目当てにして欲しいのです。その意味で『みんなに分かる』ではなく『分かる人には分かる』。そうして行かないと、映画は劣化するばかりです。
レベルの低い観客を目当てにすると、少女漫画を原作とした昨今の恋愛映画みたいなものになります。共感するとしても『私も生き辛い』レベルで終わります。それは単なる『なぐさめ』や『キズのなめあい』です。確かに『みんなに分かる』作品にはなるけれど、僕に言わせると、それは非常に駄目な映画なのでね。たとえば、フランスの恋愛映画にはそうしたレベルの作品はありません。

一定の経験値がある人にだけ分かる映画を目指す必要がある

画像3

宮台:記憶の底に折り畳んでしまい、もはや思い出せなくなった辛いことが、人にはいっぱいあると思うのです。それを無理矢理引きずり出して『忘れるべきじゃない』という風に訴える手法は、特に人間関係をモチーフにした映画の場合、強烈な醍醐味になります。その意味でも、みんなが分かる映画ではなく、一定の経験値がある人にだけ分かる映画を目指す必要があるのです。
ストーリーが説明的だったり、リニアな時間軸だけに意味がある作品は駄目。僕が好きなタイのアピチャートポン・ウィーラセータクン監督の作品を見ると、映画監督はみんな『自由すぎる』と驚いちゃう。特に素晴らしいのは『トロピカル・マラディ』です。パケット(小包み)的なエピソードが順不同に並んでいるだけで、ものすごく訴えるものがある。彼の映画は明確に観客を選んでいます。
それぞれのエピソードがトリガーやフックになって、僕たちの膨大な記憶を呼び覚すのです。そういう観客は、経験値が高く、ストーリーを追いません。自分に想起されたものを掴むだけで精一杯で、ストーリーを追おうにも追えないのですね。観客をストーリーに縛り付けている段階では、人間関係の映画として二流です。ストーリーを書けないことは、人間関係の映画において欠点になりません。

岡倉:実は僕も、アピチャートポン・ウィーラセータクン監督の『ブンミおじさんの森』がすごく好きなんです。

宮台:ただし、最高傑作は『ブンミおじさん』ではなく、『トロピカル・マラディ』です。『ブンミおじさん』は、恐らく賞とりのために、ストーリー映画に媚びていて、帰結が読めてしまうのです。ただ『トロピカル・マラディ』は日本語版がないので、教育の素材にするために、しようがなく僕が日本語字幕版を作って、ゼミ生だけに見せています。岡倉監督にも門外不出を前提にシェアします。

岡倉:どうもありがとうございます。

宮台:ウィーラセータクン監督は『メモリア』という新作をコロンビアのアマゾンで撮っています。来年に公開ですが、僕がインタビューすることが決まっているので、期待しています。彼はゲイですが、社会から疎外されたポジションにいて、政治や社会に対して強い批判的な眼差しを持ちます。そのことは、先日のムービーパフォーマンスの『フィーバー・ルーム』を見るとよく分かります。
これは『トロピカル・マラディ』の続編だと言えます。『トロピカル〜』は、前半が社会で、後半が〈社会の外〉=森です。『フィーバー〜』も、前半が社会で、後半が〈社会の外〉=雲海のブロッケン現象です。でも『トロピカル〜』の社会は〈微熱の街〉、つまり15年前のイサーンです。『フィーバー〜』の社会は〈冷えた街〉、つまり今のバンコクです。ここに明瞭な批判があります。
ただ、そのことは〈微熱の街〉の記憶がない日本人には──たとえば1990年代半ばまでの渋谷を知らない人には──全く掴めません。実際、ほとんどの日本人が『フィーバー〜』のモチーフを理解していません。でも、それで一向に構わない。たとえば、僕にはひしひしと伝わった。だから、『僕らはいったい何をしているのだろうか』と思って、涙が出た。それで充分ではありませんか。
これを見れば、彼の批判が、タイ政府だけではなく、疑問を抱かないタイ民衆に及んでいるのが分かります。だから、彼自身がタイの社会を好きになれないだけじゃなく、タイに定住することも気持ち的に難しい状態になっている(コナー・ジェサップ監督『A.W. アピチャッポンの素顔』)。そのことも、僕とまったく同じです。

社会に溢れるクズな性愛や、恋愛映画を、徹底して批判して欲しい

画像4

宮台:あと、人間関係を撮る監督と言えば、中国のロウ・イエですね。

岡倉:ロウ・イエ、僕大好きです。『スプリング・フィーバー』とか。

宮台:昨日、この近所のDarwinRoomで続けている『映画批評ラボ』でロウ・イエ監督『スプリング・フィーバー』(2004)の作品を取り上げました。この映画の劇場公開直後、僕は批評を書きまして、最近また批評を書きました。どちらも原稿用紙で二十数枚あるのですが、こちらもあとでシェアします。

岡倉:どうもありがとうございます。

宮台:『スプリング〜』に関連して言うと、性愛の営みを“リア充”とか言っている奴は、クズなので死んでほしい (笑)。そもそも性愛は、社会を上手く生きられない者の逃避です。社会から逃避する営みが性愛なので、それを“リア充”とか言っている時点でもう終わりなのです。
〈社会の外〉でつながる営みなので、意識高い系を気取るどころか、デートに趣向を凝らすのも、馬鹿馬鹿しいことです。相手とどれだけシンクロできるか、それによって主体でなくなってアメーバになれるか、だけが大事です。最近の恋愛マニュアルが全く役に立たない次元です。そうしたことについて、映画はいくらでも表現できます。僕の考えでは、映画が、小説よりも得意とする部分ですね。
性愛は、夢か現実か分からない領域で初めて成就します。リアルな世界でポジション取りしているとか、どう思われるか気にしている段階で、終了です。終了した輩がセックスをしたところで『2人オナニー』と呼ぶべき状態に留まります。『あるある!』的な叙情も、まさにどうでもいいオナニーです。社会に溢れるそうしたクズな性愛や、恋愛映画を、徹底して批判して欲しいのです。
少女漫画的な『あるある!』的シーンを羅列して、『あるある!』と言わせる叙情的なクズ映画がいっぱいあるでしょう。それは恋愛とは何の関係もないオナニーです。そうしたオナニーを恋愛だと勘違いするのは、マニュアルの問題ではなく、当事者がクズ──言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン──だからです。そういったクズをどんどん批判するタイプの映画を撮っていただきたいです。
最終回「質の高い観客に映画を届けるために」宮台真司先生へ続く

<映画『アマノジャク・思春期』公式HP>
https://www.amanojaku-sishunki.com/

<映画『アマノジャク・思春期』とは>
ある少年の「受け口」の容姿への悩みを通し、彼の周辺で繰り広げられる騒動を描いた作品。また2005年4月の発達障害者支援法の施行前、「発達障害」の周知がない時代が本作の背景となっており、その少年は隠れた発達障害をも抱えている。本作では「いじめ」という普遍的かつ社会的なテーマを中心に据え、子どもの純粋さと同時に残酷な側面、そして、いじめの標的となる当事者の個別の事情を、実話に基づいて、生々しく描く。

※能登半島の皆様にお力をお貸しください。
『赤い羽根共同募金 能登半島』の語句でご検索を。

鍵屋一「ひな型でつくる福祉防災計画 ~避難確保計画からBCP、福祉避難所~」(2020)◎災害対策の関連本

・第2回池袋みらい国際映画祭 地域審査員賞
・第3回ところざわ学生映画祭 グランプリと観客賞*別題Goblin
・福岡インディペンデント映画祭2018 優秀賞

・カナザワ映画祭2017 審査員特別賞[のびしろ賞]
会場:金沢21世紀美術館
金沢駅から徒歩33分(車で10分)

・第18回TAMA NEW WAVEコンペティション 特別賞[多摩商工会議所 会頭賞]
会場:ヴィータホール[ヴィータ・コミューネ8階]
聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩2分

・福井駅前短編映画祭2018 グランプリ[フェニックス大賞]
会場:テアトルサンク
福井駅から徒歩9分


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?