目的あっての形

1. 大香炉の前に歩み寄り、抹香をわしづかみにして、それを投げつける信長。

みんなから馬鹿呼ばわりされる中、唯一の理解者だった父信秀を失った少年時代の信長のエピソードである。

彼は葬式が嫌いだった。

僧侶を三百人も集めてお経を唱えても父は戻ってこない。かといって僧侶を始め、心から父を悼んでいる者がいるようにも思えない。

そんな無意味なものを有難がっている大勢のものが馬鹿に見えて仕方がなかった。

そんな彼が後に伝統という無意味な形の否定に走り、京都の寺社勢力と対立していく…。

冒頭の行動はそんな彼の生き方の現れといえる。


そんなことを小説「国盗り物語」の中で司馬遼太郎氏は言及していたのを思い出した。

2. グループディスカッションをする際、最近は意識して仕切る役割を引き受けることは昨日のブログで述べた通り。
自分のやり方は以下の通り、

まず役割を決める。会社でいうところの役職だ。

次に意見が割れた場合には過半数で決めるといった意思決定の方法を決める。会社で言えば、取締役会、会議、ミーティングでの意思決定のルール作りだ。

次に課題に課せられた時間に関するスケジューリングや包装紙で発表する場合には、その書き方といった会社でいうところの段取りを決める。

その上で、課題に取り組むのだか、その際、課題の内容によって、こちらが主導して方向性を示した上で進めていくトップダウンのやり方で行くか、例えばメンバーにポストイットを渡して考えを書いてもらった上でまとめていくボトムアップで行くかといった運営方針を決める。

これらは一般に会社組織に欠かせない要素やプロセスである。
ではなぜこういったものがあるのか。

それは課題を解決するため。この場合の課題の解決を目的や目標の達成と言い換えてもいい。

つまり、目的や目標があって初めて、集団が組織になる。

3. そしてその目的や目標の内容によってはある役職がいらなかったり、ルールが簡単になったり、タイムスケジューリングをそこまで考える必要がなかったり、トップダウンでいけるなど、そのあり方も当然変わる。

にもかかわらず、世の中見渡すと、例えば、実際は部長や課長、警備業の場合だと隊長で十分なのに、余った人間がかわいそうだからといって部長代理だとか、課長代理、警備業の場合だと隊長代理といったどうでもいいポストがどんどん出来ている。

また従業員間の親睦を深めるための忘年会なのに、全員強制参加でお酒は飲まなきゃいけなく、かつ若手に宴会芸を義務付けた結果、かえってベテランと若手が対立してしまうなど、固定観念の悪弊に縛られる場面が多々みられる。

信長がその様を見れば、ただの馬鹿にしか見えないだろう。

そういった下らないことをしないためにも、その役職なり催し物が組織にどういった意味があるのか、を常に考え、意味がないと判断したものについてはバッサリ切り捨てることも考えていこうと思う。

目的のためには形や変な伝統に囚われない発想でいきたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?