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豊かさと孤独#68

現在21時46分。先ほど、コーチ仲間たちと「中動態の世界 意志と責任の考古学」の読書会を終えたところ。

今、とても豊かな気分だ。豊かな気分というのはどこか満たされている感覚のことを指していると思う。

なぜ、豊かだったのだろうか。

それは、誰かと時間と空間を共有しているという感覚があったからなように思う。ただどこかそのことを不思議に思う自分もいる。

地球という視点から自分を見た時、自分が何をしていようが自分という存在は何かと時間や空間を共有しているはずだからだ。

では、この繋がりを感じる正体は何だろう。ついつい正体を明かしたくなってしまう自分がいる。そう思うのは、わからないことが気持ち悪いという自分がいるからだろう。その自分は、自分ならなんでもわかると思っている節がある。

そもそも世の中にはわからないことだらけだ。

この前提で生きていきたい。わかった気になるということは、そこで歩みが止まってしまうように思うからだ。わからないからこそわかろうとする。ずっとわからないままでいたい。それが人とともに生きたいと願う自分の意志だ。意志というものが幻想だったとしても、今はその幻想に魅了されることを選択したい。

一方で、わかった!という心地よさも時には大事だろう。それは先ほど感じた豊かさの一つでもあるように思うからだ。そうやって、わかった、わからないを繰り返して、少しずつ人との距離を近づけていきたい。

人とともに生きたいというのは、ただ物理的な意味で人とそこにいたいわけではない。人との関係性を深めていきたいのである。人と人との間に生まれる美しさを多分自分は知っているし、それを感じていきたい。もしかしたら自分にとっての豊かな時間とは、その美しさを見ること、感じることなのかもしれない。

あぁ、最近つくづく思う。世に言われる「時間は有限である」ということを。

少しでも豊かである時間を過ごしていきたいと思う。

なんとなく今日読んで本と関連する本である「責任の生成ー中動態と当事者研究」で引用されていたハンナ・アレンとの「孤独」の定義を置いておきたい。

孤独とは私が私自身と一緒にいること。(中略)自分自身と一緒にいられない時、人は誰か自分と一緒にいてくれる人を探し求める。その時に人が感じているのが寂しさだ、と。(p.421)

孤独であることは寂しいことではない。むしろ、孤独ではない時が寂しいのだ

そう思えば、豊かな時間とは、孤独な時間であるのかもしれない。孤独を愛せれば、人から愛されるのか。どうしようもなく人から愛されたいと願う自分もいるなと感じる。もうすでにたくさん愛されているはずであるのに。

2021.12.10.22:08

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