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スタイルを持つということ

写真家には自身の構図のスタイルがあり、小説家には自身の文体のスタイルがあり、イラストレーターには自身の画風のスタイルがある。

蝋燭職人には編み出す火のスタイルがあり、音楽家には紡ぐ音のスタイルがあり、冒険家にはその一歩のスタイルがある。


創造的なものをつくりだす人々や、冒険的な道をきりひらく人々には、無形文化遺産的なスタイルが備わっている。これは市井の人々ーもちろん僕をも含めてではあるがーが概して持っている「自説」のようなものとは一線を画すものだ。僕も持っているし、きっとあなたも持っているささやかな自説ー例えば、お好み焼きは大阪風、だしは薄め、というようなーとは違い、「スタイル」はその創造的人格を創造的たらしめる(”クリエイティブ”という言葉は嫌いなのでここでは使いません)、いわば土台である。スウェーデンにとっての酢漬けニシンのように。


これは創造的な闘争をゆく、創造的人格を手に入れんとする人々ーこちらも、もちろん僕を含めてーなら賛同頂けると思うのだが、自身の「スタイル」の欠如に対する劣等感なり焦燥感はなかなか容易に乗り越えることのできないものだ。自分がなんとなく「創った」ものの文脈性の無さ、温もりの無さに大きなため息が出る。もちろん、世界的な写真家の伝説的な構図を取り入れたり、珠玉の小説の一節をオマージュしたりすることは出来る。そのときは「よし、僕もこんなふうな素晴らしい作品を作ってやるぞ」というアドレナリンに後押しされるものだが、できあがったものを目の前にすると、なんだかよその子のような気がしてくるものだ。自分の手で作り出したものであるのに、そう見えるだけで空っぽであるように思える。


結局「スタイル」を持つためには、自分自身を生きる、これに尽きると思う。

そんな創造的闘争も、大いなるものに対するコンプレックスも、なにひとつ作る気の湧かない今日も、全部ひとまとめにして、いつかの自分の「スタイル」の養分にしていくしかないのだ。その果てしない無スタイル性を抱きながら、日々を、自分を生きていくしかない。


深夜にこんなことを考えていたら、マスタード漬けのニシンが食べたくなった。あのヴィネガーの効いた、黄色く光沢がかった小さな白身魚を、硬めの黒パンに乗せて、硬めのゆでたまごと一緒にサンドイッチにして、、、

いけないいけない、もう寝よう。


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白青研究所(siroao institute)

書くことのハードルを下げたいので、ちょっと短めに、ラフに書いていく営みをしようかと。ゆるりとね。シリーズ名なんにしよう。「義務文」とか?「おつまみエッセイ」は芸がないな。うーん、決まったらフォーマット作ろう。

今日のsiroao

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