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沖縄の城跡紹介〜首里城編〜

沖縄の中心地として栄えた首里にある首里城は、琉球王国の中心地であり、王族の居城として栄えた歴史的建造物です。

火災が起きる前の首里城

琉球王国は、日本と中国の文化が一致した独自の文化を持つ歴史ある王朝です。琉球王国は、三つの王朝時代に分かれており、最初の王朝である第一尚氏王統が、沖縄の南部地域を統一したことで始まりました。

まずは第一尚氏王統のから探ってみよう。
*あくまで私が調べった今の時点での結果です。
全てが本当か私自身、歴史なので確信はしていません。

第一尚氏王統の系図

  1. 王命 尚思紹・在位年代 1406~1421年・在位年数16年

  2. 王命 尚巴志・在位年代 1422~1439年・在位年数18年

  3. 王命 尚 忠・在位年代 1440~1444年・在位年数5年

  4. 王命 尚思達・在位年代 1445~1449年・在位年数5年

  5. 王命 尚金福・在位年代 1450~1453年・在位年数4年

  6. 王命 尚泰久・在位年代 1454~1460年・在位年数7年

  7. 王命 尚 徳・在位年代 1461~1469年・在位年数9年

この様に第一尚氏王統は第7代までとなっております。

それでは順番に紹介していきます。

初代國王 尚思紹王(しょう ししょうおう)

琉球国中山王で、居城は佐敷城。
琉球王国の第一尚氏王統・初代国王・在位:1406年~1421年。
父は鮫川大主(さめかわうふぬし)、母は大城按司の娘、祖父は伊平屋島の屋蔵大主である。1406年、長男・尚巴志が中山王・武寧を滅ぼし、明の永楽帝に遣いを出して父である思紹が中山王となったと言われている。

中山王 武寧(ぶねい)

中山王武寧ぶねい、1365年〜1406年頃で 在位:1396年- 1405年位。
琉球の歴史書に登場する王である。1404年に、明の永楽帝が冊封使を派遣し、武寧は中山王に琉球で初めて冊封された。先代王の察度王が初めてである、とする説もある。

察度王統最後の王であり、先代の察度王の息子である。武寧が国王になってから約10年経った1405年、沖縄統一を目指す尚巴志・尚思紹親子が襲来し、武寧の部下などは、なんと尚巴志・尚思紹親子側に味方した。結果的に、武寧は戦いに敗れ、居城である浦添城を下城した。その後の行方や墓の所在は分かっていない。その際、尚巴志は「父思紹は武寧の子である」と称して明に使いを出しています。

1416年、琉球王国初代國王 尚思紹王(しょう ししょうおう)は
、諸国の按司と連合を結び北山王を攻めてこれを滅ぼします。

按司(あじ)

按司とは、地方の支配者のことで、今でいう市町村長のようなものです。
ちゃんとした称号なので王族の王子や按司の長男などがその地位に就きました。
名前の由来は色々ありますが、一つの例として、
『昔琉球には天帝子という人物がいて、三男二女をもうけた。長男は天孫といい、国君(王)の始めとなり、次男は按司(諸侯)の始めとなり、三男は百姓(平民)の始めとなった。と言う説があります。
その地方地方の按司が結成し「今帰仁を中心とした北山」「浦添を中心とした中山」「大里を中心とした南山」の三大勢力が出来上がtたとされています。
この時代の事を「三山時代」といいます。


そして話は戻りまして、1416年に尚巴志・尚思紹親子が諸国の按司と連合を結び北山王を攻めて北山が滅びることになります。


北山王 怕尼芝王(はねじおう)

怕尼芝王は、14世期、琉球の後北山王国の初代国王。英祖王統の初代英祖の次男の湧川按司の曾孫。父は湧川按司一世の次男の湧川按司二世。
怕尼芝王は、親川城を拠点に沖縄本島北部の羽地(現在の名護市北西部)に勢力を築き、兼次(はにし)按司と称した。名の怕尼芝は、羽地の当て字と考えられている。1322年に父の湧川按司二世の兄で今帰仁城を統治していた今帰仁按司一世の長男の仲昔今帰仁按司丘春の長男で怕尼芝にとっては従兄弟の子にあたる今帰仁仲宗根若按司を破り、自ら北山王(後北山王)を自称し北山王国(怕尼芝王陶)を建国し、以後は今帰仁城を本拠とした。

北山王 攀安知王(はんあんちおう)

怕尼芝王統・2代目王、珉の長男。
怕尼芝王統最後の王!
尚巴志との戦いで臣下の裏切りもあり、居城の今帰仁城にて自刃、その生涯を終え、北山王国は滅亡した。北山 攀安知王を倒し、北山監守の居城として、
次男の尚忠を北部の抑えにしたと言われています。

そして1421年に父の尚思紹王が薨去し、長男の尚巴志が1422年に中山王の座に続位したと言われています。

第2代目国王 尚巴志王(しょう はしおう)

初代国王、尚思紹と美里子の娘の長男として生まれる。父の初代国王、尚思紹は、「苗代大親(なわしろうふやー)」ともいわれていたらしいです。

1421年に父の尚思紹王が薨去し、長男の尚巴志が1422年に中山王の座に続位したと言われています。そして1429年には、南山王 他魯毎を滅ぼし、

南山王 他魯毎(たるみー)

他魯毎は、大里王統・南山王汪英紫の次男汪応祖の長男とされる。汪応祖が伯父に殺害されたため、按司達と協力してこれを滅ぼした。1415年、明の冊封を受け南山王に即位した。私の知る情報では彼は、横暴な王で毎日政治を省みず酒色に耽ったという。民や按司らに対し酷薄な王であったと言われてます。
そして1429年、第2代国王 尚巴志に滅ぼされ、南山王国は滅亡した。

そして第一尚氏王統、琉球王国最初の王朝を統一し築かせました。
在位中は首里城を拡張整備し、あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。そして那覇港の整備にも力を入れ、明(中国)をはじめ日本・朝鮮・南方諸国・海外諸国との交易を盛んに行い、琉球王国の繁栄の基礎をもたらしたとされています。日本や明の交易船から鉄を買い求めて農具や武器をつくり、そして生産力や軍事力にも力を入れていた様です。農民たちは尚巴志を敬うようになったとのことです。
尚巴志には鉄に関する伝承が残っていて、少年の頃に鍛冶屋に3年がかりでつくらせた愛剣がありましたが、大和商人から求められ船一杯の鉄塊に変えたとも言われています。

第3代目国王 尚 忠(しょう ちゅうおう)

尚 忠王は、琉球王国の第一尚氏王統・第3代目国王
父:第二代目国王 尚巴志王、母:眞鍋金(マチルギ、伊覇按司一世の長女)
第二代目国王尚巴志の次男。尚巴志王が今帰仁城の攀安知王(はんあんちおう)を滅ぼして北山王の領土を併合すると、初代北山監守となった。1439年に尚巴志王の死去により即位した。尚忠王は使者を派遣し馬、貢物を入貢した。またジャワにも使者を派遣し、胡椒・蘇木を買わしめたり、南方貿易にも力を入れた。在位わずか5年、54歳のとき崩じたと言うことです。

第4代目国王 尚思達王(しょう したつおう)

父:尚忠王と、母:勝連城主の娘の子である。
1444年、父尚忠王の死去により第一尚氏王統・4代目王に即位。
1445~1449年・在位年数5年で第4代目国王を終えたとされています。
尚思達王宝形の後、王位は叔父の尚金福王が継いだ。

第5代目国王 尚金福王(しょう きんぷくおう)

第二代目国王尚巴志の子であり、尚忠王の弟。前王・尚思達王の叔父にあたる。
1449年、甥の尚思達王の死去により第一尚氏王統・5代目王に即位とされています。
長虹堤(ちょうこうてい)」の建造…1451年、明(中国)からの冊封使を迎え入れるため、浮島と呼ばれる小港・那覇を貿易港として整備し、現 那覇市松山付近にあった伊辺嘉麻(いべがま)から崇元寺付近(那覇市泊)までの間に「長虹堤(ちょうこうてい)」と呼ばれる約1kmの堤防と橋からなる堤道を建設させ首里との道を繋いだ人物とされている。当時の安里川、国場川流域は点在する小島の集まりであったが長虹堤の建造により、港・那覇の人口が増加するとともに埋め立てが進んだ。特に明治以降の埋め立てにより現在の形となった。
そして尚金福王の崩御に伴い、息子の志魯と弟の布里が王位を争い「志魯・布里の乱」を引き起こした。悲しい乱である。。。

第6代目国王 尚泰久王(しょう たいきゅうおう)

第二代目国王 尚巴志の子で、越来間切を与えられて越来王子とも呼ばれていたそうです。この時に金丸(後の第二尚氏系統の初代王 尚円王)を見出して取り立て、尚思達王府官僚として推薦している。尚金福王が死去した後の後継争いである志魯・布里の乱で、双方が共倒れになったことから、金丸や阿摩和利らの推戴により第6代目国王として即位した。第5代目国王 尚金福王の弟である。
尚 泰久王は色々なお話があるので、また後日UPします

第7代目国王 尚 徳 王(しょう とくおう)

尚徳王はは、第6代目国王 尚泰久王の第三王子として1441年に生まれた。
父が亡くなった後、庶子でありながら長兄の金橋王子を退けて即位した。金橋王子の母は王妃であったが、謀反の嫌疑をかけられた護佐丸の娘であったことから、即位できなかったと見られている。翌年には、明(中国)から冊封を受けた。

マラッカに使者を派遣し交易を始め市場を拡大させた。北は日本・朝鮮や、南はマラッカ・シャムなどと琉球は中国交易を中心とした大交易時代でもあったのだ。

1466年に国王自ら2千の兵を率いて喜界島へ親征し、琉球王国の版図に加えた。国王自ら軍を率いて討伐に向かうのは、祖父の尚巴志以来のことであった。この遠征の強行・傲慢な政策によって重臣らの信頼を次第に失ったのが、死後の政変に繋がっていったと考えられている。その同年に芥隠承琥を使節として足利義政に送った。翌年、朝鮮にオウムや孔雀を贈った返礼として、方冊蔵経がおくられた。他に、安里八幡宮・神徳寺・天界寺を創建した。

1469年、29歳で薨去した。死後、金丸(後の第二尚氏系統の初代王 尚円王)らのクーデターにより世子は殺害され、正室と側室の一族の多くが追放、ないしは殺害されたと言う。第一尚氏の忠臣の越来賢雄も討たれ、北山監守も離散するが、第一尚氏係累が尽く誅戮されたと言う訳ではなく、首里城直近にあった第一尚氏廟寺慈恩寺で親族が尚徳への泣哭を行っていたと言う記録も残っている。

那覇市識名には尚徳王御陵跡があり、大型石碑が建立している。


第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)は、尚巴志(しょうはし)が1406年に樹立してから第一尚氏王統7代、64年間続きました。
 この王統時代には、港のあった那覇と首里城とをむすぶ長虹堤(ちょうこうてい)が築かれたほか、神社仏閣の建立や龍潭(りゅうたん)の建設、「万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)」がつくられるなど、首里城は琉球王国のシンボルとして着々と整備されました。
 また、察度(さっと)王統より築かれてきた冊封(さくほう・サップウ)体制や、東アジア・東南アジア諸国との貿易も積極的におこなわれ、海外進出が琉球王国の重要な外交政策として展開された時代でもあります。



人間の歴史には戦争や争いがたくさんありましたが、今では多くの国が平和で共存しています。

戦争や争いは、多くの場合、相手を完全に否定するような考え方から生じます。しかし、相手の立場や思いに耳を傾けることで、お互いの考え方を尊重し、対話や協力が可能になることで、お互いが受け入れることができ、平和的な共存が実現する世界になっています。私たちは、過去の戦いや衝突から学び、自分たちや社会について考え、皆で成長していく必要があります。自分自身の生き方や価値観を見つめ直し、未来をよりよくするために何ができるかを考えることが重要です。
そして、平和な世の中へつなぐためには、お互いの立場や思いに対して理解を深めることが大切です。私たちは、これからもお互いを尊重し、協力しながら、より平和な世界を守っていくことが求められています。

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