見出し画像

生きる作法

批評とか評価とか批判とか評論とかしないで生きられるといいと思う。判別はするけど判定はしない態度は美しいと思う。

それはとてもむずかしい。他人を批評したくないと思うと、つい他人をシャットアウトして閉じようとしてしまう。下手をすると人間そのものが無価値に思えてしまうほどに、心を閉じてしまう。

触れなければ反応しないで済むので、触れない。ひとりぼっちでいれば、汚い心も生まれない。
だけど、汚い心以外のものも、何ひとつ生まれない。自分も他人も無価値になっていく。
無価値なまま生きるのは辛い。

触れ合って、何かを生み出していることが生きることなのだと思う。汚いものを生み出さずに、綺麗なものだけ生み出すことができれば、人は幸せになれる。
綺麗なものだけ生み出そうと努力することが、精進するということなのかな、と思う。

とてもシンプルに聞こえるけれど、実際はとても複雑なことだ。何が綺麗なもので何が汚いものなのかがまずわからない。次にその綺麗なものや汚いものがどのように生まれているのかがわからない。更には汚いものが生まれないようにする方法がわからない。ひとつひとつわかっていくためにはトライアンドエラーを繰り返すしかないのだろう。

しかも、必要なトライアンドエラーの回数は夥しいもので、本当にわかるためには必要充分な数のトライアンドエラーをすべてこなし終えなければならないのではないかと、思うようになった。
なぜなら半世紀の間トライアンドエラーを繰り返しても、半分わかったとも思えないどころか、ほんの序章がわかったという感覚もない。ただし、何かが積み上がっていく感覚だけはずっとあるのだ。

飽和を待っているのか。
それとも積み上げても積み上げても永遠にわからない何かをわかろうともがいているだけなのか。
せめてそれだけでもわかればと思う。
でも、それすらもわからないのが生きることなのだろうと、そろそろ諦めはじめている。これが歳を取るということなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?