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白兎神、大いなる陰謀に巻き込まれ日の本を救いし物語5 鹿島神宮に至りしが、敵味方混在して事態が混迷せし話

とまどうわたくしに、毘沙門天びしゃもんてんは静かな声音でお答えになりました。

「いいや、おまえと遣いの男が会ったのは、おまえの神社で一度だけだ。それ以前には会っていない。あの男がなぜおまえを助けようとしているのかは今は話せぬが、鹿島へ着けばわかるだろう」

考え込んでしまいました。

あの遣いの男は、鹿島にいる「おかしら」の手下に間違いありません。

それなのに、その「お頭」や仲間を裏切ってまで、わたくしを助けてくれたのです。

わからないことばかりでございます。

わたくしは、本当に「お頭」やタケミカヅチノカミ(武甕槌神)が期待するような力を持っているのでしょうか?

どこから、どんな力を持ち帰ってきたのでしょうか?

あれ?

そんなすごい力を持っていたなら、もっとすごい神になれるのではないでしょうか?

でも……すごい神になっても、ちっちゃなウサギ神がそんなすごい力を使いこなせるとは思えません。

やっぱり、今まで通りに縁結びと皮膚病とフサフサの神でようございます。

黙りこくって歩いていたので、毘沙門天が心配になられたのか声をおかけになりました。

「不安なのか?」

(ご心配をおかけしたのかな?)

はっとして、急いでお答えしました。

「いえいえ、ちょっとわたくしの持っている力とやらのことを考えておりました。もし、そんなすごい力があったとしても、やはり今までのように因幡でのどかに縁結びやフサフサに御利益を与えるのが、わたくしの分相応だな〜と。あ、そうです! もしもっと力があれば、縁結びもフサフサももっと強力にできますから、これはこれでいいですよね」

少し嬉しくなってしまったわたくしの前で、毘沙門天が立ち止まられました。

振り返ったお顔にはあたたかい笑みを浮かべておいでです。

「あの……変なことを申しましたか?」

気恥ずかしい思いでもぞもぞとお尋ねしたら、毘沙門天は明るい口調でおっしゃいました。

「いいや、おまえはやっぱりいい神だと思ったのさ」

「はあ……それほど立派な者ではございませんが……」

お優しい笑顔とお言葉に、嬉しい反面、恐縮してしまいます。

毘沙門天は続けられました。

「鹿島で待たれているおまえの力は、あいにくだがあまり良い方へは使えないものだ。だが、おまえはそれとは違う大きな力を持っている」

「そうなのですか?」

わたくしは目をまん丸にしてしまいました。

毘沙門天は、おかしそうにお笑いになっています。

「その力のことは、この事件が解決したら、ゆっくり話してやろう」

また前を向いて、武器で偽りの空間を壊して進まれます。

ついてゆきながら、わくわくしてしまいました。

(わたくしには、どんな力があるのでしょう? ああ、これからはもっと幸せな縁結び、頑固な皮膚病の治癒、なかなか生えない毛のフサフサなどに御利益を与えられます)

異常事態の中でそんな事を考えられたのも、毘沙門天がご一緒で安心していたからでした。

やがて、また毘沙門天が立ち止まられましたので、わたくしも止まりました。

「いかがなされました?」

「着いたようだ」

辺りを見回しても穏やかな野原が続くだけの景色で、誰もおりません。

毘沙門天が愉快そうにおっしゃいました。

「武神も鳥もかなり苛立っているな。まあ、無理もない。どれだけ振り回されて歩き回ったのか、見当もつかん」

毘沙門天が武器を大きく振り上げられました。

「シロナガミミノミコト、俺の後ろへ回れ」

素早く背後に回ると同時に、先が三つに分かれた武器を今まで以上に大きく左右に動かされます。

瓦礫が崩れるような轟音が響き渡り、長い耳を伏せてしまいました。

目の前の風景ががらりと変わりました。

〝神の道〟なのですが、そこには怒り狂ったタケミナカタノカミ(建御名方神)とその頭に止まった鳥の姿がありました。

「タケミナカタノカミ、鉢巻きさん!」

わたくしは真っ直ぐ駆け寄りました。

二人とも唖然とした顔になってわたくしを見ておりましたが、すぐさま鳥が飛んできました。

「シロナガミミノミコト! 無事だったの!」

「はい、大丈夫です。毘沙門天と一緒に迎えに来ました」

鳥がはっとしたように、わたくしの後ろにおられる護法の神を見ました。

そして嘴を開きかけましたが、それより先にタケミナカタノカミが毘沙門天の前に行かれました。

「なるほど。仏教を守る護法神の中に金色の鎧冑をまとい三叉戟さんさげきを持つ強い戦神がいると聞いたが、おまえか?」

「古くからこの国に住む強い武神がいると聞いていたが、おまえがそうだな。会えてよかった」

満足そうにタケミナカタノカミをご覧になって毘沙門天がお答えになります。

諏訪の大神様は、大きく口を開けてお笑いになりました。

「噂通り、いや噂以上に強いな、おまえは。一目でわかる。ははは、俺も会えてよかったぞ。それに、シロナガミミノミコトを助けてくれたようだし。礼を言う」

「いや、俺が助けたわけじゃない。まあ、シロナガミミノミコトの神徳だ。俺も鹿島神宮へ行くが、その前に話しておきたいこともある。おまえたちの話も聞きたい。ちょっと座らないか」

毘沙門天が気持ちのよい草の上にお座りになったので、タケミナカタノカミとわたくしも座りました。

そして、鳥はわたくしの頭の上にとまっております。

きっと、また何かあったときに離ればなれにならないようにという心遣いなのでしょう。

「シロナガミミノミコト、二人ともおまえのことを案じていたのだ。諏訪から引き離された後のことを話してやれ」

毘沙門天に促されまして、これまでのことをお話ししました。

頭の上で鳥が身震いしました。

「何てこと! ああ、それでも無事でよかったわ〜。イワナガヒメとコノハナノサクヤビメには後でお礼を言わなくちゃね。その太郎坊って天狗にも……」

「まったくだ。俺のやしろで、しかもすぐ横にいたのに、このていたらく。一生の不覚よ。すまなかったな。だが、まさか富士山へ行ったとは……」

言葉をお切りになって、タケミナカタノカミは毘沙門天をご覧になりました。

お訊きになりたいことをすぐに察してくださったのでしょう。

毘沙門天は高尾山で天狗達とわたくしに話したことを、もう一度繰り返されました。

頭の上の鳥が、ずいと身を乗り出しております。

重いです。

「すると、あなたには〝軸〟がずらされた理由も、敵の正体も、この日の本ひのもとに起きている異変が何なのかも、シロナガミミノミコトが秘めている力も、わかっているのね。だけど言霊による発動を警戒して今は言えないと」

黙って毘沙門天がうなずかれます。

鳥とタケミナカタノカミが目と目を見合わせましたが、すぐに諏訪の大神様がおっしゃいました。

「そういうことなら、あえてこちらも訊くまい。鹿島へ行けば、わかるのだからな。親父殿のことも、あの性格から考えれば納得できるわ」

「信じてくれるか」

毘沙門天のほっとしたご様子を見て、タケミナカタノカミがにやりとなさいます。

「お互い、戦いを生業なりわいとする神同士だ。おまえが汚いまねなどしない奴だというくらい、すぐわかる。それに今の話、すべて筋が通る。まやかしとは思えん。おまけに、おまえはシロナガミミノミコトを助けてくれた神だ。充分信じられるさ」

「ありがとう」

鳥が姿勢を戻して尋ねました。

「あなたが、あの忌々しい迷路を外側から壊してくれたおかげで出ることができたけれど、鹿島神宮までちゃんと行けるかしら? また何か罠を仕掛けているんじゃないの? むしろ人間界の方が通りやすいんじゃないかしらね?」

毘沙門天は、タケミナカタノカミと鳥にお尋ねになりました。

「おまえたちを襲ってきた敵は、どんな連中だった?」

「シロナガミミノミコトと富士山の天狗を襲った奴らと、おそらく同種だ。さっきの話から考えても、同じような容姿で同じ技を使っている。強さも同等だろう」

「幸い、あたし達が組んでいたから敵を撃退したけれど……とんでもない置き土産を置いていってくれたわ」

迷路に放り込まれた悔しさを思い出したのか、鳥はむっとしています。

少し考えてから、毘沙門天がおっしゃいました。

「敵は〝神の道〟や神の領域に近い場所の方が動きやすい。いや、人間の世界では思うように動けないと考えてよかろう。鳥の言うように人間界へ出た方が鹿島へ行きやすいな」

わたくしは、首を傾げました。

「通常、魔性の者は神々の領域の方が動きづらいものですが、今回の相手は違うのですか?」

「すまないが、その点についても話せない。だが、敵がやってきた場所を考えてごらん。最初は、おまえの白兎神社にやってきた。次に諏訪へ向かう〝神の道〟で襲い、次いで諏訪大社の中で謎の生き物が飲み込み、高尾山近くの場所で襲いかかった。タケミナカタノカミと鳥が襲われたのも〝神の道〟でのこと。富士山の天狗が空中で見せられた歪みを敵の罠と思い込み、高尾山という聖域近くに作られた本物の罠に入り込んでしまったから、大勢の敵が襲うことができたのさ。もし天狗がお前を連れてそのまま鹿島へ飛んでいったら、敵の待ち伏せは失敗しただろう」

「あらま……それじゃ、わたくしたち、まんまと罠にかかっちゃったんですか?」

「そういうことだな」

今度は、タケミナカタノカミが相づちを打っておられます。

「そうでしたか。あの状況で太郎坊さんは精一杯わたくしを守ってくださったのですから、ありがたいことです。もう少しわたくしに知恵があれば敵の罠に気づいて、太郎坊さんをあんな危険な目に遭わせなかったのに……申し訳ないことをいたしました」

しゅんとしてしまったわたくしの頭の上で、鳥が明るく言いました。

「仕方がないわよ。あたしだって、その場にいたら太郎坊と同じように地上へ降りたわ。なんせ今回の敵みたいに、〝軸〟はずらすわ、空間は歪めるわ、どうやったのか虻まで支配する力を持ってってのには、お目にかかったことないもの」

確かにそうです。

本当にこんなことは、聞いたこともございません。

毘沙門天が苦笑されました。

「言い忘れたが、その虻の大群、鹿島の敵が力尽くで操ったのではない」

「うそ〜! んじゃ、他にもシロナガミミノミコトを狙っている奴がいるってえの?」

頓狂な声を上げる鳥だけではなく、タケミナカタノカミも当然わたくしも、ぎょっとして護法の神を見ました。

すると、なだめるように毘沙門天がおっしゃいます。

「今回の騒動を起こした敵は鹿島にいる奴だけだ。だが、その行動に賛同して自発的に動く者達がいる。おまえたちを襲った虻の大群も、その中の一団よ」

「賛同だと?……では他にも敵が増える可能性があるんだな?」

タケミナカタノカミのお尋ねに、毘沙門天はうなずかれました。

「そう多くはないが、この先にもいるかもしれん。注意しろ」

そうおっしゃって、いつもお持ちの武器を手に立ち上がられます。

そうそう、これ、三叉戟っていうんですね。

ようやく名前がわかりましたよ。

わたくしも勢いよく立ち上がり、タケミナカタノカミもお立ちになりました。

「んじゃ、あたしはこうするわ」

鳥の姿が消え、わたくし、また鉢巻きをしております。

それをご覧になった毘沙門天がにっこりされました。

「懐かしい姿に戻ったな」

「そうね、あなたに昔会った時は、あたし、鉢巻きだったわ。よくわかったわねって言いたいけれど、あなたほどの神なら、あたしの神気ですぐにわかるわよね」

「まあな」

簡単にお答えになってから、毘沙門天は諏訪の大神様の方をご覧になりました。

「俺が道を案内しよう。おまえは戦闘ではたいへんな強さだが、こういう呪的なことは苦手なようだからな」

「頼む。どうも面倒なことは、昔からダメでな。正面からつかみ合うか剣を交えるかなら、いくらでもやってやるが……」

「敵が出てきたら、まかせよう。シロナガミミノミコト、タケミナカタノカミから離れるな。それから鳥……鉢巻きか?……鹿島へ着くまでは、何があってもシロナガミミノミコトに巻き付いていろ。向こうに着いたら、おまえに活躍してもらうことになる」

「わかったわ」

鉢巻きが力強く答えます。

だんだん力がみなぎってまいりました。

いよいよ、鹿島神宮のタケミカヅチノカミ(武甕槌神)に会うのです。

(わたくしとて、この国の神。必ず鹿島の騒動を解決するお手伝いをいたします)

毘沙門天が歩き出されます。

すぐにタケミナカタノカミと並んでわたくしも歩き出しました。

三叉戟が縦に振るわれ、ぱくりと空間が開きました。

「人間界へ出るぞ」

毘沙門天に続いて、わたくしは緊張しつつも諏訪の大神様と共に人間の世界へ出たのでした。





すっかり夜は更けておりました。

どこかの街道のようですが、人の姿はありません。

そうですね、こんな時間に道を歩いていたら、とっても危険ですとも。

「ここは、どこだ?」

タケミナカタノカミが、わたくしの尋ねたいことを口にされました。

すると鉢巻きが答えました。

「江戸を抜けて下総に近いわね」

「ふむ。では、鹿島に近いのか?」

どうもタケミナカタノカミの地理的知識は、わたくしといい勝負のようです。

鉢巻きは注意深く答えました。

「この街道から考えて、このまま鹿島神宮へ行けそうよ。毘沙門天もそう考えたからこそ、ここへ出たんでしょう?」

すると毘沙門天が、感心したようにおっしゃいます。

「そうなのか。それは上々」

「へ? いや、鹿島への近道としてここへ出られたのではないのですか?」

わたくしはあわてましたが、毘沙門天はゆったりとお笑いになられました。

「どこへ出ても危険なことに違いはないから、適当に出たまでよ。あの強力な武神の神気をたどれば、嫌でも鹿島神宮へ行けるからな」

「なるほど」

タケミナカタノカミが感心しておられます。

いえいえいえ、そういうことじゃないんでは?

そんな行き当たりばったりで、よろしいのですか?

頭を抱えそうになったわたくしの頭の上で、鉢巻きがため息をつきました。

「なんつうか……似たもの同士よ、あなたたち……」

鉢巻きとわたくしのことにはお構いなしに、タケミナカタノカミが毘沙門天に問われました。

「敵の気配はあるのか?」

「今のところ無い。このまま進もう」

お強い二神が歩き出されたので、わたくしもあわててついてゆきました。

人気ひとけがないとはいえ、人間の歩く街道を堂々と行っていいものか、ちょっととまどっておりましたが、毘沙門天もタケミナカタノカミも平気なご様子です。

頭の上の鉢巻きも何も言いません。

この方々がなさることだから心配はないと思い、わたくしはちょこちょことついて歩いておりました。

おそらく合流して、気持ちが落ち着いたからだと思います。

ふと気になることが、心の中に浮かびました。

「あの〜、鉢巻きさん」

「なに?」

すかさず頭の上から、元気なお返事がありました。

「お二方が〝神の道〟に入られてから、雉さんに会いましたか?」

「雉? 文遣いふみづかいの? ……いいえ。雉がどうかしたの?」

「このように〝神の道〟が混乱していては、しょっちゅう行き来している雉さんたちが巻き添えを食って、ひどい目にあっているのではないでしょうか?」

わたくしの心配事に、鉢巻きよりも先に毘沙門天が歩みを止めずにおっしゃいました。

「大丈夫。雉は文遣いを停止して、自分の地元や遣いに行った出先で待機しているよ。〝神の道〟が元に戻るまで入ることはない」

「そうなんですか! よかった〜!」

「雉の神通力は、ふみを安全確実に先方に届けることに特化している。だから万が一にも届ける途中で文を無くしたり目的地に行けないような事態になりそうなら、いち早く察してその場で待機するんだ。神々も今頃は雉の様子から判断して、異変が起こっていることに気づき始めているだろう」

改めて感心してしまいました。

「あなたは、やはりすごい方ですね! この異変や敵のことも、オオクニヌシノミコト(大国主命)のお心のうちも、雉さんの安否も、すべてわかってしまわれるなんて……」

「たいしたもんだな〜」

タケミナカタノカミも、素直に感心しておいでです。

毘沙門天は並んで歩く諏訪の大神様に、小さくお笑いになられました。

「今回の事態は、いにしえよりこの地に住まう神ほどわからないのだ。それだけだ」

「さっきもそう言っていたな。ま、鹿島に着くまで訊けぬ話ゆえ、それまで楽しみにしておこう」

本当にさっぱりとした御気性の方です。

真っ直ぐで、お強くて、茶目っ気もおありで……。

年に一度は、出雲大社に来ていただきたいものです。

そうすれば、イワナガヒメもコノハナノサクヤビメもウサギを他国まで投げ飛ばすような乱暴な方ではないと納得してくださるでしょう。

二神が立ち止まられました。

わたくしの長い耳も、ピクピクしております。

不安と同時に、今まで感じたことも無い恐怖が体中に広がります。

「何でしょう、この音?」

びくつきながら問いかけてしまいました。

毘沙門天が振り返られ、左手でわたくしの身体を持ち上げてタケミナカタノカミの背中に押しつけられました。

「鉢巻き!」

毘沙門天の一言で、すぐさま鉢巻きがほどけて元の領巾に戻り、わたくしの身体にバッテンに巻き付きました。

しっかりタケミナカタノカミにおぶさって、鉢巻きにくくりつけられております。

状況について行けないわたくしと異なり、二神も鉢巻きもすっかり理解し合っているような行動です。

タケミナカタノカミがおっしゃいました。

「こうしておけば離ればなれにならん。鉢巻き、しっかり俺とシロナガミミノミコトを結びつけておけよ」

「当然よ」

悠然と鉢巻きならぬ今は「おぶい紐」となった領巾ひれが答えます。

毘沙門天が右手の三叉戟を両手でお持ちになり、諏訪の大神様は腰の大剣を抜かれました。

「これって……人間の足音のようですが……何か違いますよね……」

思い切って気になることを尋ねてみました。

毘沙門天が振り返られずにおっしゃいました。

「元は人間だった……今は違う」

わたくしの長い耳が、またピクリと動きました。

確かに弱々しいのですが人間の足音のように聞こえます。

でも「今は違う」ってどういう意味でしょう?

それでも、わたくしはそれ以上尋ねず、タケミナカタノカミの背中にへばりついておりました。

ええ、とても怖ろしく、不気味で仕方がなかったのです。

こんなに異様な恐怖を感じたのは、初めてです。

お強い武神達からも、たいへんな緊張感が伝わってまいります。

「御教訓集で倒しましょうか?」

小声で申し上げましたが、タケミナカタノカミは振り返られることなく、首を横に振られました。

「そいつは、敵が俺らよりも強い時だけ使えるんだろう? 強さでは、こっちの方が遙かに上だ。やっかいなのは……」

「数も多いし、戦いにくい相手だということよ」

毘沙門天が続けられます。

夜の闇の中に、前方から大勢の人々がのろのろとやってくるように見えます。

まだ遠いのではっきりとはわかりませんが、わたくしの鼻は臭いを敏感に感じ取りました。

「こ、この臭いって……」

あわてるわたくしに、タケミナカタノカが嫌そうにおっしゃいました。

「そうだ。死人しびとの臭いよ」

「で、で、で、でも……動いていますよ〜。こっちに来ますよ〜。それに……ひい〜」

小さな悲鳴をあげてしまいました。

音と臭いだけではなく、直接頭の中にやってくる者達の心の声が響いてきたのです。

 恐い……助けて……
 痛いよ〜……痛いよ〜……
 来るな、来るな……来ないでくれ……殺さないで……
 み、水……水を……
 苦しい……腹が……なんでもいい、食い物を……
 誰か……助けて……置いてかないで……
 どうしてこんな目に遭うんだ……何もしてないのに……
 いない……どこへ行ったの……坊や、どこ……

苦しみ、痛み、悲しみ、怒り、恐怖……いえ、そのすべてが入り交じった感情が、どっと押し寄せてきました。

「敵は自力ではかなわぬから、怨念ゆえに冥府へ行けぬ迷える魂や怨霊を、まだ朽ちきっていない死人の身体に入れて襲わせてきたんだ。おまえを俺たちから引き離そうと必死だな」

毘沙門天が三叉戟を正面で構えておいでです。

タケミナカタノカミも、切っ先を死人達に向けていらっしゃいます。

まだ遠いですが、だんだん近づいてくるのが闇の中でもはっきり見えます。

「いったいどこからこんなに……どうしてこんな思いを抱いて死ぬことになったのでしょう?」

迷える魂達の恐怖、無念、悲痛を感じながら、わたくしの胸も裂けそうなほど痛みます。

毘沙門天が静かにお答えになりました。

「この先は街道が途絶え、広い荒れ野になっている。そこに昔は村があったが、戦場から逃げてきた敗残兵や山賊に落ちぶれた武士達に襲われ、村人は全滅。逃げ惑い嘆願しても聞き入れられず、すべてを奪われ追われ無残に殺されてしまった。そのため斬られ撃たれた痛み、まだ息があっても助けてもらえずに死んでいった苦しみ、じわじわと迫り来る死の恐怖、それらが安らかな死を妨げ、今もこうしてさまよっているのだ。そのうえ、近辺の戦場跡や焼け落ちた城跡などに巣くっていた怨霊までかき集めてきたらしい」

「そして、そいつらの魂と野ざらしになっていた死体を利用して死者を冒涜し、汚れたまねをしているのさ」

吐き出すようにタケミナカタノカミが続けられます。

わたくしは泣き出したいのを、必死にこらえました。

あんまりです。

ただ普通に暮らしていたのに、突然そんな理不尽な理由で殺されるなんて……どれほど恐ろしく、痛く、辛い思いで死んでいったのでしょう。

可哀想などという言葉では、とても言い表せません。

「心配するな、シロナガミミノミコト。神に斬られれば、嫌でも冥府へ行く。この世の迷いを断ち切らせる」

毘沙門天が力強くおっしゃいます。

「死者を斬れば剣の汚れになるんだが、いたしかたあるまいて。こいつらをいつまでも生者の国においておくわけにはゆかん」

ぶっきらぼうにおっしゃいますが、タケミナカタノカミもこの亡者達を哀れみ楽にしてやりたいとお思いなのが、ひしひしと伝わってまいります。

わたくしはおぶわれたまま、そっと手を合わせました。

(お願いいたします。わたくしには何もできませんが、どうぞこの気の毒な魂達を安らかに……)

じわじわと死臭と気配が近づいてきます。

毘沙門天が、タケミナカタノカミにおっしゃいました。

「俺が道を開く。おまえはまっすぐ鹿島神宮を覆う結界の傍へ行け。俺もこの連中を冥府へ送ったら、すぐに後を追う。俺が追いつくまで、決して結界の中へ入るな」

「早くタケミカヅチノカミに会った方がよくはないか? 周囲にいる敵を蹴散らして結界を破るくらい、俺でもできるぞ」

とまどわれる諏訪の大神様に、護法の神がおっしゃいました。

「周辺に敵がいたとしても、こちらが圧倒的に強いから手出しなどできん。あの結界を壊すな。そんなことをすれば、すべてが台無しだ」

「ちょっとちょっと、結界を開けなきゃ入れないわよ。入るときに敵が侵入しないように、気をつければいいんだし」

元・鉢巻きのおぶい紐が口を挟みますと、毘沙門天がすぐにお答えになりました。

「あの結界は外部からの侵入を防いでいるのではない。一番の大物を中から出さないようにしているんだ。俺たちは外から楽に入れる」

「出さないようにって……配下はぞろぞろ出てきているわよ」

「それに中に敵がいるなら、どうしてタケミカヅチノカミは侵入を許したんだ? あいつなら自分の社に敵が入り込めば、すぐさま討ち取るだろうに」

驚くおぶい紐とタケミナカタノカミ、呆然としているわたくしに向かって、毘沙門天は早口でお答えになりました。

「敵の首領を押さえるのが精一杯で、隙間から小者が出て行くのまでは防げないんだ。鹿島のあるじもその配下の神も、首領を押さえて自分自身と鹿島神宮周辺の結界を維持するのがやっとでな。結界内は敵の手下が闊歩しているし、小者は自由に出入りしている。入れないのは、首領とタケミカヅチノカミがにらみ合っている場所だけ。それに敵は最初から鹿島神宮内にいた。外部から来たんじゃない」

「ちょっと待て! それではタケミカヅチノカミに気づかれないように、ずっと潜んでいたのか?」

さらに仰天する諏訪の大神様に、毘沙門天は急いで付け加えられました。

「いいや、鹿島の主は最初から知っていた。昔からだ。だが事態が急変して、気づいたときには他の神々に知らせる暇さえなかったんだ。話せるのはここまでだ。来るぞ」

目前まで死人の群れが来ておりました。

わたくしが身を縮めるのと、毘沙門天が大きく三叉戟をはらうのが同時でした。

そしてそのひとはらいで死者の群れの一部が消え去り、一本の道ができておりました。

すかさずタケミナカタノカミが走り出されました。

これまでに味わったこともない速さです。

太郎坊の比ではございません。

おぶい紐が押さえてくれなければ、わたくしの力でしがみついていても振り落とされていたでしょう。

やがてまた目の前に死人の群れが、壁のように立ちはだかります。

すかさずタケミナカタノカミが大剣をふるわれました。

そして、さっきと同じように大勢の死者が消え道が開かれます。

何とか後ろを振り向くと、毘沙門天のお姿は見えませんが、まばゆい金色の光が次々に死者を消している様子が見えます。

一瞬にしてこれだけの距離を進まれるとは、さすがはタケミナカタノカミでございます。

それでもいったいどれだけいるのか、死人は次々にこちらへ向かってきます。

その度に諏訪の大神様が剣を振るわれ、迷える亡者が消え去り、道が開けます。

そこを素早く進まれ、また死人がのろのろと立ちふさがり……。

同じ事を繰り返しながら前進を続けられ、どれほど時間がたったでしょうか。

途方もなく長いようにも、一瞬にも思えました。

突然、大剣ではらいつつお進みになっておられたタケミナカタノカミが、おっしゃいました。

「着いたようだ」

ええ、すぐに気づきましたとも。

目の前には巨大な薄明るい壁があり、この神気には覚えがあります。

「タケミカヅチノカミは大丈夫でしょうか? いくらお強いとはいえ、これほどの結界を……」

不安を感じているわたくしに、おぶい紐が明るく答えました。

「こんだけの結界を張れるってことは、まだ大丈夫ってことよ。本当に弱ったり危険な状態なら、結界自体が力を落としているわ」

「そういうことだ。それに見ろ。死人らも近づいてこない。あいつの力を畏れているんだろう。あいつは健在だ」

死人の群れが離れたところでうろうろしております。

立ち去るわけでもなく、かといって近づくこともできず、という感じです。

「妙ですね。タケミカヅチノカミとあなたのお力は互角。それなのに、あなたには襲いかかってきて、鹿島神宮には近づかないなんて……」

わたくしがぽつりと口にすると、おぶい紐が考えるように応じました。

「そうなのよね〜。それにずっと気になっていたんだけど、どうしてシロナガミミノミコトにわざわざ遣いを送って偽手紙で呼び出そうとしたのかしら? だって、あれだけ自在に空間を歪めて出入りするような連中よ。最初から白兎神社周辺の空間を操作してさらえばいいのに……」

「言われてみればそのとおりだな」

抜き身の大剣を手にしたままタケミナカタノカミもうめいておいでです。

わたくしも今まで気づかなかった謎を指摘されて、首を傾げておりました。

後で思えば、この時のわたくし達は離れた所でうろうろしている死人の群れには注意しておりましたが、結界側への警戒は薄れておりました。

そうです、後でわかったのですが、襲ってこなかったのは注意をそちらに引きつけるためだったのです。

あれこれ考えているうちに、わたくしの背中からおぶい紐の感覚が消えました。

「あら? 鉢巻きに戻るんですか?」

問いかけようとして気がつきました。

わたくしの前にあったタケミナカタノカミの背中がありません。

「ええ〜!」

がらりと風景が変わっています。

辺りは、広い立派な神社の境内になっているではありませんか!

「ここって、まさか、鹿島神宮の中?」

タケミナカタノカミもおぶい紐も消え、わたくしだけがふわふわと鹿島神宮の境内を何者かに引き寄せられるように後ろ向きに飛んでおります。

「タケミナカタノカミ〜、鉢巻きさ〜ん、毘沙門天〜」

必死に呼びましたが、答えはありません。

ジタバタと動き結界の外へ出ようとしましたが、いくら手足を動かしても身体が前に進まないのです。

「どうして、こんなことに〜。ど、ど、どうしよう〜」

泣きそうになって手足をばたつかせておりましたが、すぐに立派な境内にはそぐわない、粗末な小屋のような建物へ吸い込まれてしまったのです。




やがて薄暗い小屋の床に、身体が着地しました。

わたくしは、急いで梨割剣の柄に手をかけて辺りを見回しました。

「ご心配なさらずに、シロナガミミノミコト。お待ちしておりました」

少し離れた片隅に、白いかみしもを着た若い男が立っておりました。

「だ、誰だ?」

わたくしは梨割剣を抜いて構え、震えながらも必死に問いかけました。

若い男は丁寧にお辞儀をしてから、わたくしに笑いかけます。

「どうぞご心配なく。私はタケミカヅチノカミにお仕えしているトオミノミコトという下級の神でございます」

疑い深くじっと見つめてしまいましたが、すぐに剣を鞘に収めました。

「失礼しました。この神気はまぎれもなくこの国の神のもの。ここまでいろんなことがございまして、つい疑い深くなってしまいました。ところで、あなたがわたくしをここへ引き入れたのですか?」

トオミノミコトは、ゆっくりと首を横に振りました。

「いいえ。あなたをタケミナカタノカミとおぶい紐になった鳥の間から引き離したのは、敵の仕業でございます。奴らはだんだん小賢しくなってきて、大きく空間を歪めるだけではなく小刻みに移動させる術まで身につけてしまったようです。巧みにあなたの周囲だけを切り取るように歪ませ、この境内に引き込んだのです。それに気づいたゆえ、すぐさま敵の手を遮断し私の力でここへお連れしました。私は元々ここに古くから住む土地神で、空間操作は本来私の技でした。きゃつらはそれを長年かけて覚え、今回悪用しているのです。でも、この地では私の方が巧みに操作できます。もっとも正面からの戦闘となりますと、武神ではありませぬゆえ太刀打ちできませんが……」

若く見えますが、相当な高齢のようです。

もっとも神の見た目は、本当の年齢と一致するとはかぎりません。

「危ないところをありがとうございます。恩人に剣を向けるなどとは、たいそう申し訳ないことをいたしました。お許しください」

丁寧に頭を下げますと、トオミノミコトはあわてて答えました。

「とんでもございません。幾度も危険な目にお遭いになって、用心深くなるのは当然でございます。かようなことに巻き込んでしまいまして、申し訳ないと思っております」

その口ぶりに、わたくしは首を傾げてしまいました。

「まるでこれまでのことを、ご存じのような感じですね」

「はい。私は名前の通り〝遠見〟をする神。我が主の命により、ずっと見ておりました。残念ながら因幡までは見透せませんでしたが、あなたが三輪山を出立されて以来、私の視野に入られましたので、ひたすらご無事をお祈りしつつおいでになるのを待っていたのです」

わたくしは、トオミノミコトに近づきました。

「それにしても、なぜ、わたくしは呼ばれたのですか? この社にいる敵とは何者です? なぜこのような事態になったのですか?」

「申し訳ございません。そのお尋ねには、まだお答えできないのです。あなたが直接、我が主にお会いになられてからでなければ、お教えできません」

「毘沙門天もそうおっしゃいましたっけ。鹿島神宮の中に入れば、もういいのかと思いましたが……」

「すみません」

「いえいえ、いいんです。タケミカヅチノカミにお会いすれば、わかるんですから。案内を願えますか?」

なぜか、トオミノミコトが頭を下げてしまいます。

「重ね重ね申し訳ございませんが、タケミナカタノカミとあのイザナミノミコトの領巾の化身の鳥、そして毘沙門天がおいでになるまで、お待ちください。全員が揃わないと危険なのです」

丁重に頭を下げられ、こちらの方が申し訳ない気持ちになってしまいました。

「どうぞお気遣いなく。そういうことでしたら皆様を待ちましょう。えっと、他の方々がどこにおられるか、見えますか?」

「はい。タケミナカタノカミと鳥は、あなたを追ってすぐに神宮の中へ入られ敵の配下と交戦中です。毘沙門天はもうすぐ決着がつかれるでしょう。もう少々お待ちくださいませ」

わたくしの頭に、ふと疑問が浮かびました。

「あの〜、わたくしだけではなく、タケミナカタノカミと鳥さん、それに毘沙門天がおいでになることも、計画されていたのですか?」

「いいえ、最初は計算外でした。そもそも我が主は、あなたをお呼び出しするつもりなど毛頭無かったのです。ところが敵の首領があなたを呼び出そうとしていることに気づき、急いでご自分の念も偽のふみにこめ、苦肉の策であなたに先にお会いしてお力を分けていただこうと考えたのです。詳しい事情をお知らせすることもできぬゆえ、敵の文とはいえ何とか気づいて欲しいと願っておりました。途中でお強い神々や神気の強い鳥がご一緒しているのを見て、ほっとしました。ええ、あなたを待っている間に事態は刻々と悪くなり、どうしても非常に強い神々のお力も必要となってしまいました」

「どうしてまた……ああ、そうですね。皆様がおいでになって、タケミカヅチノカミにお会いするまで訊けませんね」

ほうと息をつくわたくしに、トオミノミコトはまた頭を下げました。

「おいでくださって、ありがとうございます、シロナガミミノミコト。あなたがおいでにならねば、日の本は滅びるところでした。どうぞ我らの国をお救いくださいませ」

「……は?」

経験したこともない出来事が続いてきましたが、いえいえ、そこまでいきますか? 

日の本が滅びる? 

それをわたくしが救うのですか?

「わたくし、ただのウサギ神ですよ? 縁結びと皮膚病とフサフサに御利益を与えるだけの、ちっちゃな地方のウサギ神ですよ? そんな、日の本を救うなんてだいそれた……ああ、理由はまだ教えていただけないんですよね……はふ〜」

思わず盛大なため息をついてしまったためか、トオミノミコトがあわてました。

「申し訳ございません」

「いいえ、謝らないでください。こちらの方が恐縮してしまいます。とにかく、皆様がおいでになるまで待ちましょう」

すとんと土間に座りました。

安心したように、トオミノミコトはわたくしを見ております。

「粗末な場所ですみませんが、ここは唯一安全な場所ですから少しお休みください。私は他の神々のご様子を見ておりましょう」

また遠くの方を見るような姿勢になりましたので、わたくしはゆっくりと小屋の中を見回しました。

どうやら厨房に使われているような小屋でございます。

トオミノミコトが、遠見をしながら言いました。

「ここは敵には盲点となる場所。どうぞ心して穏やかなお気持ちでおいでくださいませ。恐れ、怒り、憎しみなどの〝負の感情〟をお持ちになると、敵に感づかれてしまいますゆえ……」

なぜだろうと思いましたが、問いかけても答えてもらえないとわかりますので、無難な問いをいたしました。

「ここは厨房ですよね? 普段はこちらでお食事をお作りになっているのですか?」

「いいえ、たいていはもっと本宮に近い場所にある厨房を使っております。こちらは臨時に使う場所なのです」

「おやまあ。いくつも厨房をお持ちとは、さすがは大神様のお住まいですね。お祭りとか、大勢のお客神がおいでのときにお使いなのですか?」

何気なく尋ねたのですが、トオミノミコトも簡単に答えました。

「こちらは狩の獲物を調理するときに使っているのです。タケミカヅチノカミは元は天津神。たいへん血の汚れを嫌われますので、狩で仕留められた獲物はここで捌いて調理し本宮に運ばれるのです。そのために敵もまさかここに私が潜んでいて、あなたをお迎えしているとは気づいていないのです。血の汚れがある場所に神々が集うなど、通常では考えられないことですから」

「そうですよね」

トオミノミコトは、間を持たせるつもりなのか愛想良く続けました。

「我が主は、たいへん狩がお好きでして、よくおでかけになるのです。獲物を捕らえておいでになるので、調理係の神がここで捌き血の汚れを浄めてからいろいろなお料理にお作りして差し上げるのです。特にウサギの炙り肉が好物でいらっしゃいます」

「ウサギの炙り肉!」

思わず悲鳴をあげたので、トオミノミコトがはっとしたようにわたくしを見ました。

「ああ〜、いえ、普通のその辺りにいるウサギでして……あなたではありませんので……大丈夫ですから、怖がらないでください。ああ、何てことを言ってしまったのか!」

うろたえ、必死になだめていますが、わたくしはガタガタと震えてしまいました。

ええ、この頃はほとんどタケミカヅチノカミのことを知りませんでしたし、「ウサギの炙り肉」と聞けば脅えるのは、わたくし、ウサギですから当然ですよ。

「大丈夫です! あなたを調理するのではありませんから、怖がらないでください。ああ、恐怖の感情が……」

悲痛な声になったトオミノミコトの様子に、わたくしも必死に恐怖心を押さえようとしました。

しかし、どうしても厳めしい武神の姿と火の上で長い串に縛りつけられ炙られているわたくしの姿がはっきりと目の前に浮かび、ふるえがおさまりません。

「どうぞ脅えないでください。奴らは恐怖の感情にすぐに……しまった!」

トオミノミコトが悲鳴をあげて、ぐいとわたくしの腕を引っ張りました。

「敵が来ます。こちらへ」

わたくしは引き摺られるように、厨房の片隅にある大きな桶の傍へ連れて来られました。

トオミノミコトは、被せてあった菰をはずしました。

すると、桶の底がぱっくりと抜けていて、地下まで縄梯子が揺れています。

「ここから逃げます。先に降りてください」

言われるままに、わたくしは必死に縄梯子を降りました。

トオミノミコトはまた内側から菰を被せ、わたくしに続いて降りてきます。

どこへ行くのかもわからず、恐ろしさに震えつつも降りていくと、やがて固い場所に足が着きました。

すぐにトオミノミコトも傍に降り立ちます。

「こちらへ」

てきぱきと誘導されて、わたくしはそれまで気がつかなかった横穴に入り、トオミノミコトに続きました。

真っ暗でしたが、ちゃんと見えます。

簡単に地面の下を掘った横穴のようです。

狭い通路でしたが、わたくしには充分な広さです。

トオミノミコトはあちこちに身体をぶつけていました。

見えないのではなく、ウサギよりも大きい神には狭かったからです。

それでも、ようやく木の梯子が立てかけられた場所に着きました。

「先に上って、安全でしたらお呼びします。万一、敵がいるようでしたら、私が敵を引きつけますので、あなたはタケミナカタノカミの神気を辿ってそちらへおいでください」

「危険すぎますよ。あなたはどうなるのですか? 敵がそっとしておいてくれるとは思えません。わたくしも戦います」

あわてるわたくしに、トオミノミコトは厳しい表情を向けました。

「あなたに恐怖心を抱かせてしまったのは私の落ち度。それにあなたが敵の手に落ちれば、この国は滅亡します。どうぞご無事で我が主に会ってください」

それだけを言い捨てて、トオミノミコトはさっさと梯子を登ってゆきました。

わたくしは呆然と見上げていましたが、土地神は出口を覆っている木の板のような物をそっと持ち上げて周囲を見回し、さっと外へ出てしまいました。

どきどきしながら見上げているうちに、また板が持ち上がり、トオミノミコトが顔を出しました。

「大丈夫です。こちらへ」

わたくしは大急ぎで梯子を登り、トオミノミコトが持ち上げている板の隙間から外へ出ました。

確かに敵の気配がございません。

穴の外は境内の林の中でした。

「タケミナカタノカミが敵を蹴散らして移動しておいでです。そちらへ行って合流しましょう。毘沙門天もこちらへ向かっていらっしゃいますから、皆様を我が主の許へご案内いたします」

鹿島神宮の中を知り尽くしている神が一緒なのは、心強い限りです。

歩き出したトオミノミコトに続いて、わたくしも辺りを警戒しながら進みました。

無言で歩いておりましたが、ややあってトオミノミコトが突然立ち止まったので、わたくしはぶつかってしまいました。

「すみません。どうかしましたか?」

謝りつつも嫌な予感に襲われたわたくしに、トオミノミコトが怪訝な表情を向けます。

「おかしいんですよ。敵の気配が消えています」


 つづく


次回はついに味方を裏切ってまでシロナガミミノミコトを助けた男の真意が明らかに。

そしてタケミカヅチノカミに会い、こんがらがった事態が次第に明らかになります。

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